33.詩織の居場所
この前来た時よりも、緊張する。
扉を開けた時に鳴る、〝カランコロン〟の音で詩織がこちらを見た。
「坂本!」
小走りで来る詩織が、坂本の後ろを気にする。
「美咲ちゃんは?」
「今日はオレ1人だよ」
「そっか」
すいてる時間を考えて、平日の夕方に来ているので
美咲は普通に仕事中だ。
案内されてカウンター席に座り、マスターと軽く挨拶した。坂本の読み通り、お客さんは数名しか目に入らない。まだ暑いこの時期は、海に来る人で昼前後の方が混むのだろう。
「元気にしてた?」
お冷を出しながら聞く詩織は、見た目は何も変わっていない。
「オレは変わらないよ」
「あ、変わったのは私の方か…。コーヒーでいい?」
「それとこの前食べたサンドイッチも」
カウンター奥の厨房へと詩織が入っていく。
店内を見渡すと、半年前より緑が少ない。
「マスター、観葉植物枯れちゃいました?」
坂本の問いかけに、〝あぁ〟とマスターが言う。
「今の時期はお客様が多いので植物を減らして、その分席数を増やしているんです」
〝そうなんだ〟と坂本が1人納得するようにつぶやくが、心の中ではこの喫茶店の良い所が半減するな、と思う。
「はい、コーヒーどうぞ」
マスターが淹れてくれるコーヒーの香りがする。
ゆっくり一口含むと、美味しさは変わらず口中に広がる。
「今日も美味しいです」
マスターに笑顔で伝えて、もう一口大事に飲む。
「はい、サンドイッチだよ」
この前はマスターが作ってくれたが、今回は詩織が作ってくれた様だ。
一口食べて、〝美味しいよ〟と詩織にジェスチャーする。
「詩織ちゃんも休憩していいよ」
マスターの計らいで、詩織もジュースを持ってきて隣に座った。マスターは別のお客さんと談笑している。
「大輝と会ったんだってね」
詩織が知っているという事は、大輝と連絡をとったという事だ。
「大輝とは話し合いしたのか?」
詩織は、ストローで氷をクルクルと回した。
「もう話し合いって事もなかったよ。お互い答えは一致してたから」
そう言って、テーブルに落ちた水滴を手で弄んだ。
「詩織は後悔してない?」
ずっと下を向いて話をしている詩織に問いかける。隣に座ってから横顔しか見ていない。
「ついてきた事は後悔してないよ。大輝とならやっていけると思って自分で決めた事だから。
でも、理想と現実は違っていた、ただそれだけだよ」
詩織がやっと坂本を見た。
「このお店の観葉植物、減ったの気付いた?」
「あぁ、さっきマスターに聞いた」
「マスターの娘婿が、繁忙期は席数を増やして売り上げを伸ばした方がいいって。理想的な空間よりも売り上げ、どこの世界でも理想より現実なのかもね」
詩織が、ストローに口をつけた。
「詩織の理想は大輝と2人で生活していく事、でも現実は大輝の工場の一員になる事だった?」
「私は、〝大輝のお嫁さんになるんだから、こうするのが当たり前〟より〝木村詩織〟でいることを選んだんだよ」
「大輝に問題があってこうなった訳じゃない。言ってみれば大輝の家に従うのが不服だった。それは乗り越えられなかった?」
「大輝が好きだ、という強い気持ちと勢いがあれば、どこかのタイミングで一緒に工場で働いていたかもしれない。
でも、この敷かれたレールのまま生きて、本当にこれが私のやりたい事だったのかなって、もし後で後悔するような事があったらって思ったら、立ち止まってしまったの。
私は工場に入らなくてもいいように、ご両親を説得してもらう方法も考え出したけど、大輝の本心は、工場を手伝って欲しいっていうのが分かっていたから、それも言えなかった」
「大輝の事はもう好きじゃない…?」
大輝にも同じ質問をした、と聞いてから思う。
「好きだからこそ、こっちまで追いかけてきたのにね。
こっちに来たら全てが現実で2人で居てもいつも独りみたいだった。
大輝は工場の未来の夢を語るけど、私はいつも聞きながら負い目を感じてた。
いつの間にか好きという感情が、別の感情に変わってしまったみたい」
「詩織、もう一度聞くけど…2人で出した答えは、今の自分に正直になった答えなんだよな?」
「坂本、私は自分にウソはついてないよ。だから後悔はしてないよ」
詩織のまっすぐな眼差しで、やっと自分を納得させる。
「今はどこに住んでる?」
「この近くのアパートを借りた。喫茶店との往復だけだけど、疲れたら海見に行ったりして癒されてる」
「寂しく、ないか?」
自分には何が出来るだろう…?と考えながら聞く。
「寂しくないって言ったらウソになるね」
詩織が立ち上がって、マスターがいつも淹れてくれるコーヒーサイフォン前に立った。
コーヒー豆を入れ、お湯をゆっくり注いでいく。
「そっちに帰ろうか、とも一瞬思ったけど、でも私にはここを守るっていう使命があるからね」
コーヒーのいい香りが一層立ち込める。
豆が奏でるプツプツという音が微かに聞こえる。
「オレに何か出来る事ある?」
坂本の言葉に詩織が少し笑う。
「坂本は今まで通りでいい。今まで通り、こうして時々会って私の話を聞いてくれるだけでいい」
坂本の空になったコーヒーカップを取り、出来たて
のコーヒーをついでくれた。
「私、コーヒーも上手く淹れれるようになったんだよ」
早速一口飲んでみる。
「ん〜、美味しいけどまだマスター程じゃないな」
「なによ、エラそうに!」
詩織がやっと顔を崩して笑った。
「この前の定休日に作ってみたの」
そう言って小皿に入れて出してくれたのは、抹茶のチョコレートだ。
「詩織、これ…」
「食べてみてよ」
一欠片食べてみる。
「コーヒー淹れるより才能あるんじゃないか?」
「美味しいなら良かった。でもやっぱりあの時食べたチョコが一番美味しかったんだよね。分量は全く同じなのに」
坂本が思い出して自然に笑う。
「いい思い出だよな」
「ホントに。もう戻れないって思うと余計にね」
坂本は、コーヒーカップの取っ手をもったまましばらく中身を見つめる。今、この瞬間も過去になっていく。何か言わなければいけない気がするが、上手く言葉が出てこない…
「私と大輝は多分友達にも戻れないから。そう思うと坂本との関係は正解だったんだな、と思う」
「えっ?」
「私たちは友達だからずっと関係を続けていけるでしょ?」
「なんだよそれ。大輝とだって今は無理でも年をとったらきっと笑って話せるようになるさ」
「うん、そうだね。そういう日が来ることを願って私はこのお店で頑張るよ」
詩織は、静かに笑った。
帰り途中、トイレから戻ると、車内がコーヒーのいい香りで充満していた。
この前もらったコーヒー豆が気に入ったので、今回も用意してもらったのだ。
実はコーヒー豆の発送サービスを始めたと聞いて、早速申し込んできた。これで、定期的に届く豆を挽いて、美味しいコーヒーを飲むことが出来る。
美咲はどちらかというと紅茶派なので、共感してもらえないのが寂しいが…
大輝と詩織の顔を思い浮かべる。
2人が仲良く歩く後ろ姿を、微笑ましく眺めてきた。2人が、目で会話する時も、さりげなく体に触れる時もすぐ側にいた。
詩織の存在が近くに感じられた時、自分が大輝だったらと考え出したら、止まらなくなった。でも、それはさすがに自分にブレーキをかけた。
大輝が本当にイヤなヤツで、詩織にも迷惑ばかりかけるやつなら良かったのに、と思った。それなら遠慮せずに、詩織を奪いに行くのに。
抹茶のチョコレートの味が蘇る。
でも思い出すのは、ついさっき食べた味じゃなくて、詩織も言っていた休憩室で食べた味だ。
(詩織もオレもあの時とは変わったんだ)
今、自分の手に残るのは美咲の頬の感触だ。
そのまま携帯を取り出し、電話する。
「もしもし、美咲?遅くなったけど、顔見たいからそっち寄るよ。いい?」




