20.喫茶店と詩織
観葉植物に溢れた店内で、入り口から一番遠いカウンター席が、詩織の特等席だ。
休日か早番の帰りに通うようになってしばらく経つ。
たまたま近くの海までドライブに来た時に寄った店で、すぐにお気に入りになった。
老夫婦が切り盛りしているこの店は、のんびり時間が過ぎる空間で、そこがまた気に入っている。
カフェというより、昔ながらの喫茶店がしっくりくる。
ここに来る常連さんもいい人ばかりで、深入りせずにいてくれ、詩織が来そうな時間には、そっと席を開けておいてくれたりした。
今日はいつもとは違い、特等席には座らずに、マスターから借りたエプロンをつける。
ママさんがやっていたフロア業務を教えてもらいながらテキパキとこなす。
よく来ていただけあり、直ぐに仕事は覚えた。
メニューも分かっているので、戸惑うことがないし、今の時期は常連さんが多いので、多少の失敗は大目に見てくれる。
手が空く時間には、レジを覚えたり、コーヒーの入れ方もマスターから教わる。
お昼のまかないで頂くコーヒーと軽食が、また格別に美味しい。
「マスター、腰痛の奥さんの代わりに、詩織ちゃんが来てくれるようになって良かったなぁ」
常連さんが、マスターに話しかける。
「本当に。ボク1人じゃ店を回しきれないし、思い切ってたたもうかと思ってた位だから」
詩織が話に入る。
「この店は、新参者の私に安らぎを与えてくれた店ですから…無くなってしまっては困るんです」
常連さんも続ける。
「オレも店が無くなったら、心の拠り所がなくなっちゃうからさ。マスターには出来る限り続けてもらわないと」
「もちろん私にとっても大切な店ですから、出来る限り頑張りますよ」
マスターは笑顔で答える。
詩織はそんなマスターを見て、常連さんと顔を見合わせて微笑む。
もうすぐ雑貨屋を辞めて、正式にこの喫茶店に勤めることになっている。
最初にママさんから、店を閉めるかもしれない、と聞いた時に、詳しい事情を教えて欲しいと頼んだ。
聞けば、ママさんの腰痛がひどくて、日によっては歩けない時もあるという。
時折、腰を叩いたり伸ばしたりする姿を目にする事はあったが、店に出れない程とは思ってなかった。
「接骨院や整体、マッサージに鍼もやったけど一時的に良くなっても、またすぐに痛くなっちゃうのよね。もうクセになっちゃってるみたい」
「今日はお店出て大丈夫なんですか?」
「まだ調子がいい方だから、コルセットで固定しながらね」
いつも優しく接してくれるママさんの笑顔が、逆につらい。
「マスターも1人では、店を切り盛り出来ないですもんね」
詩織はこの冬からの付き合いだが、海が近い事もあって夏場になると新規のお客さんで賑わうという。
「お昼の時間も1人では到底無理だから、新しく従業員を雇う話もあったんだけど、私もマスターも年だからなかなか気が乗らなくて…」
ママさんの顔を見て、詩織は言った。
「ママさん、その話私に少し時間もらえませんか?」
「この店で働いてくれそうな人のツテがあるの?」
「今度の休みの日に、一度私にフロア業務をやらせて欲しいんです」
「詩織ちゃんに?」
「飲食店で働くのは初めてなので自信はないんですけど、この店が無くなるのはもっと嫌なんです」
「詩織ちゃんなら願ってもない事だけど…」
詩織の真剣な眼差しに、ママさんがマスターと顔を見合わせる。
「詩織ちゃん、ご家庭の事もあると思うし無理なら無理と返事してくれていいからね。
これは生活になるわけだから、私たちに対する遠慮とか何とかしなきゃいけない責任感とかは無しでお願いよ」
その後ママさんと細かい事を確認して、一度フロア業務をやらせてもらった。
この喫茶店で過ごせる時間がなにより楽しくて、自分らしくいられる気がした。
その日のうちに、大輝に言った。
相談ではなく、雑貨屋をやめて喫茶店で働く事を決めたと伝えた。
大輝なら、すぐに承諾してくれると思っていたが、いい返事はくれなかった。
理由は、
・結婚したら、実家の工場を手伝ってほしいと考えていたから、雑貨屋を辞めるのであれば今から手伝ってくれないか、そうすれば一緒にいられる時間が増える、
・オーナーの年齢を考えたら賃金や雇用条件のリスクが高すぎないか、
だった。
工場の話は大輝の考えを知らなかったし、なによりお金よりも大切な事がある、と詩織は反論した。
すると大輝は優しく諭すように言った。
経営者になる身としては、現実を見なければいけない、従業員を養うためにはお金は大切な事だよ、と。
詩織はオレと一緒に過ごす時間よりも、喫茶店で働く方を選ぶのか、とも。
大輝の言いたいことは分かる。
ただ、大輝と詩織の差は、大切にするべきものの優先順位が違った。
ギクシャクしたまま朝を迎え、雑貨屋には休みの連絡を入れた。
そのまま喫茶店へ行き、仕事が休みになったから、と1日働かせてもらった。
大輝と顔を合わせずらくて、喫茶店を出てからも真っ直ぐ家には戻れなかった。
いつもの時間に帰らないから、大輝から着信が何回か入った。
電話に出る決心がつかず1人取り乱し涙を流した。
マンションの駐車場でまだ迷っていると、坂本から着信があった。
涙を拭いて、泣かないように深呼吸して電話に出る。
きっと坂本ならわかってくれる。
大輝との間に入って、うまく話を通してくれるかもしれない。
理由を少し話した所で、受話器からなつかしい音がした。すぐに駅構内の音だと分かった。
「坂本、今、外なの?」
思わず聞いていた。
自分の思い全てを聞いてもらえる時間はない、と悟る。
電話を切ってから携帯の画面で、今日はホワイトデーだと気付く。メールをいい事に、前に美咲ちゃんとの仲を聞いたが、あれから進展があったのかもしれない。
今は、坂本に頼っていたらいけない。
いつも助けてくれた坂本は、ここには居ない。
ただ坂本は今の自分の気持ちに正直になれば、後悔はしないはずだ、と以前教えてくれた。
大輝とちゃんと話をしよう。
今、話すべき相手は坂本じゃない、大輝だ。
大輝を説得して、喫茶店に通えるようにしなくては。せっかく自分の居場所を自分で見つけたのだから。
意を決して、車を降りる。気合をいれるように、ドアを強めに閉めた。




