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第12話『走れ!』

 真っ昼間の炎天下の道路で全力疾走するのは端的に言って地獄だ。イズナは今地獄の最中にいる。

 イズナの自宅兼マギシングジムがある住宅街の道路を走り始めて早三時間。骨まで溶かす灼熱は脱力練習で芯まで冷え切った肉体の芯まで熱していた。

 身体強化の魔術を使えれば大した気温じゃないが、生身の状態でこれは堪える。


「あ、暑いよぉー!」

「夏だからな」


 シンドウはあっさりと言ってのけた。

 彼も魔力による身体強化を完全にオフした状態でイズナを先導するように走っている。

 汗こそかいているが呼吸が全く乱れていない。しかもジムのスタッフジャンパーを着たままなのだから感服させられる。

 五百年前活躍した伝説の魔道師シンドウ・カズトラ。彼は伝説的所業を誇らないどころか自分を弱いと卑下すらしている。


 冗談じゃない。なにが伝説じゃないだ。魔術の練度云々以前に、身体的な基礎力が違う。

 魔術師の戦闘能力に男女差は存在しないと言われている。身体強化魔術を使えば男女の肉体的なスペック差は簡単にひっくり返せるからだ。だから並の魔道師は、基礎体力の向上訓練なんかしない。それよりも身体強化魔術の練度を高めたほうが効率的だからだ。


 それでもイズナは並の魔道師よりも素の身体能力を鍛えているほうだった。元々身体能力には自信があるし、体力では同年代の女性になら、まず負ける気がしない。

 魔術なしで男性を相手にしても、その辺のサラリーマンぐらいになら勝てる自信がある。


 けれどシンドウのそれは規格外だ。魔力を用いることを禁じたスポーツは数多く存在しているが、シンドウの身体能力はそうしたアスリートたちに匹敵するだろう。

 炎天下の全力疾走だというのに、シンドウは春先に軽いジョギングをしているかのような涼しい顔をしている。彼なら、この気温の中で一日中走っても息切れを起こしそうにない。


 一方でこちらは筋肉痛を通り越して、三十分ほど前から両足の感覚がない。痛みを超越するほど筋肉を酷使した経験は、十六年間の人生で一度もしてこなかった。

 もう無理だ。これ以上は走り続けられない。


「も、もう限界だよー!」


 懇願するイズナの声に対してシンドウは振り返った。

 その瞬間、思わず息を呑む。


 甘ったれるな!


 強い念がシンドウの無表情から伝わってくる。先程まで熱気によって噴き出ていた汗は急速に引っ込み、代わりに滲んできたのは氷水のように冷たい汗だ。


「近接型の魔道師に大切なのは基礎身体能力だ。身体強化魔術を使って体を動かすことに慣れ切っていると素の身体能力が鈍る」

「そ、それは分かるけど……」

「いいかイズナ。お前は女性だ。たしかに魔道師であれば基本的に男女の戦闘能力に差はない。だが、ある一点で女性の魔術師は、明確に男性の魔術師よりも劣っている部分がある」


 女性の魔道師が持っている欠点。戦闘スタイルを近接型に変更するからこそぶち当たる女性特有の問題だ。


「け、継戦能力の差……だよね」

「そうだ。魔術を使えば男女の身体能力差は簡単に埋められる。だが十の力を百にするのと六の力を百にするのでは必要なエネルギー、つまり魔力の消費量が違う。男女の筋力差は一・六倍と言われている。つまり女性が男性と同じ身体能力を得ようと思ったら魔力の消費量は筋力差の分だけ跳ね上がるんだ」


 女性の魔道師が男性と互角の殴り合いを演じようと思ったら、より魔力を多く消費し続けなければならない。それ故女性の近接型魔道師の数は、男性と比較すると少ない傾向にある。


「イズナの魔力量は、平均的な魔道師の三倍はあるだろ? 俺の魔力量は、平均の二倍ちょいってとこだ。並の魔道師一人分ぐらい俺とお前は魔力に差があるが、同じ接近戦型の戦闘スタイルで戦ったらどうなる? 体格差まで考慮したら魔力のアドバンテージはないに等しい」

「だ、だから基礎体力をつけるって……こと?」

「素の身体能力が高ければ高いほど魔力の消費量は抑えられる。それに相手の懐に飛び込むためにも、ダッシュ力の強化も必要不可欠だ。イズナの身体能力は、女性の中じゃかなり高い方だが、さらに高いに越したことはない。町内をあと五周するまで終わらないぞ!」

「うへええええええええええ!」


 理屈は分かるけど脚が重ったるい。鉛のようになるなんて表現があるけど、今の状態は鉄の塊だ。筋肉にはもはや悲鳴を上げる余力すら残されておらず、体力は底をついた。削った魂を燃料にして強引に駆動させる。

 これが一ヶ月間、毎日続く?

 考えたくもない。もう無理だ。こんな練習をしていたら、試合の前に身体を壊してしまう。

 五百年前の英雄とは言え、ここまで差があるなんて。こんなに違うのか。そのシンドウと砲撃だけなら互角と言わしめたユーリ・ストラトス。

 本当に一ヶ月で勝てるようになれる?

 自問自答を続けながら、ただひたすらに走る! 走る! 走る!

 そして――。


「つ……つ、疲れた……」


 ようやく走り終えたイズナは、ジムの入り口を踏み越えた瞬間、トレーニングルームの床に倒れ込んだ。もう動けない。動きたくない。動いたら死ぬ。


「まだ練習終わってねぇぞ」


 シンドウは平然とした顔でそう言った。どうやら本格的にとどめを刺しにきているらしい。


「もう無理ぃ! 動けないよぉ! 残りは明日にしようよー……」

「そうか。ユーリに勝てなくてもいいのか」


 鋭い言葉の切っ先が胸に突き刺さる。


「三冠の夢とやらも口だけか……」

「そ、そんなわけないじゃん!」


 そうだ。そんなわけない。おじいちゃんとの約束はイズナにとって一番大切な約束だ。絶対に約束は破らない。絶対に裏切らない。諦めてたまるものか。

 ゲンイチロウとの別れの時にも改めて誓った。絶対に三冠を制覇する。絶対に夢を諦めない。

 その約束は口先だけの願望じゃない。

 絶対に叶えなくてはならない夢なのだ。諦めてはいけない夢なのだ。


「私は、絶対に夢を叶える! 諦めない! 絶対のぜーったいに!」

「でも、三冠を取るなんてこのトレーニングを毎日こなすよりも大変だと思うぞ」


 安い挑発なのは分かってる。悔しいけどそれが今のイズナには一番効く。

 そうだ。シンドウ・カズトラの指導は厳しいが、それはイズナを強くしたいと願っているからこそだ。

 応えなくてはならない。期待にも、信頼にも。伝説の魔道師がマンツーマンで指導してくれる機会を得られるなんて、この世でもっとも幸運な魔道師の一人なのだから。


「分かったよ! なんでもやってやる!」

「いい返事だ。それにこの練習は、今のイズナにとってはご褒美だぞ」

「ご褒美?」


 シンドウが頷くと、突如イズナの手足を水流が包み込んだ。


「え!? ちょっと!?」


 疲労困憊の状態のせいで反応が間に合わない。逃げ遅れたイズナを巻き込みながら水流は瞬く間に水球を形成し、トレーニングルームの中央に鎮座した。


「動かなくていいトレーニングで火照った身体を休めるんだ」


 たしかにさっきは辛いばかりの脱力練習だったが、熱のこもった筋肉には最高のご褒美だ。


「あぁー。気持ちぃー。シンドウさんの言う通り、これ最高だよぉー」

「これが終わったらまたランニングだ」

「……ええええええええ!」


 無情な死刑宣告に思わず全身の筋肉が強張ってしまう。すかさず水球の底から引っ張られる感覚が襲来し、水球の中へ引きずり込まれた。


「ごぼぼぼ!」


 前言撤回。やっぱりこの水球の練習は、とっても辛かった。

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