公爵令嬢は失った恋に囚われ続ける
(好きだったの。本当に、好きだったの)
朝起きて、公爵令嬢ノーマが初めに思い出すのは、今日の予定でもなく、今日着るドレスの事でもなく、失った恋だ。
アッシュブロンドの髪に、紫紺の瞳のマクシミリアン第一王子は、貴族学園に入園して同じクラスになった時以来、いつもニコニコしながらノーマと話してくれた。だから、間違いなく自分は好かれていると、ノーマは思い込んでいた。
マクシミリアン第一王子の男らしく整った顔も、年齢のわりに子どもっぽい言動も、大好きだった。
学園では、ノーマは常に彼のそばにいて、手助けをしていた。
「これは何て読むの?」
授業中、教科書を差し出しては、マクシミリアン第一王子はノーマに尋ねた。成績優秀なノーマなら答えられると、彼は知っていた。
「えんざい、ですね。何もやっていないのに罪に問われる事です」
「こっちは?」
「こうそ、です。裁判の結果に、なっとくできないって訴える事です」
「ありがとう。これで書き取りの課題を減らせそうだ。ノーマは賢いね」
マクシミリアン第一王子はいつも、嬉しそうに礼を言った。
彼がそんな風に誰かの名前を呼ぶのは、ノーマだけだった。マクシミリアン第一王子は人の名前を覚えるのが苦手だ。この国の第一王子と親しくなろうとして、常に何人かの男女が彼を取り囲んでいたが、名前を覚えてもらった者は、他には誰もいなかった。
冴えない茶色い髪にくすんだグレーの目、地味な顔のノーマが、マクシミリアン第一王子に重用されるのは、彼が公爵令嬢である彼女を妃にと望んでいるからだという認識が、学園内に生まれていた。
マクシミリアン第一王子は、たとえ字が上手に書けなくても、難しい言葉を理解しなくても、猿のように素早く木を登り、誰よりも速く走る事ができ、剣を持てば無敵で、修練の成績は抜群だ。
子どもの頃から、付け狙ってくる暗殺者を何人も返り討ちにしてきた闇の部分も、偶然その場に居合わせた妹に聞いて、ノーマは知っていた。
野生の王子などと陰口をたたかれようと、マクシミリアン第一王子は、ノーマにとっては白馬の王子様だったのだ。
「王子殿下が暗殺者を返り討ちにするところは、僕も見た事があるよ」
ノーマの話を、ウンウンと素直に聞いていた男は、図々しくもため口で話し出す。
「迂闊にも王子殿下は、人目につきやすいバルコニーでお勉強をしていた訳だけれど、外から飛んで来た矢をさっと避けたと思ったら、次の瞬間には襲ってきた侍女を剣で串刺しにしていて、あの時はびっくりしたなぁ。僕は震えるばかりで、何の役にも立たなかった」
夏を迎えて、カラドカス公爵家の庭には色とりどりのバラが咲き誇っていた。
四阿のテーブルにはお菓子が用意されているが、招かれている客はいない。
ノーマを訪れる客はこの三年、一人もいなかった。
家族でさえ、彼女を相手にしない。父公爵は、言いつけを聞かずに問題を引き起こした彼女を、許さなかった。
冷めたお茶を飲みながら口にする愚痴を、繰り返し聞くのは護衛兼監視役の男、ただ一人だ。
「貴方は、王子殿下の側近を務めていたものね」
ノーマは、冷たい口調で言った。
「覚えているわよ? 卒業式前日のあの夜、私を貴族牢に入れたのは貴方だったわ」
マクシミリアン第一王子の婚約者候補に内定した夜、彼女は嬉しさのあまり、王子の私室に会いに行ってしまった。あんな事をしなければ今頃は、マクシミリアン第一王子が王位を継いで、自分は王妃になっていただろうか……?
「貴族牢で良かったよね? 侍女に変装した暗殺者って事で、あの王子に斬り捨てられても仕方がない状況だったんだよ?」
男はフフッと思い出し笑いをする。
「でも、君のあの行動力、嫌いじゃなかったなぁ」
三年制の貴族学園卒業式の前日は、午前中に式の予行演習のみが行われた。
午後、卒業生達は親しい者同士で食事会を行ったり、お茶会を催して別れを惜しんでいたが、マクシミリアン第一王子はどの会にも参加しなかった。迎えに来た側近達の前にも姿を現さず、騒ぎになる中、ノーマは学園内でマクシミリアン第一王子を探し、敷地内にある木の傍で、脱ぎ捨てられた制服だけを見つけた。
(ここで着替えて、お忍びで出かけられましたのね?)
卒業後は王太子としての務めがあって、好きな場所に行くこともなかなかできなくなるだろう。それで、最後の思い出作りのために変装してでかけたのだと、ノーマは勝手に解釈した。
(それなら、敢えて騒ぎ立てる事はしないでおきましょう。でも明日は卒業式なのだし、制服が汚れたままではお困りでしょう)
ノーマは制服を持って帰って、侍女に洗濯とアイロンを言いつけた。彼女としては、良かれと思っての事だった。
綺麗になった制服を持って城を訪ねようとしていたノーマを、応接間に呼び寄せたのは父親のカラドカス公爵だ。
貴族議会の重鎮も同席しており、第一王子妃候補に内定したと告げられた時は、全身がのぼせ上がるほどの幸せを感じた。
「正式発表は明日だから、それまでは誰にも言ってはいけないよ」
公爵の言葉に何度も頷いたノーマだが、その『誰にも』に、当事者のマクシミリアン第一王子も含まれているとは思ってもみなかった。
「あの王子を、本当に支えていけるかね?」
父親のカラドカス公爵が心配そうに念を押すが、彼女は自信満々に請け合った。
「あの方に相応しい女性は、成績優秀かつ、彼の全てを理解しているこの私しかおりませんわ」
地味な外見は、知性でカバーできる、そう自惚れていた。
マクシミリアン第一王子もそう考えているから、ノーマを特別扱いしてくれているのだ。
そんな考えが全て、自分の願望からくるもので、とんでもない勘違いだったとわかった時には、もう遅かった。
アッシュブロンドの髪に、紫紺の瞳を持つ白馬の王子は、ノーマではない別の誰かを見ていたのだ。
王太子の古参側近の一人、ザイオンは、とても美しい容貌をしていた。取り繕ったような笑みの裏には邪悪さが潜んでいて、ノーマは初めて会った時から彼を気に入らなかった。
黒髪に金色の瞳を持つ、出自不明の男は、王太子の側近として仕えるためにカラドカス公爵家の養子となった。養子の話が出た時、母も兄も妹達も、父と浮気相手との子どもに違いないと言って怒った。同じ父を持ちながら、美形に生まれついたその男と、地味な顔に生まれ落ちた自分との落差もノーマは気に入らなかった。
浮気相手がよほど美しい女だったに違いない、そんな美女が地味顔の父を相手にしたのは、公爵家のお金が目当てで、公爵家を乗っ取るために子どもを産み、養子という形で差し向けてきたのだと、ノーマは勘ぐった。
どうみても腹黒い邪悪な男なのに、他の家族が安易に彼を受け入れた事も気に入らない。
あの美しい容貌から考えて、絶対に父公爵の子では有り得ない、と彼らは意見を翻したのだ。
心配するノーマを家族は、心が狭い、妄想が強い、思い込みが激しいなどと思っているらしい事も、心外だった。
ノーマは思いつく限りの悪い言葉で、ザイオンと顔を合わせるたびに罵ったが、ザイオンは一言も言い返しては来なかった。
その大人ぶった態度が余計にノーマを苛つかせた。
誰がこんな結末を想像できただろう?
王太子である第一王子が、妃候補となったノーマを選ばずに、その側近の男と一緒に失踪するなんて。
あの夜の事をノーマは、何度も思い出す。
マクシミリアン第一王子に直接制服を渡したくて、顔見知りの近衛兵にお金を渡し、城の中に入れてもらって、侍女の服を借りた。中で何があろうと、その近衛兵の名前は絶対に出さないという約束だ。何もあるはずがないと、ノーマは思っていた。妃候補になった事を、マクシミリアン第一王子自身に話しに行くだけなのだから。
自分が妃候補に選ばれた事を教えてあげれば、マクシミリアン第一王子はどれだけ喜ぶだろうかとノーマは想像して、終始浮き立つような思いだった。
その思いが、王太子用私室に入った途端に霧散した。
そこでは、仁王立ちしているザイオンの前に、マクシミリアン第一王子が泣きながら跪いていた。
王子は、上半身裸だった。
何が行われていたか一目瞭然だと、ノーマは思った。彼女は十八歳、性の知識も一通りある。
「何て穢らわしい!」
激高して、彼女は捲し立てた。
「ザイオン! マクシミリアン様に一体何をさせてるんですか? 泣いていらっしゃるではありませんか! マクシミリアン様から離れなさい! 今すぐ!」
ノーマは突進して、呆気にとられている様子のザイオンを突き飛ばした。
後に考えれば下世話過ぎる言葉を、ノーマは叫び続けた。
怒りで我を忘れていた。
よりにもよって王太子に、性的な虐待を加えるなんて信じられない、と思った。
それなのに、扉の向こうにいる騎士二人は呆れたような顔で見ているだけだし、ザイオンは、予想とは全く違う台詞を吐いた。
「そうか、お前が制服を盗っていったのか」
この時ノーマには、制服を盗ったなどという認識はなかった。
「盗ったのではありません! 落ちていたのです!」
だから、明日の卒業式に困るだろうと思って、洗濯をしてアイロンをかけて、持ってきてあげたのに。
「その制服がマクシミリアン第一王子殿下のものだと知っていながら、誰にも言わずに、直接ここへ乗り込んで来たのはなぜだ? そんな変装までして! なぜ、城の者に言付けなかった! 何を企んでいる!?」
ザイオンがなぜ怒っているのか、ノーマにはわからなかった。
他人に託す必要があるとは、ノーマは思っていなかった。
「マクシミリアン様のお顔を見ながら、直接お渡ししたかったのです! 私は、マクシミリアン様の、将来の妃ですから!」
「は? 妃? 何の話だ?」
ザイオンが怯んだ。
勝った、とノーマは思った。
(この邪悪な男を、私はようやく退ける事ができる!)
「私とマクシミリアン様は、もうじき結婚するのです。今日、高位貴族会議でそう決まったという報せがありました」
誰にも言ってはいけない、と父公爵に念を押されていた事も忘れて、ノーマは勝ち誇った笑みを浮かべる。
「貴方に勝ち目はありません、ザイオン。荷物を纏めて、明日にでも出て行く用意をしておいてくださいね」
「結婚? 僕とノーマが結婚するの?」
マクシミリアン第一王子が、涙に濡れた顔を拭って、そう尋ねる。
「そうですよ」
ノーマは彼に、優しく微笑みかけた。これで彼を救う事ができると、本気で思っていた。
「明日までは公表しない方針だと言われましたが、マクシミリアン様には早くお伝えしたくて、ついこんな方法で来てしまいました。これから先は私が婚約者として妻として、ザイオンの代わりにマクシミリアン様のお側についております。私なら、マクシミリアン様を悲しませるような事は絶対にしません! もうこんな男に、蹂躙され、支配され、虐待される辛い日々は終わったのです! どうかご安心くださいね」
ニコニコといつものような笑顔を見せてくれる、と思っていたマクシミリアン第一王子は、拒絶するように、首をゆるゆると横に振った。
その様子を、ノーマは驚いた顔で眺める。
「僕は、……僕、お金をたくさん稼いで、あの娘と結婚するんだ。黒髪で、黒いお目々の、僕の黒猫ちゃんだよ? ノーマじゃない」
ノーマじゃない?
ノーマには、マクシミリアン第一王子が何を言っているのか、理解できなかった。
喜んでもらえるはずなのに……?
「ずっと探しているんだけれど、どこにもいないんだ。もしかして、先に行っちゃったのかなぁ……? 僕があの日、約束、破ったから」
「黒髪で、黒いお目々の……? 学内にそんな女が、居ましたかしら……?」
この三年間というもの、ずっとマクシミリアン第一王子のそばにいて、彼を支えてきたのはノーマだ。黒髪に黒い瞳の女子生徒は、彼の周囲には一人もいなかったし、学園内にいたかどうかもはっきりしない。
どんなに考えても、マクシミリアン第一王子が誰の事を言っているのか、ノーマにはわからなかった。
三年経っても、ノーマにはわからない。
マクシミリアン第一王子は、誰と結婚するつもりだったのか。
(私以外の、 誰と……?)
その夜、ノーマは王太子の私室に不法侵入したとして貴族牢に入れられ、直後にマクシミリアン第一王子とザイオンは城内から姿を消した。
翌日には王都周辺へと捜索範囲は広げられたが見つからず、三年経った今も行方知れずだ。
王太子が失踪する切っ掛けを作ったとして、ノーマは卒業式前日付で退学となり、公爵家内から一歩も出てはいけない事になった。父公爵も責任を負う形で失職した。そして、第二王子派が貴族議会を牛耳り、カラドカス公爵家没落の日々が始まる。父の怒りは当然の事だ。
駆け落ち、という言葉をノーマは敢えて避ける。
男と駆け落ちするなんて、あり得ない。
失踪はマクシミリアン第一王子の本意ではなかったはずだと、ノーマは思った。
王太子という地位を捨てて、あのような男との人生を選ぶはずがない。
あの邪悪で、美貌だけが取り柄の側近ザイオンは、王子を外見で誘惑し、快楽で手懐け、無理矢理に連れ去っていったのだ……。
「いやいや、ノーマちゃん」
と、護衛兼監視役の男が言う。
「何度も言うけれど、あの二人、そういうのじゃないからね?」
「もちろんよ! あんな穢らわしい行為を、王子が喜んでしていたはずがないわ」
「事実だったかのように語るのやめて?」
「王子は泣いていた。あの日あの男の前に跪いたまま、本当はこんな事をしたくはないと……」
護衛の男は、ノーマの目の前で手を振った。
「それ、妄想だよ? ヤバいよ? ちゃんと現実が見えてる? 王子殿下はよく怒られて、ああやって泣きながらごめんなさいってしてたんだから。書き取りをサボったり宿題をサボったり人の物を勝手に持っていったり、どこかで昼寝して戻ってこなかったり、ね。ザイオン卿は、頑張って子育て……いや、教育係を全うしようとしていたと思うなぁ。あの日は、王子殿下が制服をなくして裸で帰ってきたので、怒られてたんだ。それって、ノーマちゃんのせいだよね?」
「制服……」
思い出して、ノーマは目を潤ませる。
「あの日は、制服を持っていってあげて、マクシミリアン様に喜んでもらって、結婚の話も喜んでもらえるはずだったのに……」
「振り出しに戻った!?」
三年の間に、護衛役の騎士は何度か替わった。
護衛というよりは、謹慎しているかどうか監視するために王城から派遣されてきた監視人だ。これまではどの護衛も、彼女の後ろで黙ったまま、ただ見ているだけだった。
この春着任した護衛兼監視役の騎士は、三年前に王都での仕事を失って、実家に帰っていたが、第二王子派の失脚と政権交代を切っ掛けに、再び王都に戻って騎士に復帰した。
そして、出世が望めずに皆が嫌がるこの監視役を、わざわざ買って出たのだという。
「一途なノーマちゃん、僕は大好きだな」
と、リカルドは言った。
「僕の元カノなんてねぇ、第一王子殿下が失踪して、側近の仕事がなくなったって打ち明けたその日に、じゃあ別れようって言い出してさ。ひどくない? それまでさんざん奢らせておいて」
「その女性は、貴方のお金が好きだったのね」
ノーマは、図々しくテーブルの対面に座ってお菓子をつまんでいる護衛の顔を、しげしげと見た。
「灰色の短い髪に、碧い瞳、細い鼻筋に目はどんぐり型。性格は決して良いとは言えないけれど、悪くない容貌なのにね、やっぱり世間一般の女性にとっては経済力が一番ということなのかしら」
「ええーっ? 性格もいいよ?」
リカルドが、隠し持っていたリンドウの花を、そっと差し出す。
「僕はねぇ、泣いている女の子の悲しみに、ずっと寄り添う事だってできるのさ」
「貴方、それ、うちの庭の花じゃない?」
そう咎めながら、ノーマは、零れ始めた涙を止める事ができない。
家族さえ顧みなかった彼女の痛みを、この男だけが聞いてくれた。愚かだと嗤わずに、何度でも、自分でその愚かさを見つめ直す事ができるまで、付き合ってくれた。
「それにもう、女の子っていう歳でもないし」
涙を零しながら、ノーマは俯く。
泣いているノーマの手を取って、リカルドはリンドウの花を持たせる。
「丁度良い年齢差だよね! 僕はリカルド・フォイ、二十三歳。顔は凄く良いし、性格も明るくてモテモテ! 彼女いない歴、三年と少しで、一人っ子。フォイ伯爵家は、領地は狭いし、北の山岳地帯なので良縁には恵まれない家系だけれど、実は良質の金を産出する山があってそこそこ裕福。騎士に復帰したばかりの今ならお買い得だよ!」
「貴方、自惚れが強すぎない?!」
握り締められた手を、ノーマは振りほどく事ができないでいた。
「いやあ、君には敵わないよ」
ノーマが視線を上げると、リカルドは嫌味の無い笑みを浮かべていた。
「……そうかもね」
自分こそが、マクシミリアン第一王子と結婚するのだと、思い込んでいた。自分の聡明さ故に彼に頼られていて、好かれているのだと、信じて疑わなかった。
「そんなところも含めて、君が好きだよ」
と、リカルドは言った。
「あの頃の、生き生きとした君に、戻ってもらいたいな」
返事の代わりにノーマは、繋いだ手に涙を落とし続けた。