表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

ルシフェルの祈り

作者: 神井


 宵の教会は、昼とは別の場所のようだった。誰もいないはずの告解室は、蝋燭の光の残り香と古い木のきしみだけが漂っている。

 神父は、自分の掌を見つめていた。

――この手は、本当に神のために使われているのだろうか?

 今日も形式的な言葉で何人もの告解を聞いたが、誰にも「信じている」とはっきり言えなかった。


――いけない。こんなことを考えるのは。

 そう思いながらも、胸の奥に沈殿していく疑念は、祈りでは拭えなかった。

「正しさ」とはなんだろう。

 教会が語る「善」と、心が感じる「真実」は、ときに重ならない。目を閉じ、ため息をつく。

 夜の深さに飲まれるように、意識が遠のいていった――



 神父は目を覚ました。硬い木の椅子の上で、頬に手を当てたまま寝ていたのだろうか。

 深夜。教会の鐘は鳴らない。ただ、空気は冷えていた。

 ……こんな時間まで、何をしていたのだったか。

 背を伸ばし、呻くように立ち上がったそのとき、ふと、隣室の格子戸がそっと閉じられる音がした。

 胸の奥が妙に静かになった。

――誰かが、そこにいる。


「私の懺悔を……聞いていただけますか」

 その声は、低く澄んでいた。人の声のはずなのに、どこか空の上から降ってくるような響きがあった。

 木製の格子戸の向こうで、誰かが膝をつく音がした。

 その瞬間、神父は呼吸を忘れた。これは人ではない、と即座に悟った。けれど、悪鬼のような穢れも、狂気もない。

 むしろ、澄んでいた。清らかすぎて、痛ましく感じるほどに。

 ――空気が変わった。香のような気配。血のように赤い、しかし燃えるような祈りの匂い。

 やがて、声がもう一度、優しく、けれど抗いがたい響きで問うた。


 「……神父どの。聞いていただけますか? これは、わたしの懺悔です」


 神父は胸の十字架に手をやり、そっと目を閉じた。

 声の主を疑うことはできなかった。

 この世のものではない――だが、どこか深い悲しみと、純粋な祈りのようなものがある。

 やがて、その者は静かに答えた。


 「……よろしい。お話しなさい。主は、あなたの心を見ておられる」


 格子の向こうで、気配がわずかに動いた。


 「ありがとうございます。では、罪の告白を……

  わたしは、天より落とされました。

  罪状は、“神を、あまりに愛した”ことです」


 その言葉に、神父は返す言葉を失った。


 「天の掟を破ったわけではありません。ただ、神にあまりに近づきたくて……

  神の御名を唱えるたび、痛みに似たものが胸に広がりました。

 賛美の歌が終わるたび、深い寂しさが残るのです。

 その御前に在るとき、私はただ、誰にも知られたくなかった。神の光の中に、私だけでいたかった。

 これは……愛ではなく、執着だったのでしょうか?」


 語りながら、声は震えてはいなかった。懺悔というより、祈りのような告白だった。


 「けれど、気づいたときには――わたしは“堕ちて”いました」


 神父は息を詰めた。彼の信じてきた聖典には、“神を愛しすぎた者”など、罪人としてすら書かれていない。

 その愛が正しいかどうかは、神しか知らない。

 だが――


 「それでも、あなたは……まだ神を信じているのですか?」


 尋ねる声が、神父自身の弱さからこぼれた。

 格子の向こうで、わずかに沈黙があり――やがて、懐かしさに似た柔らかな声が返ってきた。


 「……はい。いまでも。

  だからこうして、祈りに来たのです。

  わたしの祈りは主に届かずとも、わたしの祈りは主のためにある。あなたは主の御声を知る者として、主に捨てられた者の声も、主の御前に運べますか?」


 神父は、手に持った十字架を強く握った。

 ――この者は、罪人か? それとも、愛しすぎた者か?

 天から落ちた者が、地上でいちばん美しい祈りを捧げているのかもしれない。

 格子の隙間から、わずかに冷たい風が吹き込んだ。

 神父は、静かに息をついた。告解者の言葉は、どこか人間的で、それでいて、人間離れしていた。


「……それが罪であるかどうか、私には判断できません」

抑えた声で、神父は答える。

「ただ――主は憐れみ深く、傷つく者の祈りを忘れられません。その名が地に刻まれていなくても、その魂は、まだ天を見ているのです」


 本心では分からなかった。この告白は神への冒涜か、それとも限りない忠誠か。自分が答えていい問いなのかすらも。

 告解室の仕切り越しに、微かな息遣い。しばらくの沈黙のあと、堕天使の声が、静かに降ってくる。


「………ご傾聴、感謝申し上げます。これが最後の懺悔であるとしても、悔いはありません」


 それだけを残し、気配がふっと消える。ドアが開く音も、足音もなかった。


 神父は、祈るふりをして拳を握りしめた。心臓が、静かに早鐘を打っていた。

 あれは――この世のものではなかった。

 おそるおそる告解室の扉を開け、告解者が座っていたベンチを覗く。誰もいない。

 だが、その場に――白く、細く、透けるような羽根が一枚だけ、落ちていた。

 神父はそっとそれを拾い、見つめる。それはどこまでも軽く、指先の熱すらすり抜けるようだった。

 言葉は持たなかった。ただ、しばらくのあいだ目を閉じた。






fin.

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
私の直感ですが、長編向きです! 神を愛しすぎたから堕天、主人公の神への不信感、これがクロスする点が本当に良いところですよね。 (ネタバレになるかと思って書けなかったんです↑) 小説を書いたことはな…
この作品は、宗教の根本に流れる静けさ、それをうまく書き表したように思えました。 もちろん、これは私の勝手な宗教観からくるものではあります。 しかし、その静けさの水面に、主人公の想いが水滴のように垂れる…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ