第16話『ともだち』
夕焼けに染まった大通りの歩道をブレザー姿のイズナが歩いている。
今朝方降ったにわか雨は、日中のカンカン照りで蒸されたアルファルトの熱でほとんど蒸発してしまった。雨粒が渇いた時の特有の香気が立ち上って鼻をくすぐってくる。
今日の通学路はあまり人気がない。スマホを見ながら歩いている学生や子供と手を繋ぎながら買い物袋を提げている母親と時折すれ違うぐらいだ。
イズナは、プロのマギシングサークル選手であると同時に高校一年生である。たとえ大事な試合の前日であろうと学業をおろそかにはできない。
なにより学校へ行くのは、なんだかんだでいい気分転換になる。
普段ならトレーニングに支障がない範囲で友達と寄り道するのだが、今回は「イズナちゃんは、明日大事な試合があるから」と、みんなに気を使われてしまった。
「今日は、みんなと寄り道したかったんだけどなぁ」
なんだかそわそわして落ち着かない。試合が怖いんじゃない。むしろ楽しみ過ぎて気持ちが昂ってしまう。甘いものでも食べて一息つかないと興奮で今夜は眠れそうになかった。
甘いもの。どこかにいい店はないか。
思案にふけりながら歩いていると、交通量の多いスクランブル交差点の赤信号に捕まった。
「げえー!」
思わず、車に轢かれたカエルのような声が漏れた。この信号で捕まると何分も待たされる。
最悪だ。じっとしていると余計に気が昂ってしまうのに。
行き交う車を辟易と眺めていると背後から品のいい足音が近づいてきた。革靴の音だ。なんだか懐かしい音色のような気がする。
気になって振り返ると、そこに居たのはユーリ・ストラトスだった。
彼女は一歳年下で去年までイズナが通っていた中学の三年生である。久しぶりに見る中学の制服と久しく見ていない制服姿のユーリは、二重の意味で懐かしい。
「あ、ユーリ」
「イズナ……さん?」
ユーリは妙に訝しげにしている。狐につままれたとはこういう顔を指すのだろう。
「ユーリ? どうかした?」
「い、いえ。雰囲気が変わったので一瞬イズナさんだと分かりませんでした」
「そう? えーと……」
「…………」
会話が途切れてしまう。
気まずい。気まずいから沈黙し、沈黙するから気まずさが増していく。最悪のループだ。しかも信号は一向に変わる気配がない。
このまま信号待ちしている間ずっと無言で過ごすか?
いや、それじゃあ今までと変わらない。試合前に会えたのは偶然じゃない。運命に決まっている。チャンスを活かさなくては。ここで謝らなければ一生謝れない気がする。
もちろん謝ったら仲直りできるなんて考えるほど、子供じゃない。
イズナの暴言は、絶対に許されるものじゃなかった。それでも今の気まずさのまま別れて明日の試合に臨むのは違う気がする。勇気を振り絞れ。声を出すんだ!
「……ねぇねぇユーリ。一緒に……帰ろ?」
イズナの提案に、ユーリは嫌悪を露わにした。
「……あなたは状況が分かっていないんですか? ユーリたちは明日試合するんですよ?」
「そ、それが?」
「試合前に一緒にいるところを誰かに見られたら、下手すると八百長を疑われますよ? あなたはただでさえ……ネットでの評判が悪いんですから」
「そんなの……勝手に言わせておけばいいじゃん」
シンドウのおかげで彼らの言葉を過剰に気にする必要はないと、ようやく割り切れた。
これからイズナが試合を楽しんでいけば、またいつかお客さんもイズナの試合を楽しんでくれるようになるはずだ。
それに世間の目を気にしすぎて自分の心を殺したら本末転倒になってしまう。
他の人にどう思われてもいい。試合前にユーリと一緒の時間を過ごしたい。
ユーリが喜んでくれそうな場所をイズナは知っている。
多少強引でもいい。勢いで押してしまえ!
「一緒に寄り道しよーよ! あ、そうだ! 前に二人で行ったカフェ! 先月から新メニューでデラックスパンケーキ始めたんだよ!」
「デラックス……パンケーキ!?」
デラックスパンケーキと聞いた途端、ユーリの顔が満開の桜のような喜色で染め上げられていく。やっぱり甘いものには目がないのは相変わらず。イズナの予想通りだ。
「美味しーらしいよー? 生クリームたっぷりで」
「たっぷり!?」
「フルーツがね! どさどさーって」
「どさどさー!? って!? ゆ、誘惑してもダメです!」
惜しい。もうちょっとのところで魂胆がばれてしまった。
「ユーリは本当にお菓子に目がないなー。変わらないね、そういうところ」
痛いところを突いてしまったのか。ユーリはフグのようなふくれっ面になった。
「……とにかくあなたと寄り道もしないし、一緒に帰るつもりもありません」
「でもさーお互いにつもる話あるじゃん! 最近全然話せてないし。私ユーリに言いたいことがたくさん――」
パンッ!
突如鳴り響いた甲高い音と共に、イズナの左頬がじんわりと熱を持つ。
「ふざけないでください!」
ユーリの右手が震えていた。ようやく自分の頬を平手で打たれたのだと自覚する。
魔族の血を引く証明である獣のような虹彩は、憤怒を滾らせていた。
「あなたのほうから、ユーリのことを拒絶したんじゃないですか!?」
ゲンイチロウが亡くなった時、ユーリは毎日のようにイズナを励ましてくれた。電話やメッセージを頻繁に送ってくれて何度も何度も会いに来てくれて。それなのにイズナは――。
「あなたが初めてプロで負けたあの時……あなたがユーリになんて言ったのか覚えてないんですか? ユーリのこと、邪魔だって! うるさいって! 大嫌いだって!」
忘れるわけがない。忘れていいはずがない。傷つけたことをずっと後悔してきた。何度も何度も謝ろうとしたけど、謝っても許してもらえないと思ったら怖かった。
許されなくてもいいと割り切ろうとしたし、その資格がないのは分かっている。だけど本音ではまた仲良くしたい。そうやって悩んでいる内に、ずるずると時間だけが過ぎてしまった。
「……ごめんねユーリ。あの時の私は、馬鹿でどうしょうもなくってさ。謝って許されることじゃないけど、ユーリのこと傷つけてほんとに私、後悔してて……」
「いいえ。おかげで目が覚めたんです」
永久凍土のように冷たい響きがイズナの鼓膜を揺らした。
「あなたには感謝しているんですよ」
「感謝って?」
「ユーリはあなたに憧れていました。だから友達になりたいって、ライバルでいたいって思っていたんです。でもあなたが気付かせてくれた。ユーリはナルカミ・イズナと仲良くしたいわけじゃなかった」
剣のように研ぎ澄まされた敵意が喉元に突きつけられた。
「ずっと思ってました! あなたに勝ちたいと! ユーリの先を行くあなたの背中を追いかけて、追いかけて! それでも追いつけない自分が悔しかったんです! だけど今はもう違います!」
かつての後輩はもういない。今目の前にいるのは、これまで戦った中で最強の魔道師だ。
「ユーリは、ナルカミ・イズナの背中を追いかけているわけじゃありません! あなたへの憧れなんて微塵もありません! ユーリが先を行っているんです! プロになって四ヶ月。戦績は四戦四勝。濃密な時間を過ごしました。もうあなたを追いかけるユーリじゃない! 実力差をもう一度思い知らせてみせます! 勝つのはユーリです。誰よりも強くなって勝ち続けて最強を証明してみせます!」
勝利への執着。飽くなき最強の探求。その姿はまるで……。
――そっか。
イズナは、微笑んでしまった。意識する間もなく、自然と笑みが口元に滲んでしまった。
「明日の試合は、私が絶対に勝つよ」
「っ!? スパーリングでぼろ負けしたのを忘れたんですか?」
「覚えてるよ。でもね、今の私にはユーリにはないものがある。私もついこの間まで無くしてたもの」
「ユーリにないもの? なんだっていうんですか!?」
「今の私にはそれがあるから、絶対に勝てるってわかっちゃった。明日の試合で、それを思い知らせてあげるね」
そう言い残してユーリに背を向けて去ろうとした……が、信号はまだ赤だった。
どうしよう。かっこつけたのに颯爽と去れないのはダサすぎる。
だけど信号無視するわけにもいかない。とりあえず会話で誤魔化すしかなかった。
「……あのさユーリ、ここの信号ってホントに長いよね」
「そうですね……あの勢いで立ち去らないとか、あなたは本当にかっこわるいですね」
「言わないでよー! そっちだって結構かっこつけたこと言ってたじゃんか!」
「ユーリは関係ありません! だいたいあなたはいつもそうやって!」
「私がなんだっていうのさ!」
信号が変わるまでの三分間、イズナとユーリの口論が途切れることはなかった。




