9:水の印
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【異邦の旅人】は武器を収めてから蛇に近寄った。ここまで落ち込まれていると少し声を掛けにくいものがある。先程まで何があったか正しく理解していないが、大きな水の巨人を壊してしまったことで落ち込んだのかとアルは不安になった。ラングの手がアルを制し、事の成り行きを見守ることにした。蛇はめそめそ泣きながら嘆いた。
『どうして……、他の神の祝福をどうして捨てないの……』
『言ったはずだ、これは報酬として得たものだ』
うぅ、と少女の泣き声にアルは居た堪れなくなってきた。ラングは蛇の前に座り、その顔を覗き込んだ。暫く、くすん、くすん、と泣き続けていたが、精霊でも泣き疲れるのかやがて鼻を啜る音に変わった。その頃合いを見計らって、ラングはそっと尋ねた。
「名は何という。蛇ではないのだろう」
蛇はくすん、と器用に鼻を啜るような音を立て、のろのろと起き上がった。諦めがつかない様子で上目にラングを見上げる姿に、黒いシールドが小さく揺れた。
「名を呼んでくれればいい、と言っていただろう」
「覚えていてくれたの……」
ゆらりと嬉しそうに揺れる姿に、アルは乙女の心を見た。言葉の全てをわかっているわけではないが、雰囲気で蛇を懐柔しているのはわかる。アルは槍を抱いて寄り掛かり、またこいつはこうやって女を誑し込むんだ、と赤い水の滴る天井を仰いだ。そんなアルの様子をラングは把握をしていても無視をした。
「約束は守った。名を教えてほしい」
ラングは真摯にそう言った。ラング自身、名の重要性を知っているからこそ、ここは慎重に尋ねたいと考えていた。蛇はゆっくりと顔を寄せ、ラングの胸にその鼻先をつけた。ふわ、と水色の淡い光がラングを包み、霧が晴れるように消えていった。蛇はゆっくりと離れ水辺に近寄っていき、敢えてアルにもわかる言語で呟く。
『教えたいけれど、教えられない。名を呼んでほしいけど、呼んでもらえない。そんな苦しみがもうずっと続いてる。だから、私たちはあなたを探して、見つけて、絶望したの』
ちゃぷりと水に進む。おい、と声を掛けたのはアルの方だ。
『なんかあったのか?』
尋ねられたことが嬉しかったのか、蛇は素早く振り返った。けれど、悲しそうにシュウと息を零し、水にぽちゃんと帰っていった。答えを得られずアルは、なんだよ、と槍を背負い直す。しんとした空気の中、アルはちらりと横を見た。ラングは自身の胸元を撫でて首を傾げていた。
『何された?』
『水の理の印だ。もう水に飲まれることはなさそうだ』
そりゃいい、とアルは安堵を浮かべた後、赤く染まった服にがっくりとした。今すぐ体を洗いたい、だが、周囲を見渡しても赤一色。あの巨人の弾けた跡は悲惨だった。汚した気がして、このまま帰るのも少し気が引ける。そう考えたところでアルは一つ思い至った。
『なぁ、こっからどうやって戻るんだ? 俺たち結構下に流されたよな』
『ちゃんと戻すわよ』
ぬるっと水面に顔を出した蛇にアルは驚きのあまり飛び跳ねて数歩下がった。すっかり話は終わったものだと思っていたが、蛇は中座しただけらしい。反応に不服そうにしながら蛇は透明な小さな石を口に咥えて戻り、アルに差し出した。まさか自分に用があるとは思わず、アルが恐る恐る手を差し出せば、ぺっ、と吐かれ少し粘性を纏った小石が載った。アルの口元は歪んだが小石を放り出すようなことはしなかった。聞けば、魔力を少しでも身に持つアルは印を持つラングと並ぶと殊更精霊に嫌われるらしく、それを防ぐための手段だという。これがあれば湯あみをしている間に溺死することはないらしい。
『生きてると思わなかったから、慌てて取りに戻ったのよ。感謝しなさい。そして飲みなさい』
『聞いた? 殺す気だったって言ったぞこいつ。え、飲む? これを?』
『当然でしょ、持って歩くなんてさせないわよ、貴重なものなの』
ほら、と蛇の尻尾は床を叩く。助けを求めるようにアルはラングを見た。肩を竦め、ラングは桶を取り出すとそこに空間収納に収めてあった水を入れ、シールドを揺らして促した。洗ったからといって飲みたいものではないと文句を言おうとしたが、蛇と相棒に見守られ、本当に飲まないとだめ? 明日にするとか? と駄々をこねながら石を洗う。粘性は取れた。見ているだけなら綺麗な小石だ。大豆程の大きさ、飲むのも辛くはなさそうだが、本当に安全だろうか。不安げな視線にラングが淡々と言った。
『水の精霊石、水の加護、だそうだ。言っていることに間違いはない』
そうかよ、とアルは深呼吸して覚悟を決め、丸薬だと思うことにして小石を飲んだ。ごくりと喉を鳴らして飲み込み、自身に起こる何かにぐっと身構えていたが、特に変調はない。そろりと窺われた蛇は白い目でアルを眺めていた。
『体の中で溶けて混じり合うまで時間が掛かるわ。いとし子はその間、この穢れ……お友達を気に掛けてあげるといいわ』
『アルだ、いとし子はラング』
『そう、そうね、ラング、ラング……』
蛇は噛みしめるように名を呼んでするりとラングに向き直った。
『ラング、今は話せないことが多いの。私たちは理に属するからこそ、守るべき規則とそれを破れば科せられる制約があるの。だから、まずは弟たちにも会いに行きなさい』
『そのつもりだ、料理ができないのは困る』
『そうよ、全員と会わない限りさせないわよ。それでね、会いに行ったら、少しでいいから血を分けてほしいの。できれば私もね』
アルが槍を下ろしてラングの横に立った。ラングはその肩を叩いて槍を収めさせると淡々と尋ねた。
『理由は?』
『いとし子、ラング、本来人の持たないものを持っているでしょ。その血は私たちにとって美酒で、力で、栄養なのよ。話せるのはここまで。貰えなかったとしても怒らないわ』
暫し、ラングは沈黙を求めた。腕を組み顎を撫で、その話せない理由や血を求める理由をラングなりに思案しているのだろう。思いついたかもしれないし、思いつかなかったかもしれない。その結果は置いておいても、恐らく誰でもそうだろうが血を求められるという点においてラングには躊躇する理由もあるのだ。アルの視線がラングの胸に注がれ、黒いシールドが動き、顔を上げる。
『わかった』
そう言うや否やラングはグローブを外し、取り出した短剣を左の手のひらにゆっくりと滑らせ、赤い血を滴らせた。自らを斬り裂く悪趣味な光景であっても、ラングは深く息を抜きながらそれを行うことで呻き声も、緊張も、震えも見せない。その姿に痛覚がないのではと誤解するほどだ。ラングが手を差し出せば蛇は白い鱗に赤を散らせながらまるで鼠を食べるかのように何度か口を開け、それを飲んだ。ラングの手のひらの傷はものの数秒で治っていく。ラングが悩んだ所以だ。その血は少しだけ特別なものを秘めているのだ。しゅる、と赤い舌がまるで唇を舐めるようにして揺れた。蛇が光を纏い宙に浮かび上がり、眩しい輝きを放つ。アルは自身の手を盾にして光から目を守り、その向こうを覗こうとして最後には強く瞑った。
「あぁ、あぁ、いとし子、ラング。ありがとう」
ぽちょん、と水音がした。アルは一瞬、水に全身を叩かれるような冷たさを感じ、どうにか開いた眼に映ったものに感嘆の溜息が零れた。
赤く染まっていた泉が波紋を立てるごとに光すら発し、その色を透き通らせていく。波紋が洞窟全体に広がっているのか天井から降りているクリスタルのようなものが美しい音色を響かせ、土壁だったこの場所に緑が生え、可憐な花が咲き誇っていく光景に鳥肌が立った。光が満ちて、空気が澄んで、アルは理解した。
『精霊の、聖域だ』
思い描いていた聖域がそこにあった。きょろきょろと周囲を見渡し、笑いが零れた。
『すげぇ! ラング、今の見たか! 俺たちの服に飛んでた赤いのも消えてる! 綺麗さっぱりだ!』
『あぁ。これが本来の力だとしたら、なぜそれが今まで発揮されなかったのか』
この男、一緒に感動もしてくれなかった。いや、感動はしているのだろう。それ以上に疑問が勝ってしまった状態らしい。しかし言わんとすることもわかる。これは今まで歩いてきたダンジョン内にも大きな変化を与えたのではないだろうか。未だ少し光を纏いながら蛇は泉の上で佇み、ゆらゆらと揺れてこちらを眺めていた。
『できなかったの。それしか教えられない。これ以上話していると痛い目に遭いそうだから、そろそろ戻してあげるわ。それに、言ったでしょ。美酒なの、倒れて寝たいくらい、眠いわ』
シャア、と蛇が鳴けばここに入る時に見た水色の淡く輝く膜が目の前に現れた。なんとなく、あぁ、ダンジョンの主なのだなと思うと少しだけ不安にもなった。アルの故郷でのダンジョンは、階層を下っていき、階層ごとにボスがいる。そして最下層にはダンジョンボスがいるのだ。冒険者はダンジョンボスを倒し、踏破報酬としてマジックアイテムを得る。このダンジョンは階層を越えるためにボスを倒さない、もし、最下層に辿り着いた者がいれば、狩られるのではないかと思ったのだ。アルのそうした相手を心配する視線はよく伝わる。蛇は少しだけ居心地が悪そうに尻尾で泉の水面を撫でた。
『ここは隔離するから大丈夫よ。それより、そうね、ヒトの子は驚くでしょうね。その辺は上手くやっておいて』
『漠然としてるな……』
アルの呟きを無視して、さぁ、お帰り、と促され、まずはラングが膜へ進んだ。すぅ、と膜に消えていくのは不思議だ。厚さが一センチあるかどうかの鏡のような、水面のようなそれが宙に浮いていて裏側を見てもラングはいない。
『なぁ、これ……』
『さっさと帰って』
水に飲まれ、無理矢理膜に放り込まれ、アルは次の瞬間地面に叩きつけられた。水と共に流れるようにして出てきたアルにラングは小さく溜息をつきながら手を差し出した。それを有難く掴んで立ち上がり、アルは膜が消えるのを眺めた。何をしている、と声に出すのも面倒がられ、アルは苦笑を浮かべて頬を掻いた。誤魔化すように言った言葉も意図がバレているようだった。
『なんとかなったな』
『そうだな。結果として手っ取り早く済んで何よりだ』
サッとラングから視線を外し、空を仰ぐ。暗闇の中で行動していたので時間感覚がずれていたが、空は星が見えていた。最後に明るい場所にいたからか空は黒くて星が少ない。眼が慣れてくればもっとよく見えるだろう。そもそもここはどこだ。
『坑道の入り口、その上の方だな』
まるで聞きたいことがわかるかのようにラングがランタンで周囲を照らし答える。その実、アルがどこだろうなと考えている間にラングはまず確認を済ませただけだ。この警戒心の強さは相変わらず、と思いながら、アルは下を見下ろした。建物の二階程度、飛び降りられる高さだ。帰ろうと足を向ける相棒の肩を掴む。黒いシールドがどうしたと問うように揺れた。こちらへ向き直ったラングにアルはろくろを回しながらまとまらない感想を零した。
『あれだけの力があってできなかった、名前を呼んでもらいたいけど呼んでもらえない、あいつら、何を隠して、何を抱えてんだろうな? ラングは元々魔力がない性質だから、それこそ、俺たちの知ってる奴みたいに生まれた時に祝福を与えていたら、その、なんだろうな、こんな……変なことにならなかったんじゃないか、って思うんだ』
正解はないかもしれない。けれど、胸と頭の奥をむずむずさせるこの違和感を言葉にして、何か少しでも形にして取り出したかった。たとえばそれが大きくて丸い石であっても、あとで正しい形に削っていけば、鍵穴には収まるようになる。そうして開く扉があるならば、それでいい。ラングはこうした問いかけに対し茶化すことはない。マントの中で腕を組み、そうだな、と思案していることを知らせた。黒いシールドの中、視線が移動したのを感じた。
『私を探し、見つけ、絶望したと言っていた』
『あぁ、そうだな。探すなんて今更だと思うけどさ』
『今だから、だったのかもしれん』
アルは首を傾げ解説を求めた。ラングは腕を解き、自身の胸を叩いた。
『今の私だからこそ、求めたのだろう』
『……血か』
アルはぐしゃりと髪を掻き混ぜ、あー、とそれなりに大きな声を上げた。
『俺は悠々自適で美味いもの食いながら旅を楽しんで世界が見たいんだけどな!』
『同感だ。旅のついでに、精霊のところに顔を出してやるくらいの心持ちでいたいものだ』
『そういうことなら許す』
うん、と深く頷くアルに小さく息を零し、ラングがふっと息を吐く。口元そのものは口角すら上がっていないが、弟に教えてもらったところ、これはラング独特の笑い方なのだ。素直に笑うくらいすればいいだろうにと思いもする。けれど、この場所でのラングの在り方がそれを許さないのは何度も理解したことだ。ぐぅっと腕を伸ばし、アルは喉から絞り出すように言った。
『風呂入りたい。あの宿空いてると思うか?』
『戻ればわかる』
そりゃごもっとも、とアルは先に崖を飛び降りた。恵まれた足腰はスタンと着地を可能にし、ラングもふわりとその横に下りてきた。ランタンを掲げて街を目指し歩き始める。
『次の目的地はどこかな』
『調べる。その間、お前は言語の勉強をしろ』
『ちぇ。あ、そうだ、ラング、忘れるなよ。話がある』
『もう終わったことだ』
『終わってねぇから!』
とりあえず戻ったら飯な、と不貞腐れた声を笑うように梟が鳴いた。
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