ルシフェルの祈り
宵の教会は、昼とは別の場所のようだった。誰もいないはずの告解室は、蝋燭の光の残り香と古い木のきしみだけが漂っている。
神父は、自分の掌を見つめていた。
――この手は、本当に神のために使われているのだろうか?
今日も形式的な言葉で何人もの告解を聞いたが、誰にも「信じている」とはっきり言えなかった。
――いけない。こんなことを考えるのは。
そう思いながらも、胸の奥に沈殿していく疑念は、祈りでは拭えなかった。
「正しさ」とはなんだろう。
教会が語る「善」と、心が感じる「真実」は、ときに重ならない。目を閉じ、ため息をつく。
夜の深さに飲まれるように、意識が遠のいていった――
神父は目を覚ました。硬い木の椅子の上で、頬に手を当てたまま寝ていたのだろうか。
深夜。教会の鐘は鳴らない。ただ、空気は冷えていた。
……こんな時間まで、何をしていたのだったか。
背を伸ばし、呻くように立ち上がったそのとき、ふと、隣室の格子戸がそっと閉じられる音がした。
胸の奥が妙に静かになった。
――誰かが、そこにいる。
「私の懺悔を……聞いていただけますか」
その声は、低く澄んでいた。人の声のはずなのに、どこか空の上から降ってくるような響きがあった。
木製の格子戸の向こうで、誰かが膝をつく音がした。
その瞬間、神父は呼吸を忘れた。これは人ではない、と即座に悟った。けれど、悪鬼のような穢れも、狂気もない。
むしろ、澄んでいた。清らかすぎて、痛ましく感じるほどに。
――空気が変わった。香のような気配。血のように赤い、しかし燃えるような祈りの匂い。
やがて、声がもう一度、優しく、けれど抗いがたい響きで問うた。
「……神父どの。聞いていただけますか? これは、わたしの懺悔です」
神父は胸の十字架に手をやり、そっと目を閉じた。
声の主を疑うことはできなかった。
この世のものではない――だが、どこか深い悲しみと、純粋な祈りのようなものがある。
やがて、その者は静かに答えた。
「……よろしい。お話しなさい。主は、あなたの心を見ておられる」
格子の向こうで、気配がわずかに動いた。
「ありがとうございます。では、罪の告白を……
わたしは、天より落とされました。
罪状は、“神を、あまりに愛した”ことです」
その言葉に、神父は返す言葉を失った。
「天の掟を破ったわけではありません。ただ、神にあまりに近づきたくて……
神の御名を唱えるたび、痛みに似たものが胸に広がりました。
賛美の歌が終わるたび、深い寂しさが残るのです。
その御前に在るとき、私はただ、誰にも知られたくなかった。神の光の中に、私だけでいたかった。
これは……愛ではなく、執着だったのでしょうか?」
語りながら、声は震えてはいなかった。懺悔というより、祈りのような告白だった。
「けれど、気づいたときには――わたしは“堕ちて”いました」
神父は息を詰めた。彼の信じてきた聖典には、“神を愛しすぎた者”など、罪人としてすら書かれていない。
その愛が正しいかどうかは、神しか知らない。
だが――
「それでも、あなたは……まだ神を信じているのですか?」
尋ねる声が、神父自身の弱さからこぼれた。
格子の向こうで、わずかに沈黙があり――やがて、懐かしさに似た柔らかな声が返ってきた。
「……はい。いまでも。
だからこうして、祈りに来たのです。
わたしの祈りは主に届かずとも、わたしの祈りは主のためにある。あなたは主の御声を知る者として、主に捨てられた者の声も、主の御前に運べますか?」
神父は、手に持った十字架を強く握った。
――この者は、罪人か? それとも、愛しすぎた者か?
天から落ちた者が、地上でいちばん美しい祈りを捧げているのかもしれない。
格子の隙間から、わずかに冷たい風が吹き込んだ。
神父は、静かに息をついた。告解者の言葉は、どこか人間的で、それでいて、人間離れしていた。
「……それが罪であるかどうか、私には判断できません」
抑えた声で、神父は答える。
「ただ――主は憐れみ深く、傷つく者の祈りを忘れられません。その名が地に刻まれていなくても、その魂は、まだ天を見ているのです」
本心では分からなかった。この告白は神への冒涜か、それとも限りない忠誠か。自分が答えていい問いなのかすらも。
告解室の仕切り越しに、微かな息遣い。しばらくの沈黙のあと、堕天使の声が、静かに降ってくる。
「………ご傾聴、感謝申し上げます。これが最後の懺悔であるとしても、悔いはありません」
それだけを残し、気配がふっと消える。ドアが開く音も、足音もなかった。
神父は、祈るふりをして拳を握りしめた。心臓が、静かに早鐘を打っていた。
あれは――この世のものではなかった。
おそるおそる告解室の扉を開け、告解者が座っていたベンチを覗く。誰もいない。
だが、その場に――白く、細く、透けるような羽根が一枚だけ、落ちていた。
神父はそっとそれを拾い、見つめる。それはどこまでも軽く、指先の熱すらすり抜けるようだった。
言葉は持たなかった。ただ、しばらくのあいだ目を閉じた。
fin.