ほら吹き地蔵 第十夜 往って還る
【お断わり】今回も三題噺ではありません。
ボクのうちの裏庭に、かなりいいかげんなお地蔵さんが引っ越して来ました。
でもまあ、とりあえず、ありがたや、ありがたや。
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三日続けて、おかしな夢を見た。
【第一夜】
山奥のポンプ小屋に、ボクは高校時代の親友を訪ねて行った。
「ポンプ小屋の管理人をしている」と聞かされてはいたが、詳しい事は知らなかった。
さして高い山でもないのに、中腹から上は霧に鎖されている。
山肌は低木と熊笹で覆い尽くされていて、人が通れる道なんて無い。
剥き出しの岩場を、よじ登るしかなかった。両手で鎖を握りしめて。
道は無かったけれど、登攀用の鎖は山頂から麓まで途切れる事なく続いていた。
ポンプ小屋と聞かされていたが、見えて来たのは巨大なアーチ・ダムだった。
コンクリートの塊みたいな建物から、騒々しい機械音が鳴り響いていた。あれがポンプ小屋なんだろう。
近寄ったら、油染みた作業服を着た男が、地べたに、しゃがみ込んで仕事をしていた。
ボクの方から声をかけた。
「おい、比良。比良じゃないか。久しぶりだな。」
「兎平か。何しに来た?」
わが旧友、比良凪男はヨロヨロと立ち上がり、汚れたタオルで手を拭った。
頬がこけ、目の下の皮がたるみ、肌に血の気がない。
水洗いした機械部品が、横にズラリと並べて干してあった。
「そんな嫌そうな顔をするなよ、比良。どうしても妻に会いたかったんだ。」
「聞いてるよ。奥さん、急変したんだってな。お悔やみを言わせてもらうよ。」
「せっつくようでスマンが、比良。一刻も早く妻に会わせてくれないか。」
「兎平よ。おまえ、ホントに何も聞かされてないらしいな。
分かった。こっちへ来い。一から説明してやる。」
ポンプ小屋の重い鉄のドアを開けたら、鼓膜が破れそうな騒音が聞こえた。
比良は先に立って、ずんずん歩いて行き、突き当りのドアを開けた。
雑然としていたが、壁の一面を占める制御盤と、チャート紙をセットした記録計が数台。そして事務机があった。
「まあ、座れよ。」
比良はボクに折り畳みのパイプ椅子を勧め、自分は椅子を回転させてボクと向かい合った。
「手短かに言うよ、兎平。このポンプ小屋では、麓の湖から汲み上げた水を、ダム湖に落としている。赤いのやら、黄色いのやら、黒いのやらの、ドロドロの汚水をね。」
「妻も、そこにいるのか?」
比良は、ため息をついて、首を左右に振った。
「その様子じゃ、口で言っても分からんだろうなあ。こっちへ来いよ。沈澱槽の前で話そう。」
またポンプ小屋を出て、大きなセメント・プールの前に連れて行かれた。
「臭いだろ? 兎平。汲み上げてすぐの汚水は、こんなものなんだ。」
ゆらりゆらりと、ウナギのように長い怪魚が、水中を泳いでいるように見えた。
赤いのやら、黄色いのやら、黒いのやらの、ドロドロとした怪魚が、重なり合い、絡み合い、そしてブクブクと気泡を発生させていた。
「長居は無用だ、兎平。この隣が第二沈澱槽。第一沈澱槽であらまし自然分解させた汚水を、ここで寝かせて、さらに浄化する。その隣が第三、第四、第五沈澱槽だ。第五まで来ると、大抵の汚水は清浄になるね。」
五つの大きなプールの脇を、二人で歩き通すハメになった。
第五沈澱槽はダム湖に面していた。透明な水が、チョロチョロと流れ落ちていた。
「飲んでみろよ、兎平。もう清潔なもんだぜ。雑菌ひとつ、おらん。」
流水をすくって飲んでみたが、まずかった。
「実験用の純水みたいだな。硬くも軟らかくもない。」
「ああ。ミネラル分は無いからね。そもそも、このダム湖には鳥もサカナも水棲昆虫も藻類も、とにかく命ある物は一つも存在しないんだ。」
「社会科見学は、もう十分だ。一体、妻はどこに居るんだ!」
「落ち着けよ。」
比良はボクの顔に視線を据えたまま、ペットボトル入りのジュースを、どこからか取り出した。
「奥さんは、ここに居ると言えば居る。もう居ないと言えば居ない。
このジュースは、ここにあるのかい? それとも無くなってしまったのかい?」
そう言って比良は、ペットボトルの中の物を湖面に注いだ。
黄色い液体が、しばらくは水中を漂った後、やがて薄くなって消えてしまった。
「泣くなよ、兎平。奥さんの肉体は消えたが、水分は消えん。たとえ水蒸気になって、飛んでしまったとしてもな。こうやって往っちゃあ還り、往っちゃあ還りを繰り返してるんだよ、オレたち命あるものはな。」
「それじゃあ、いつまでも終わらないじゃないか、生まれる苦しみも、病む苦しみも、老いて死ぬ苦しみも。何のために、こんな事を続けてるんだ?」
「そりゃあ、いい事をするためだろ?
考えてもみろ。汲み上げる一方じゃ、下の湖は干上がるし、ダム湖はあふれる。
魚も住まない、清潔だがクソまずい水が、下界に還れば再び命を生む。命の母になる。ひと仕事終わってドロドロになったら、また上の方に往く。」
「分かったよ。納得はできないけど、そうするよう努力はする。
一体、誰がこんな仕組みを作ったんだ? このダムのオーナーは誰なんだ?」
「オレは知らん。オレの前任者も知らんと言っていたよ。」
「どうやってポンプを動かしてるんだ? 電力契約の事も知らんのか?」
「放水路の途中に水力発電所がある。電気はそこから引いてる。」
「それじゃ回らんはずだが? すぐにポンプが止まるはずだが? 小学生だって騙せんぞ。」
比良のやつ、ニヤリと笑って言った。
「それが回るんだよなあ、永久に。」
ここで目が覚めた。
【第二夜】
ボクは海だった。意識のある海だった。いや、これを意識と呼べばの話だけど。
ボクは常に姿を変える。
日に照らされて水蒸気となり、上の方に往く。
風に冷やされて雲となり、また、下の方に還る。
往くのも還るのも、全ては太陽のお導きだ。
時には大地を覆う氷となり、
時には大地に浸み込んで、しばし姿を隠し、
時には地表を流れて、また海に還る。
太陽は、ある時は大地をカラカラにする。紙でも火が点くほど。
風が暴れれば豪雨となり、船を沈め、山を崩す。
全ては太陽の働きだ。
この往還に善悪はない。
全ては太陽と風と水の出会いで決まる。
果てしない時の流れの果てに、
太陽はボクをこの星から吹き飛ばしてしまうのだそうだ。
水の往還も、いつかは終わる。
今、この星の命あるものは全て絶え果て、
新しい命が生まれるのだろう。それを命と呼べばの話だけど。
【第三夜】
心臓の痛みに耐えつつ、ボクは、いつの間にか寝入っていた。
夢の中で、ボクは心臓になっていた。
赤い血を体の隅々まで送り込み、
青い血を体の隅々から吸い上げる。
血は生きている。
血が体を生かしている。
血が無くなれば命も無くなる。
心臓が止まれば血も止まり、
血はあっても命が無くなる。
往還するのは血であり、
往還させるのは心臓だが、
どちらも、いつかは無くなる。
往還に善も悪もない。
生死に善悪が無いように。
「くだらん妄想ばかりしていないで、もう起きろ。この世とあの世の往還は、人間が心配する事ではないのだ。おまえたちは水であって、ポンプじゃないんだから。」
そう言って、誰かがボクを夢の世界から引っ張り上げた。
そこで目が覚めた。
またお地蔵さんの心理的介入かあ。