4:呪い
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ちゃぷん、と不思議な音と感覚がして、アルは目を開いた。わっと目の前に飛び込んでくる明かりや、石畳などは何もない。空気だけが違う暗い洞窟が広がっていた。
広い空洞、土肌、天井から降りている鍾乳石、今いる場所は少しだけ高い位置で、左手の崖の下にも道があって、その先にも底の見えない大穴が開いている。ぴちょん、ぴちゃん、と水音が永遠にするのは鍾乳石から滴るものだろう。膜の外はブーツの半分まであった水はここでは地面をしとしと濡らしているだけだ。けれど、足元がしっかり濡れているのであれも夢ではなかった。
『うおぉ、どうなってんだこれ』
ラングのランタンで照らされる光景にアルは楽しそうに笑った。つやつやてらてらとした鍾乳石は白く、故郷のダンジョンにはあった周囲を照らす魔法の苔などもない。ただ、ランタンの明かりだけが全てだ。ラングはその黒いシールドで周囲を見渡した。
『地図が複雑だったのはこういうことだ。足を踏み外すなよ』
なるほど、本当にただの洞窟なのだ。その入り組んだ道は複雑で少し方向感覚が狂えば迷子になるだろう。アルの故郷ではこういったダンジョンはないと言ってもいい。だだっ広い草原エリアがあったり、森や砂漠エリアはあれど、こういった土肌や石畳でできている場合、道がきちんとあって、こんな風に段差が入り組んでいなかった。ソロだったら速攻で迷子になり、泣いていたかもしれない。その点、相棒のラングは方向感覚にも優れ、地図読みにも長けているので一安心だ。
カラン、とラングはランタンを揺らして進み始めた。
『そういや、ここ目的地であってるのか?』
アルが問えば少しだけシールドが揺れて肯定が返された。そっか、とアルは下り坂を滑らないように気をつけながらついて行った。
そもそも、ラングは外専門のギルドラーであってダンジョン専門ではない。アルはダンジョン攻略を楽しむ性質であるが、今回のダンジョン攻略には別の目的もあった。それを語るには少しだけ時を戻らねばならない。
昨年の十二月のこと、ラングはひょんなことから相棒となったアルを連れて自宅に戻った。そこを取り囲んでいた不埒者を一掃した後、新しい太陽、いわゆる新年を迎える年末年始を過ごし、言語のあやふやなアルに教育期間を設け、落ち着きをみせた頃のことだった。暖かい心地よい気候の春も少し過ぎた頃、ラングが【水】に襲われたのだ。
ラングという男は身の回りのことを自分でやる男で、家の掃除、料理、洗濯、風呂掃除と日々のあれこれをその手で済ませる。中でも料理は趣味で、その腕前にはアルもすっかり胃袋を掴まれていた。同居するアルもまた掃除洗濯を言いつけられ、薪割は得意だが掃除は不得意でかなり渋い顔をされもした。得意を分担しようと提案すれば、明らかに自分の負担が大きくなるので却下だ、とはっきり言われ、少々喧嘩もした。洗濯なんてしなくたって、呪い品に頼れば物は綺麗にすることもできる。だが、ラングは手ずからやることを重要視した。
『お前はあまりにも身の回りのことができなさすぎる』
お前は俺のおふくろか、と叫べば、希望があるなら尻を叩こう、と返され、アルは逃げた。即座に追いつかれ本当に尻を叩かれたことは誰にも言えない。めちゃくちゃ痛かった。
閑話休題。そうして互いにすったもんだありながら、言語を勉強し、この世界の通貨に慣れていく頃、事件は起きた。
良く晴れた日のことだ。アルはその日を休息日にしていて、ラングからの言語の勉強も、家事も休める日だった。惰眠を貪ってゆっくりしてやるぞと決め込んでカーテンを閉め切って眠っていた。そんな時、槍が叫んだ。相棒の一人、槍のオルファネウル・ネルガヴァント。名を持つ不思議な槍は意思もあり、持ち主であるアルを幾度となく救ってくれた。特異な槍の叫びにアルは飛び起きた。
「なんだ、どうしたオルファネウル」
パッと手に取れば槍が叫ぶ。ラングが危ない。何事かと部屋を飛び出して階下へ、いつもいるキッチンを見れば今日の昼か、スープが鍋の中でコトコト音を立てており、ラングはそこにはいなかった。外だ、と槍に言われ玄関を飛び出し、ばしゃりという水音の方へ駆けていき、そこに広がっていた光景に一瞬、息が止まった。
井戸で水を汲んでいたのだろうラングが、水の球体の中で溺れかけていた。腰に着けていた短剣を振っても外に届かず、ぐるん、ぐるん、とまるで嵐の川の中にいるかのように自由を奪われ、痛めつけられていた。ガボッ、とラングの口から息が零れたのを見て我に返り、アルは槍を振るった。
ひらく、その特異な性質、オルファネウルという槍はアルの振るった軌跡をそのままひらいてくれた。バツンッ、と水の球が割れ、ざぁぁっと水が降り注ぎ、ラングが地に落ち、ゲホゲホと咽込んだ。ひゅう、と喉が鳴り、飲み込んだ水が吐かれる。慌てて駆け寄ってその背を叩き、周囲を見渡した。敵はいないように見えた。
『ラング! 何があった!』
すぅぅ、はあぁ、と呼吸を整え、ラングは顔を上げた。
『精霊だ』
精霊、それは身の回りを取り囲む全てに宿る自然の意思であり命。アルの故郷では一般的に知られている存在だ。そこでラングは精霊に愛される祝福を受けている。ただ、その祝福はところ変われば憎悪の対象にもなるらしい。井戸から水がざばりと溢れ、アルは槍を構えた。水の塊はグネグネとうねった後、苛立たし気に地面にバシャリと落ち、そこからぬるりと半透明な蛇の姿を創りだした。ちゃぷんと波打つ姿は瑞々しい。
「忌々しい、忌々しい。他の神の祝福を受けた私のいとし子……!」
シャァッと威嚇するように吐き出した言葉をアルは半分しか理解できなかった。怪訝そうな顔をしてしまい、蛇はまた感情任せに大きな口を開けた。びくっとしてしまったが、そっと相棒に尋ねた。
『ラング、あれなんて言ってる?』
『他の神の祝福を受けた……いとし子、だそうだ』
『あぁ、なるほど! え、だめなのか?』
『ダメに決まってるでしょ!』
蛇が言語を合わせてきた。シュウシュウ変な音が混ざっているが、声色は少女のようだ。最初からできるならそうしてくれと思ったこともアルの顔に出たのだろう、蛇はびしりと不愉快をその尾で示した。
『【精霊の道】に入ってどこかに消えたと思ったら! よその神の臭いをつけてきて! あまつさえ戻ってきて私たちに声も掛けず安穏と暮らそうなんてどういう了見なのよ!』
『ラング、説明』
『知らん』
この知らんは説明が面倒くさいの知らんだ。立ち上がったラングの肩を掴み、もう一度説明、と言えば、盛大な溜息はあったもののようやく話した。
【精霊の道】という別の場所に移動する遺跡を、そうと知らずに探索していたラングはひょんなことからアルの故郷に辿り着いた。長くなるので今は割愛するが、そこでラングに祝福を授けた神と、この精霊たちの主である神は相当仲が悪いらしい。結論、だから気に食わない、ということだそうだ。
蛇はびたん、びたん、と地面を叩きながら叫んだ。
『あれほど私の中で溺れても苦しんでも守ってきたというのに、どうして私じゃなくて他の神の祝福を受けるわけ!? 私の可愛いあの子はどこにいったのよ!』
『記憶にないが』
『やめろ、火に油を注ぐな』
止めるアルに対し、事実だ、とラングが首を傾げれば蛇の怒りがさらに増した。そこにヒステリックな女の姿が見えてアルはゾッとした。ただでさえ精霊というのはどこにでもいる存在だ。風は常に身を通り過ぎ、水は飲まねば死ぬ。火は食事を作るのに必要で、大地はその糧をもたらす。だからこそ、アルの故郷では精霊を大事にする信仰もある。ラングの故郷ではそういった精霊に対する信仰はないと聞いた。そして、先程襲われたことでラングの中では敵として認定されたらしい。一先ず間を取り持とうとアルは必死で言葉を紡いだ。
『とりあえず、あのー、悪かったよ。俺の言語習得に忙しかったりして……』
『言い訳は聞きたくないわよ! お黙りなさい!』
アルは言われた通りきゅっと口を閉じた。蛇はぬるりとラングに近寄り、短剣を構えられてショックを受けていた。
『あぁ、あぁ、私の可愛い子が、よその神のせいでこんなに野蛮に』
『いや、それ元から……、それにさっき溺れ……』
『お黙りと言ったでしょう!』
再びアルは口を閉じた。
『いとし子、私の名を呼んでくれればいいのよ、私の腕に抱かれて微睡に沈めばいいの、全部洗い流してあげる』
『死ねと?』
ラングがこっくりと首を傾げ、蛇は違うと言いたげにまたシャァッと息を吐いた。
『祝福を捨てなさい、代わりに私たちが愛してあげる』
『断る、これは私が報酬として得たものだ』
はっきりとした拒絶に蛇はふらりとよろめいた。なんで、わからずや、よその神のせいで、とぶつぶつ言いながら蛇はビチチッと全身から水滴を発した。怒ってるなぁ、とアルはぼんやり眺めていた。
アルの故郷の精霊たちとは随分姿かたち、性格が違うらしい。向こうは人型で、案外とさっぱりした性格で、放任主義だった。声を掛ければ助けてはくれたものの、この蛇のようにねっとりとはしていなかったように思う。あいつら元気かなぁ、ともはや心ここに在らずで槍に寄り掛かるアルをそっちのけで膠着状態は続く。
『意地を張るのはおよしなさい、苦労はさせたくはないわ』
『初対面で殺そうとしてきた相手を信頼も信用もできん』
『洗い流してあげようとしただけよ』
『結構だ』
そう、ラングって結構、かなり頑固なんだよな、とアルは深い溜息をついた。ここにもう一人のパーティメンバーが居れば上手く手綱を取ってくれただろうが、俺には無理だ、とオルファネウルにごつりと頭を当てた。元々【異邦の旅人】はメイン三人、予備一人の四人パーティだ。メインメンバーのもう一人が、ラングとは血の繋がらない弟であり、ラングを上手に宥められる少年だった。諸事情あってここには来ていないが、度々その存在の有難さを痛感する。
言葉を変えあの手この手で誘惑する蛇を眺め、それが故郷の絵本の一つと被る。確かあれは、女を惑わせた甘言、知恵のある蛇だったか。うろ覚えだ。
アルは短剣を構え続けるラングとどうにか懐柔しようとする蛇のやり取りに飽きて欠伸がでた。今日は惰眠を貪ろうとしていたのを思い出し、家に戻ろうと決めた。
『ちょっとあなた! 勝手にどこかに行くんじゃないわよ!』
『お前の槍が無ければ厄介だ、ここにいろ』
お前らそっくりじゃねぇか、とまろび出そうになった言葉を飲み込んだ。そういえば、故郷でもラングは水の性質が強いと言われていたので、なんだかんだ似通っているのだろう。仕方なく再び隣に戻れば、もぞ、と地面が動いて眠気が飛んだ。ひょこっと顔を出したのは、鼻がちょんと伸びた毛むくじゃらの、目がどこにあるかわからない大きな、いわゆるモグラだった。
『お姉ちゃん、あんまりカリカリするといとし子に嫌われちゃうよ……』
見た目とは違い随分と低く良い声だった。口調との乖離も激しいように思え、アルは頭が混乱した。そんなアルの髪をひゅうっと揺らして風が抜け、つむじ風がパッと消えると小さな緑の鳥が現れた。尾羽だけがやたらと長く、頭の先の淡い色味から尾羽に掛けて深いグラデーションに変わっていっている色味は美しかった。
『そうだよ、もうさ、受けちゃってる祝福は仕方ないんだから、理の規定通り対応すればいいでしょ』
こちらは柔らかい少年の声だ。末っ子っぽいな、とアルが観察していれば、ボッ、と音がして煙突から飛び出し、地面にしゅたりと降り立ったのは赤いトカゲ。背中から尾に掛けてじじっと炎が燃えていた。
『そうよ、面倒だわ。いとし子が手放さないと言うのだから余程の苦労があったのでしょ』
トカゲ、野太い男の声の割りにお淑やかな口調だなと思った。蛇とモグラと鳥とトカゲ、突然の登場と喧々諤々やり始めた光景に、さすがのラングも短剣を収めた。
『こういうの、弟が得意そうだな』
『そうだな』
心底疲れた声で返され苦笑が浮かぶ。向こう側では話がついたらしく、モグラが地面に半分埋まったままぺこりとお辞儀し、アルは思わず同じように首を揺らして返した。
『いとし子、ラング、お会いできてうれしいです。姉が失礼しましたね』
まず謝罪、それを受けてようやくラングは胸に手を置き、礼を返した。
『ラングだ。精霊への挨拶が必要とは知らなかった。ここでは精霊を知らずに生きていたのでな』
『そうでしょう、構いません。ただ、あなたはよその神から精霊に関わる祝福を受けているので、我々がいとし子だから、という理由で手を貸すことができません』
『そうか』
『ですので、さくりと申し上げます。試練を受けてもらいます』
試練、とアルが繰り返し、そうです、とモグラの良い声が頷く。
『会いに来てくれるのを、楽しみに待っています』
『……強制か?』
『まさか。けれど、あなたが困るでしょうね』
モグラの鼻先がひくひくと揺れて家の方、キッチンを指した。ハッ、とラングが駆けていきアルが残され、少しの間を置いてラングが同じように駆けて戻ってきた。
『貴様』
『ごめんなさいね、姉のご機嫌を取るのも弟の宿命なのよ』
ちろりと赤い舌を揺らしながらトカゲが困ったように言った。
『では、お待ちしていますよ』
『お姉ちゃんのところから行ってよね、僕ら、怒られたくないから』
『頑張ってね』
『あなたをこの腕に抱ける日を待ってるわよ、いとし子!』
言いたいことだけを言って精霊たちはパシャリと水に変わり、ぼこりと穴を残し、ひゅるりと木の葉を舞いあげ、焦げた臭いを漂わせて消えた。
その日、ラングは趣味である料理ができなくなった。火を起こしても十分に熾きず、熾きたとしても物が焦げる。茶を飲もうにも湯が沸かず、常に水で過ごすことになった。
アルは初めてラングの激しい怒号と暴言を聞いたが、ラングの言語で叫ばれたそれが何を言っているのか全く理解できなかった。
そうして、ラングは致し方なく精霊に会うためにアルとともに旅を始め、水の精霊が居るであろう水の滴るメッティアのダンジョンを探し当て、今に至るのだった。
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