第七話
アメティスタの主都、ヴィオレータ。
紫に染まる夕空の下、石畳の通りには花売りの声や少年たちの笑い声が響いていた。
大通りの奥に、一つ、大きな建物がある。赤茶色のタイル屋根に、アーチ窓。扉の上に盾型の立派な紋章の彫刻。
此処は、サン・アウレオ病院。アルヴィーゼがセーラに紹介した場所だ。
「……もう慣れたかい?」
壁から姿を現す深緑のマント。
「アルヴィーゼさん! 忙しいのに、わざわざ……」
「まあね、セーラが気になってさ」
「おかげさまで環境に恵まれて、楽しいです」
「良かった。……今日はちょっとだけ様子見に来ただけだから、もう行くね」
セーラは頷く。
アルヴィーゼは途中で振り返り、満面の笑みで手を振った。セーラも含羞みながら振り返す。
姿が見えなくなった頃、後ろから両肩を軽く掴まれた。
「ねえ、セーラ! あの方とお知り合いなの?」
「え?」
「アルヴィーゼ様、あのヴァラノ家の御子息でしょう?」
「見目麗しくて、素敵よね」
「ああ……たしかに……」
「よく此処にも来てくださるし、本当にお優しい方」
「アルヴィーゼさんが?」
「えっ、知らないのセーラ。此処はヴァラノ家の持ち物なのよ?」
「えっ、あっ……そ、え、知らなかった……」
一人が企んだように顔を近づける。
「ねえ、もしかして、恋人だったりして!」
「え!? そんな訳ないわ、わたしなんかが……」
「ええー、あんなに親しそうにしてたじゃない!」
すると、手を叩く音がした。
「はいはい、お喋りはおしまいにして、そろそろ仕事に戻りなさい」
同僚たちは聞き足りないと、口を尖らせながら持ち場に戻って行く。セーラは苦笑した。同時に、優しい同僚たちに囲まれて、幸せを感じていた。
◇
フリーシア、ヴァラノの別宅。
アルヴィーゼは洋筆を回しながら、思いに耽っていた。
各地を巡り巡っている間、この大陸には大きな変化が訪れた。最近というか、近年のアメティスタは本当に不安定な状態だ。
アメティスタは、大陸の南に位置する王国。王室の内部闘争が激しく、貴族や領主をも巻き込んだため、国民は不安を抱えている。国の中心に大きな城塞都市が存在している。他国と違い、貴族の勢力が小規模である代わりに領地を持つ豪商が多い、それがアメティスタだ。
だが、貴族が無駄に力を付け始めている。厄介なことだ。アメティスタは商業で成り立ってきた国。有力者や権力者には商人の出身しかいない。元より、身分の差はないのだ。王家とて、一人の名もなき傭兵から始まったのだ。商人ですらなかった。そもそも、世界の初めから王家だった一族など歴史に存在しない。人間とは面倒なものだ。伝統だなんだと言って、力を持ちたがる。ああ、うんざりだ。国の均衡が崩れていくだけだというのに。
「若様」
「……いつになったらその呼び方やめてくれるんだ?」
「貴方が、ヴァラノを継がれるまで」
「はあ、話にならないよ。ところで何だい? 何か用でもあるのか」
「お客様がお見えになっています。お通ししますか?」
「分かった、通して」
数分の後、一人の女性が入ってきた。
「ん……? 貴女は?」
「突然伺いまして、大変申し訳ありません。わたくし、クラリーチェ・メルリーノと申します」
「メルリーノ? ……ああ、子爵家の?」
「え、ええ。陛下の秘書官を務めております」
「ほう、貴女が。……ところで、私なんかになんの用です?」
そうアルヴィーゼが問うと、クラリーチェは事の次第を話し始めた。
「つまり、国王を助けて欲しいと?」
「はい、その、通りです」
「それはまた大層な……。ところで、何処で我が家の、ヴァラノの自警団の話を?」
「ええと、ドナティ家の御子息の方が……」
舌打ちするアルヴィーゼ。
「……ジョアンの奴め」
「その……今、王都が大変なことになっていて。陛下だけではなく、保守的な貴族や豪商として知られる有力者の方々も相次いで牢に捕らえられている状況でありまして、」
「まさか、父達も?」
「ええ……」
「身動き取れる人間が殆ど居ないってことか。困ったものだな。たった数週間離れていただけなのに、何でこんな。はあ……首謀者は伯爵でしたか。元は商家の癖に、貴族だなんだと面倒くさい奴らめ」
アルヴィーゼの独言は止まらない。
「何でもかんでも他国の真似をして、合わせようとするから面倒なことになるんだ。今や、自立した商人の国たるアメティスタは影も無い。余計な制度やら階級やら作るから……全く」
「あ、あの⋯⋯」
「ああ、すみません。こんな事を女史に言っても仕方の無いことですね。失礼しました。……さて、どうしたものか」
「すみません、無理を申し上げて」
クラリーチェはすまなそうに肩を竦めた。
「貴女が謝ることじゃあ、ありません。……はあ、父や母は助けなければなりませんし、仕方ないですね、尽力しましょう。まあ、どうなるかは分かりませんが」
「……ありがとう存じます」
◇◇
夜、霧の立ち込める中、扇動された民が城に潜り込む。
あれはきっと、門を破壊する音。窓から見下ろすと、松明の火が遠くで揺らめいている。
ああ、怒号が聞こえる。
今宵が、俺の最期。この無意味な人生に幕を下ろす時。
「王は何処だ──っ!」
粗末な服、手には農具。彼らを、利用するとは……。
「俺を捕らえたいのなら、好きにすればよい。殺したいのなら……」
「五月蝿い!」
鋭い衝撃が走る。
「う……あ、あ……」
脇腹をナイフで刺されたようだ。案外、痛みは感じない。すべてが麻痺したようだ。酷く眩暈がする。
「ああっ、陛下! 陛下っ!!」
家臣の悲鳴を聞きながら、意識は彼方へと消えていった。