10 「笑ってて」
発生したのは、中規模のスタンピードだったらしい。
魔獣はフラムの森の奥深くに生息しており、森の大半が警戒区域とされている。スタンピードとは、数十匹とも数百匹ともいわれる魔獣の群れが、一気に警戒区域の外に現れることをいう。
討伐隊は日頃の訓練の成果を発揮し、幾人かの負傷者を出しながらも難なく魔獣の群れを一掃することができたらしい。早々に帰還の準備をし始め、意気揚々と野営地を出発した瞬間、それは現れた。
大きな翼と鋭い鉤爪を持った魔獣が突如飛来し、討伐隊を襲ったのだ。
真っ先に魔獣に気づいたゼノ様は単身応戦し、魔獣に一太刀浴びせたあと、死に物狂いで反撃してきた魔獣の爪に左肩を切り裂かれてしまう。
運悪く、その爪には強い毒が含まれていた。
毒はあっという間にゼノ様の体内を駆け巡り、神経を冒した。深手を負った魔獣が飛び去っていくのを見届けた瞬間、ゼノ様はその場で意識を失ったという。
そのまま屋敷に運ばれてきたゼノ様は、私がどれだけ呼びかけても、強く揺さぶっても、全然反応しなかった。
「奥様、申し訳ございません……!」
頭を下げたグイド様自身も、右足を引きずっていて痛々しい。
「ゼノは、足を怪我して動けなかった俺に代わって、あの魔獣に向かっていったんです。俺が動けていれば、こんなことには……!」
副団長のグイド様は常に前線に立ちながら、騎士団員たちを指揮する重要な役割を担っている。魔獣との戦闘には慣れていても、前線に立ち続ける以上、強烈な一撃を受けることもまた多いのだという。
「グイド様も怪我をされたのでしょう? あちらに医師も控えております。一刻も早く治療を」
「し、しかし奥様……!」
「ゼノ様なら、大丈夫ですから」
精一杯の笑顔を見せる。今はそれしかできない。
ゼノ様を診てくれた医者によれば、目が覚めるかどうかは五分五分とのことだった。なんせ近頃の魔獣の毒は、質が悪いのだ。有効な治療法はなく、本人の生命力に頼るしかないらしい。
そして、目が覚めたとしても、後遺症が残る可能性もまた否定はできない。
絶望的な状況に、私は打ちのめされていた。
「大丈夫だって、言ったじゃないですか……」
虚しい抗議は、目の前で横たわるゼノ様に届かない。
いつものようににこやかな笑顔を見せて、当たり前のように私を引き寄せ、甘いセリフをささやくことをしないゼノ様が、そんな現実が、どうしても信じられない。
時折苦しそうに顔を歪めたり、小さく「うぅ……」と唸ったりする様をすぐそばで見守りながら、その呼吸を確かめることでほんの少しだけ安堵する毎日がしばらく続いた。
そんなある日。
「ゼノの意識がないって、ほんとなの!?」
二度と城に足を踏み入れるなと言われていたはずのマルティナ様が、血相を変えて飛び込んできたのだ。
「マルティナ様、こちらにはもういらっしゃらないようにと旦那様が――」
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょう!? ゼノに会わせてよ!」
「いや、しかし……」
バートの制止を振り切って、マルティナ様は強引に城の中へと突入する。
「おい、マルティナ! 何をやってるんだ!?」
医師の治療を受け、邸内で療養していたグイド様も騒ぎに気づいてマルティナ様を引き止める。
「お前、もう城には来るなって――」
「だって! ゼノが魔獣にやられて意識がないって聞いたんだもの! 看病するくらいいいでしょう!?」
「は? なんでお前が看病するんだよ? ゼノには奥様がいるんだから――」
「あんな女に任せておけるわけないじゃない!」
東館の入り口辺りでそんなふうに大騒ぎしていれば、嫌でも言い争う声は聞こえてくる。
私は眠ったままのゼノ様を残して、するりと寝室を出た。
「……マルティナ様」
現れた私を見て、その場にいた全員がなぜか息を呑む。
「何を騒いでいらっしゃるのですか?」
「あなた……」
マルティナ様は、眉をひそめて私を凝視した。
でも次の瞬間、いきなり激昂し始める。
「あ、あなたのせいで、こんなことになったのよ!」
「……私のせい……?」
「あなたが来るまで、ゼノが魔獣にやられることなんて一度もなかった! こんな大怪我をすることもなかったし、魔獣の毒を食らうことだってなかったのよ! 何もかも、あなたみたいな疫病神が辺境伯領に来たせいじゃないの! 全部あなたが悪いのよ!」
狂ったように泣き叫ぶマルティナ様に向かって、グイド様が「いい加減にしろ!」と怒鳴りつける。
「言いがかりをつけるのはやめろよ! 奥様のせいなわけないだろう! 奥様がどれだけ心を痛めているか、わからないのか!?」
「だって、この女さえここに来なければ、ゼノは私のものになるはずだったのよ! ゼノと結婚して私が辺境伯夫人になるはずだったのに、この女が全部横取りしたんじゃないの! それなのにゼノをこんな目に遭わせるなんて、許せない! さっさとここから出て行ってよ!」
激しく取り乱し、泣きながらその場に崩れ落ちるマルティナ様。
そんな妹を、グイド様は呆れたように宥めている。
「……奥様。部屋に戻りましょう」
そばに控えていたリーンが、近づいてきてそっと耳打ちした。
「マルティナ様のことは、グイド様やバートに任せて大丈夫ですから」
「でも……」
「今は旦那様のおそばについてあげることが、奥様の一番の仕事です。旦那様が目を覚まされたとき、奥様がそばにいなかったら多分泣くと思いますよ」
「……ゼノ様が?」
「はい」
こんなときだというのに、リーンはちょっと可笑しそうに微笑む。
その言葉は、まるでこの先に起こり得る未来を確かに知っているかのようで、気休めだとわかってはいても、なんだかすごく心強かった。
◇・◇・◇
ゼノ様が魔獣の毒を受けてから、一週間が経った。
その間、左肩の傷口は少しずつ塞がってきたものの、ゼノ様自身に大きな変化はない。
私は毎日淡々と傷口に薬を塗り、額の汗を拭き、呼吸を確かめ、そのたびに手を握ったり声をかけたりしていた。
「ゼノ様、そろそろ起きてくれませんか……?」
小さくつぶやいても、返事はない。
私はベッドサイドの椅子に座って、いつものようにゼノ様の手を握る。
「ずっと寝ているのも、飽きてきたでしょう? そろそろ私も、ゼノ様の声が聞きたいんですけど」
宙を漂うだけの乾いた自分の声に、思わずぶわりと涙が溢れる。
「ゼノ様……」
絞り出した声には、涙が滲んでいた。
「目を、覚まして……」
涙は静かに頬を伝って、ぽとりとゼノ様の指先に落ちる。
「お願い、一人にしないで……」
ぎゅっとゼノ様の手を握りしめたそのとき、指先がかすかにぴくりと動く。
「…………リア?」
掠れた声に、がばりと顔を上げた。
「ゼ、ゼノ様……!?」
「……リア、泣いて、るの……?」
虚ろなガーネット色の瞳が、じっと私を見据えている。
「……だれが、泣かせた……?」
「え……?」
「だれが、リアを、泣かせたんだ……? おれが、今すぐ、始末して――」
「ゼ、ゼノ様です! ゼノ様じゃないですか……!」
「お、おれ……?」
「ゼノ様が、起きてくれないから……。全然目が覚めないから、もしかして、ずっとこのままなんじゃないかって……!」
「リア……」
「ゼノ様がずっとこのままだったらどうしようって、もう私、どうしたらいいのかわからなくて、それで――!」
「ごめんね、リア」
言いながら、ゼノ様はわずかな力で私の手を握り返す。
「でも、もう、大丈夫だから。泣かないで……」
「ゼノ様……!」
「リアは、笑ってて」
穏やかな顔でそう言ったゼノ様は、またすうっと眠ってしまった。
――笑ってて、なんて。
ゼノ様がいなかったら、もう笑うことも喜ぶことも楽しむことも、幸せと感じることすらできないというのに。
まともに呼吸をすることさえ、覚束ないというのに。
そんな自分を、ようやく自覚した。




