4 ラグヒルド城
翌日。
朝食の場に姿を現した旦那様は、すでに私がいるのを目にしてパッと顔を輝かせた。
「おはよう、リア」
朝一番の甘すぎる声に、否が応でも昨夜のやり取りが思い出される。と同時に、ぼぼぼ、と顔が熱くなる。
ずっと私に片想いしていたとか、諦めることができずに一生独り身でいることを決意していたとか、私以外何もいらないしこれから一緒にいてくれるだけで幸せだとか、信じられない甘いセリフをこれでもかというほど並べられた挙句。
最後には「俺に溺れてほしい」なんて殺し文句をささやかれて、一瞬だったとはいえキスされてしまったのだ。
あのあと私は軽い酸欠状態に陥り、脳内は当然大パニックだった。
予想外すぎる怒涛の展開にいつまで経っても動揺と混乱は収まらないし、それどころか心臓がドコドコバクバクと勝手に暴れ回って落ち着かない。こんなんじゃ、とてもじゃないけど眠れそうにないなんて思っていたのに、気づいたら窓の外で小鳥がちゅんちゅん鳴いてるんだもの。
自分の神経の図太さに、驚愕の朝。
いや、長旅で疲れていたからだと思いたい。
そんなあれやこれやを頭の隅に浮かべつつ、平静を装いながら「おはようございます、旦那様」と応えると、一瞬で彼は不満げな顔になった。
「リア」
「は、はい。なんでしょう?」
「『旦那様』なんて他人行儀な呼び方じゃなくて、俺のことは『ゼノ』って呼んでほしいんだけど」
「……え」
切なげに訴えかける視線が痛い。
旦那様、いや、ゼノ様は、唖然としている私を食い入るように見つめながら、返事を待っている。
「……あー、では……。ゼノ様」
「『様』もいらないよ?」
「それはその、いきなりは難しいので、追々ということで……」
私は中途半端な薄笑いをしながら、なんとか誤魔化してみる。
初っ端から呼び捨てなんて、ハードル高すぎない?
だいたい、元婚約者のマリヌスとはこんなドキドキなやり取りなんて皆無だったんだもの。何をどうすればいいのか、てんでわからない。経験も免疫もないから、いろんな意味でダメージを食らってしまう。
「じゃあ、早く慣れてね」
ゼノ様はにっこりと余裕の笑みを浮かべながら、席に着いた。
食事の最中もゼノ様の熱い視線はずっと私に向けられていて、なんだかそわそわしてしまう。
それが終わると、今度は当主であるゼノ様自身が屋敷の中を案内すると言い出した。
得体の知れない魔獣が生息するという『フラムの森』に隣接する、ラグヒルド辺境伯領。領主の屋敷が城や要塞に近い堅牢な造りをしているのは、魔獣が領内へ侵入するのを防ぐためでもある。
だから辺境伯邸は、「ラグヒルド城」とか「辺境伯の砦」などと呼ばれているらしい。
「城は大きく三つに分かれていて、今いるのは東館。俺たち夫婦の寝室や子ども部屋、さっき食事をしたダイニングルームや特別なゲストのための客室なんかがあるんだ。まあ、いわば辺境伯家のプライベート空間といったところかな」
うれしそうに淀みなく説明するゼノ様をぼんやりと眺めていたら、唐突に投げ込まれた「俺たち夫婦」という言葉に意識を全部持っていかれた。
いや、もちろん、辺境伯領にきた時点で私はゼノ様に嫁いだことになるわけだし、用意周到な王太子エヴェラルド殿下が手続きやら何やらをあっという間に滞りなく終わらせてくれたから、いくら初夜を済ませていないとはいえ確かに私はアウレリア・ラグヒルド、正真正銘辺境伯夫人ということになる。
で、でも、「俺たち夫婦」という言葉に、ここまでの殺傷能力があったなんて……!
またどこどこと勝手に心臓が暴れ出して、そのあとのゼノ様の説明などまったく耳に入ってこない。
その後、執務室や応接室に加えていくつかの客室が並ぶ南館、使用人や騎士団員の居住スペースである西館と順番に案内され、最後に連れていかれたのは城の外だった。
見渡すと、屈強な男性たちが何人も集まって和やかに談笑している。
「ここは俺たち辺境伯騎士団の訓練場なんだ。ちょうど朝の鍛錬が終わったところだな」
私たちが近づいていくと年若い騎士の一人がいち早く気づいて姿勢を正し、「おはようございます! 団長!」と勢いよく挨拶する。
その声で訓練場にいた全員が弾かれたように姿勢を正し、まったく同じ口調で「おはようございます、団長!」と挨拶する。すごいシンクロ率である。
私の手を引いていたゼノ様は、さりげなくその手を私の腰に回して、ぎゅっと引き寄せた。
「みんな、改めて紹介しよう。俺の妻、アウレリアだ」
いきなりのゼロ距離とどことなく誇らしげな声が紡ぐ「妻」というワードに、またしてもどきりと心臓が跳ねる。
と同時に訓練場全体が「おぉ〜」とどよめいて、憧憬と敬慕のまなざしが一斉に向けられる。
そこには、敵意や反発といった悪感情は一切見られない。昨日、侍女のリーンが言っていた「辺境伯領の者は全員、奥様がいらっしゃるのを心待ちにしていたのです!」という言葉は、あながち嘘ではなかったらしい。
「夫人、ようこそラグヒルドへ!」
群がる騎士たちの中から一歩前に出たのは、ゼノ様に負けるとも劣らない長身の偉丈夫だった。さらりとした焦げ茶色の髪を後ろで束ね、にこやかに笑う顔はどことなくゼノ様を彷彿とさせる。
「俺は辺境伯騎士団副団長、グイド・プリスカと申します。以後、お見知りおきを」
「グイドはプリスカ伯爵家の次男で、俺の従兄でもあるんだ」
ゼノ様の言葉で、なるほどと納得する。どうりで、そこはかとなく似ているわけだ。
「プリスカ伯爵家には父の姉が嫁いでいてね。領地も近いから、幼い頃はお互いの屋敷を行き来してよく遊んでいたんだよ。グイドのきょうだいと一緒に、四人でね」
「四人、ですか?」
「俺には、兄と妹がいるもので」
「グイドの妹は君の一つ年下なんだ。マルティナっていうんだけど」
言われて、ふと考える。
そういえば学園時代、プリスカという名の令嬢がいたかもしれない。でも学年が違うと校舎も違うから、顔を合わせる機会はほとんどなかったように思う。
「君とマルティナは年も近いし、いい話し相手になるんじゃないかな」
ゼノ様はそう言って、ふわりと微笑む。
その瞬間、さっきよりも大きくどよめく訓練場。居並ぶ騎士団員たちは口々に、「だ、団長があんなふうに笑うなんて……!」とか「俺たちには鬼みたいに厳しいのに!」とか「団長にも人の心があったんだ……」とか言って騒いでいる。いやいや、人の心くらい、あるでしょう……?
「お前のそんな顔を拝める日がくるとはな」
「うるさい」
気心の知れた従兄が可笑しそうに揶揄うと、ゼノ様はむすりと不服そうな顔をする。
「夫人、ゼノはちょっと一途すぎるというか、あり得ないほど愛が重いので鬱陶しいと感じることもあると思うんですけど、こいつには夫人しかいないので大目に見てやってくださいね」
「グイド、余計なことを言うなよ」
「余計じゃないだろう? 俺はお前のためを思って言ってやってるんだぞ」
けらけらと笑うグイド様に釣られて、ふっと表情を緩めるゼノ様。そのガーネット色の瞳が私を愛おしげに見つめるから、私の心臓はまたおかしな具合に跳ね上がった。




