第14話『不肖の弟子』
高層ビルが居並ぶ都市部の一画を繰り抜いたように、緑の空間が円状に広がっていた。
朝露を纏った瑞々しい芝生の上に、等間隔で並んだ数百の白い墓石へ夜明け前の柔らかな青い光が注いでいる。荘厳な光景は、まるで聖域に訪れたかのような厳粛な心持にさせられた。
シンドウ・カズトラは、中心にある一つの墓石をニ十歩ほど離れた位置から見つめている。
墓石の中でも特に手入れが行き届いており、真新しい花束が供えられていた。
一歩踏み出して墓石に近付こうとしたが、意思に反して足は動いてくれない。
さっきから数えきれない回数、足を踏み出そうとしていた。だけど躊躇してしまって結局は動けない。そのせいで、芝生の朝露が革靴の表面に染み込んでいた。
こうやって来る日も来る日も時間を無駄にして、結局踏み出せないままでいる。
もうすぐイズナの練習が始まる時間だ。そろそろ帰らないと。
踵を返すと色鮮やかな花束を持った一人の女と目が合った。
「マリア……」
「やっぱり来てたのね。そんな気がしてたわ」
いつもの挑発的な態度は微塵もない。旧友との再会を静かに喜んでいるように見えた。
シンドウは、墓に供えられた花束を見やる。
「あの花、お前が?」
「ええ。一緒に行かない?」
なにも言わずに首を横に振った。
マリアは、言葉を発さずに墓石に近付き、新しい花束と古い花束を交換した。
古い花束を抱えたマリアがシンドウの隣に戻ってくる。
「この場所、覚えてる?」
「ずいぶん変わっちまったけどな」
この辺りは、元々標高二千メートルの山であった。その山はガンテツが所有する修練場兼住まいでシンドウとマリアが共に暮らした場所である。
百五十年程前に山は切り崩され、都市開発の波に飲み込まれた。その後、封印から蘇ったマリアが一帯の土地を購入し、ガンテツと人魔大戦の戦没者が眠る墓地に変えたという。
「マリア、ここに眠っているのは……」
「人間も魔族もいる。ここに眠る全員の名前がマギシングサークルのトロフィーの名前に使われているわ」
「お前、毎日来てるのか?」
「ええ。師匠が寂しがると思って。いつもはもう少し遅い時間にね」
マリアが毎日来てくれているなら、さぞやガンテツも喜んでいることだろう。
「そうだな。お前がいれば師匠も寂しくないな」
「いえ、きっと寂しがっているわ。あなたが傍に来てくれないから」
「俺は……お前とは違うよ」
ガンテツは、シンドウとマリアを実の子供のように愛し、導いてくれた。幼い頃に両親を亡くしたシンドウにとってガンテツは師であり、父であり、祖父であり、目標だった。
きっとガンテツは信じていた。シンドウとマリアが両種族に融和をもたらすと。
そんな彼の予想は、半分当たっていた。
「俺はあの人の弟子に相応しくなかった。お前こそがあの人の理想を体現した」
五百年の時を経て、マリアが両種族の融和を実現した。師の思いを受け継ぎ、現実にした。
「お前も師匠の言葉を覚えているだろ?」
ガンテツが常々シンドウとマリアに聞かせていた言葉がある。
『魔術は、殺しの技術。たしかにそうかもしれん。だがそれだけではないはずじゃ。魔術を極める道、魔道は人の生きる道となれるとわしは考えておる。人殺しの道具の魔術ではなく、魔道として多くの人々を救い、楽しませるものになってほしい。それがわしの願いじゃ。わしがお前たちに魔術を教える理由じゃ。わしは、その可能性を秘めているのが魔術闘技だと思う』
マギシングサークルの原型となった魔術闘技は、元々神事であった。
年に一度、人の一部と全ての魔族に魔力を授けたとされる神々に、人と魔族が極限まで鍛え上げた魔術による演舞を捧げることで、両種族のさらなる繁栄と友好を願う儀式だ。
もっとも当時は、その理念も有名無実化しており、人間と魔族どちらがより優れているのかを決める代理戦争の色が強くなっていた。
それでも尚、魔術闘技に出場するのは、両種族の魔道師にとって最高の栄誉であり続けた。
シンドウとマリアの修業も、魔術闘技で演武を披露するために行われていた。
『お前たち二人には、人々に魔術を通じて人と魔族の生きるべき道を導いていく、そんな魔道師になって欲しいのじゃ。命を奪うためではなく誰かを導くための力として役立てておくれ』
マリアは師の願いをかなえた。マギシングサークルと言うスポーツを生み出し、世界的な人気スポーツの地位を確固たるものにした。優秀な弟子だ。可愛がられるのも無理はない。
一方のシンドウは、魔力を持って生まれなかった平凡な少年だった。
人間は、約一割が魔力を持って生まれる。シンドウは一割に入れなかった九割だ。
後天的に魔力を身に着ける方法がないわけでない。代表的なのは魔力の濃い地域で過ごし、魔力を体内に取り込んで定着させる方法。魔力を持つ人間から譲渡される方法の二種類だ。
しかし前者の方法では生来の魔道師の半分程度の魔力を得るのが限界で、後者の方法は自分の魔力を好き好んで他人に譲り渡すお人よしなどいない。
魔力を持って生まれなかった時点で魔道師としての才能には恵まれていない。
咲かないと分かっている花に、水をやる奇特な人間はいないのだ。
「俺は、最低の弟子だった」
才能の片鱗もないシンドウだったが、ガンテツから彼の魔力の三分の一を譲渡された。ガンテツは全ての魔力を譲渡しても構わないと言ったが、シンドウはこの申し出を断った。
魔力を全て奪い、伝説の魔道師をただの人にしてしまう勇気を持つことができなかった。
「あの人が望んでいた存在にはなれなかった。あの人の魔力を奪っただけの盗人のガキだ」
人間と魔族。両種族の魔道師の頂点に立つ男から魔力を譲り受ける。
それは、重い枷となってシンドウの心を蝕んでいた。
誰よりも熱心に修行したが、修行をすればするほど、自分にマリアのような才能がないことを痛感させられる。己の才気のなさを恨み、才気ある者を妬んだ。
「最近ようやく師匠の気持ちが分かったんだ」
指導者の立場になって初めて理解した。
才能溢れる若者は、磨いた以上に強い輝きを放つ原石だ。シンドウもイズナが可愛くて仕方がない。未完の大器に己の持てる知識を注いでいく快感と興奮で震えが止まらないのだ。
この器が完成し、躍動する姿を一番近くで見ていたい。
ガンテツがマリアに抱いていたのも、きっとこれと同じ感情なのだろう。
「あの時は、師匠がお前にばっかり構っているように思えて、お前が憎くて仕方なかった。ずっとお前の才能に嫉妬してた」
「……今は?」
そう尋ねるマリアからは、魔王としての威厳も生来の負けん気の強さも感じない。共に修行していた頃の、幼気な少女の気配を孕んでいる。
想定していなかった反応に面食らい、言葉に詰まった。
「ねぇ、今も私が憎いの?」
「……分からん」
それが偽りのない正直な気持ちだった。憎んでいるのか。憎んでいないのか。嫉妬しているのか。嫉妬していないのか。自分の心なのに、感情が混沌としてしまって整理できない。
「お前とは色々あり過ぎた。いいことも悪いことも」
「いいことがあったとは、思ってくれているのね」
マリアと切磋琢磨する日々は苦しいことも悔しいこともたくさんあったけれど、やはり幸せであったと断言できる。二十四年間の人生でもっとも輝きに満ちていた時代だった。
「覚えてるか? 俺が徴収魔術を教えてもらった日」
「もちろんよ。全部覚えてるわ」
当時のシンドウは、マリアとの模擬戦で負け越しており、焦りが募るばかりであった。
ある日ガンテツにマリアを倒すために有効な魔術の教えを乞うと、彼はある魔術について教えてくれた。
『ふむ……よし、それならわしのとっておき〝徴収魔術〟を教えよう』
徴収魔術とは、空間中に存在する魔力や魔術を使った際に発生する魔力の残滓を体内に吸収し、自身の魔力として再利用する高等技術である。
ガンテツが開発した魔術で、彼が最強の魔道師である所以でもあった。
「あの時のお前、俺だけ教えてもらってずるいって泣いてたな」
ガンテツはシンドウとマリアに平等に接しており、片方だけに魔術を教えるなんて一度もなかった。特別扱いされた当時の高揚感はしっかりと胸に刻み込まれ、今でも色褪せないでいる。
この時のマリアの顔も忘れられない。魔獣も裸足で逃げ出しそうな恐ろしい形相をしていた。
「だってしょうがないじゃない。あなたがひいきされてるのを見て悔しかったんだから。でも徴収魔術は、魔族には使えない。しょうがなかったのよ」
少し悔しそうに、マリアは右胸を手で押さえた。
魔族は、胸の右側に魔核と呼ばれる臓器を持っている。魔核は魔力を生成し、血管を通して全身に魔力を供給している。
魔族が全員魔力を持って生まれるのは、この臓器を持っているおかげだ。
一方魔核を持たない人間の魔力生成は、全身の細胞で行われる。
徴収魔術は、空間中に存在する多量の魔力を一気に体内へ取り込む技術だ。
人間であれば全身の細胞で魔力を生成しているから負担は分散される。
だが魔族の場合、魔力の生成には魔核のみを用いる。小さな臓器一つに膨大な魔力が流れ込むと魔核に多大な負担がかかってしまい、下手すると損傷してしまう危険性があった。
『最悪の場合、魔核が壊れ、魔術が使えなくなるかもしれん。じゃから徴収魔術はマリアにはできんのじゃよ』
ガンテツにそう告げられた時のマリアは、自身の生まれへの絶望と人間であるシンドウへの羨望が綯い交ぜになった悲痛な表情をしていた。
魔族の生まれを後悔したマリアの姿を見たのは、あれが最初で最後であった。
「あの時は、私も人間に生まれたかったって本気で思ったわ」
悲しむマリアに対してガンテツは、優しく微笑んで頭を撫でながらこう言っていた。
『確かに魔核は、繊細な臓腑じゃ。魔術闘技でも魔核をあえて狙ってくるやつもおる。強い攻撃を魔核へ一点集中で受けると一時的に魔力の生成が安定しなくなるんじゃ。そういう意味では人間にはない弱点かもしれん。そうじゃな……ではマリアには魔核が攻撃されて魔力が乱れた状態でも使える魔術の訓練はどうじゃ? これは魔族に古くから伝わる魔術でわしも魔族の友人から教わったものじゃ』
シンドウが徴収魔術を教わっている間、マリアが教えられたのが魔力の糸だ。
結局いつものように二人揃ってガンテツの修業を受けたが、その練習方法は随分と突飛なものであった。その時のことを思い出して、シンドウは思わず笑みを零してしまう。
「徴収魔術と魔力の糸の修業方法、覚えてるよな?」
マリアは、くすりと笑んで頷いた。
「もちろんよ。あなたは樽いっぱいの水を飲まされて、私はあやとり。あの時は師匠がふざけてるんじゃないかと思ったわ」
「ああ、俺もだよ。あの時は楽しかった……」
ガンテツの墓石までのたったニ十歩の距離が永遠に辿り着けない彼方に見える。
ここから一歩でも近づくことは許されない。やはりそんな気がしてしまう。
「俺の時間は、あの時で止まっちまってる。自業自得だけどな……」
二人の間に沈黙が流れた。しかしそれも束の間。静寂を断ち切るように、スマホの着信音が鳴る。シンドウのものではない。
「ごめんなさい。私だわ」
マリアは、パンツスーツの上着の内ポケットからスマホを取り出した。
「ユーリ? あ、ジムの鍵開けるの忘れてたわ! それじゃあシンドウ……また話せるかしら?」
「……多分な」
「……ユーリとイズナちゃんの試合会場で会いましょう。じゃあね」
そう言ってマリアが去り際に一輪の花を手渡してきた。古い花束に飾られていた風鈴草だ。
花はまだ瑞々しく、朝露の香りがほんのりとした。




