第二着 和装男子と儚き女
壱
ふと気が付くと、目の前には一本の木があった。
朱色に染まった葉を抱いて、凛とした佇まいで立っている。
優しく流れる秋風はさらさらと木の葉を揺らして、俺の足元に一枚の葉を運んできた。
その葉は、茜色に染まった椛の形をしていた。
俺はそれを拾おうと、しゃがみこんで手を伸ばす。
その瞬間、誰かと手が触れた。
伸ばした手に重なっていたのは、ほっそりとした白い指先。
驚いて触れた手がある方向に顔を向ける。
そこには、着物を着た妙齢の女がいた。
白くてか細い指先の持ち主である女は、俺と同じようにしゃがみこんで足元の椛に手を伸ばしている。
彼女は目が合うと、優しげに微笑んでいた。
弐
窓から差しこむ光が眩しくてうっすらと目を開けた。なんとなく疲れが取れていない感じがした。夢でもみていたのだろうか。だが、そんな記憶もなく、もやもやとした気持ちが心の中を占めていく。ふと、壁に掛けた時計をみると午前十時をまわっているところだった。珍しく遅い時間での起床だ。そう気づいた俺は開かない目を擦り、急いで布団から出て、洗面台に向かう。
顔を洗い、タオルで拭き、髪を結う。そして、箪笥の中から鈍色の着物と黒帯を取り、急いで着付けを始める。着物に袖を通すと、兵児帯の形に結んだ。その一連の流れを素早く行った後、台所に行く。
台所ではすでにパンが焼きあがる音がした。ユウコはオーブントースターから食パンを取り出して、マーガリンをのせている。
「おはよう、ユウコ」
俺はユウコの向かいに座って挨拶した。すると不満そうな目で見つめ返されて、一言。
「起きるの、おそい」
そういって、頬を膨らませた。そして焼きあがったパンを皿の上に乗せて、俺に渡す。それを口に含むと香ばしくてもちもちとした食感が広がった。
朝食をとり終わると、店の入り口へと急ぐ。自宅の裏口から続く廊下を20歩ほど行くと店の裏口へと辿り着く。そして、裏口を開け、部屋の中に足を踏み入れた。そのまま早歩きで部屋の中を通りすぎると店の入り口にたどり着く。鍵を外し、入口の戸を開けると、少し冷たい外の空気が部屋の中へ差し込んでいった。寒さを感じて肩が震えた。上着を持ってこようと思って、後ろを振りかえる。すると、朝食の後片づけを終えたユウコが俺の羽織を持って立っていた。ユウコは基本黙って現れる。しかし、俺のことをよく見て行動している。現にこうやって俺が必要なものをすぐに調達できることがなによりの証拠だった。
お礼を告げ、ユウコから羽織を受け取って肩にかける。そして、店内が寒くならないように後ろ手で入口を閉めようとした。しかし、閉まらない。途中で何かが引っかかり、壁と戸との隙間が三寸ほどできているようだった。戸のどこかが壊れているのかと思い、周囲を見渡す。しかし、戸に引っかかる要因になりそうな小石などは何処にもない。外の方に顔を出すと、薄い若草色の和服を着た女性が入口の戸を押さえていた。長い黒髪に白すぎる肌。幼い顔立ちの割には落ち着いた雰囲気を醸し出していた。
「あのっ、『寿屋』とは此処のお店でしょうか」
入口の看板を見ていなかったのだろうか。目の前の女性は少し不安げに尋ねてくる。
「ええ、そうですよ。呉服店の寿屋にようこそ。俺は此処の店主の寿綺羅と申します」
そう言って、この客を出迎えた。
「今日は見に来ただけなのですが、それでもよろしいでしょうか」
入口から店内に促したあと、すぐにそう聞かれる。
「大丈夫ですよ」
俺は安心させるように笑顔でそう答える。
「そうですか、ありがとうございます。……あっ、あの振袖可愛いですね」
そう言って、着物を見つめている。着物に穴があくのではないかと思ってしまうくらいに。
そして、一つの着物を見終わった途端、新しい和服に目移りしていく。そうしてくるくると店内を動き回っていた。
その様子をユウコは、不思議そうに眺めている。そして、俺はその様子を観察して気配りをしつつも、反物を畳むなどして店内の整備を進めていた。
呉服店は個人経営が多い。店に並べる商品はほとんど店主によって左右されているだろう。だから、店主と自分の着物の好みが合っているか確認するために訪れる客もいるそうだ。
しかし、この女性はその目的でここに着ているとは思えなかった。店頭に陳列している着物一つ一つに対しての初々しい反応がそう感じさせたからだった。
女性はあちこち店内を動きまわっていたが、ある着物の前で突然立ち止まる。それは、俺の作業場の近くに衣桁に掛けられている京友禅の訪問着。黒を基調とし、華やかな模様が豪快かつ繊細に描かれている。それを前に彼女はうっとりとした表情を浮かべている。そんな彼女に相打ちをかけるようにそっと声をかける。
「お気に召しましたか」
「……はい」
そう答えた後、彼女は目を一段と輝かせてこう呟く。
「この紅葉の柄がとっても綺麗」
「これは龍田川という柄です。龍田川は昔から多くの詩歌が詠まれている紅葉の名所で。たしか奈良県にあったと思いますよ」
俺はできるだけ彼女の言葉に対して簡潔に丁寧に答えた。彼女はそれに満足したのか、さらに和服について色んなことを聞いてきた。口下手な俺は、人に何かを説明することがとても苦手なので、正直頭が痛かった。しかし、和服について好奇心を膨らませている彼女の期待を裏切らないよう俺も必死に答えた。だから気づかなかった。彼女がだんだんと話しているうちに、寂しそうな表情を一瞬浮かべていたこと。よく笑顔を浮かべていた彼女が思いつめた憂い顔をよく見せるようになったこと。そして目が潤んで今にも泣きだしそうな顔に変化してきていたことも。
「ないてる」
ユウコがそう呟いたとき、俺は彼女の顔を見つめて、呆然とするしかなかった。ユウコはそんな俺を気にもせず、客にちり紙を持っていく。相手は首を横に振り、受け取ろうとはしなかった。
「すみません。私、この着物を見て感動してしまって。あの人との約束を思いだして…」
「約束?」
ユウコが俺の隣に来て問い返す。
「はい、ずっと前に私のことを綺麗だと言ってくれた人との約束です。私が好きな椛をイメージした着物を絶対作ってくれるって。でも、私はその着物を受け取る前に彼と離れないといけなくて…」
切実に訴える彼女の目には涙が溢れていて、俺には知りえない事情があるのだろうと考えた。しかし、女を泣きやませるような方法を知らなかったので、俺もひたすらに自分の思いを話すことしかできなかった。
「多分、その人はちゃんと、着物を仕立てて貴方の帰りを待っていると思いますよ。この着物は先代の申し出があって、俺が結ったものなのですが、中途半端な気持ちで仕立ててはいません。この反物を織ったアイツも多分そうです。アイツの真剣な思いが反物を通して伝わってきますから」
彼女は驚いたのか口をポカンと開けた顔で俺を見て、そしてにこりと柔らかく微笑んだ。
「店主さんの話聞いたら少し落ち着きました。それにしても、すごいです。自分のことだけじゃなくて、反物を作っている人のことまで考えているなんて」
「いえ、アイツのことなんて一寸も考えたくないですよ。私生活では絶対に関わりたくない、趣味の悪い触角をぶら下げているような男ですから」
俺が思わず少し不機嫌な態度で話していると、彼女はうふふと声を立てて上品に笑う。しかし俺は、不思議な感触におそわれていた。彼女の声がだんだん小さくなる。なぜだ。彼女は隣にいるのに。しかも、その間に彼女の体は周りの景色と同化し、光の中にとけていっている。錯覚かと思い、目を擦るが何も変わらない。それでも彼女は笑う。綺麗に。美しく。
「ありがとう」
消える直前、彼女は最後にそう呟いた。
俺はとっさに彼女を掴もうと手を伸ばす。
はらりと衣桁から着物が落ちる。
着物が落ちた瞬間、女は泡のように消え去った。
だが、空を切ったはずの俺の手には、どこか見覚えのある茜色に染まった椛の葉が残っていた。
参
ある病院に、白髪の男がいた。
病室の窓辺に腰掛けて、真剣な眼差しで布を縫っている。
優しく流れる秋風はさらさらと木の葉を揺らして、彼がいる窓に向かって一枚の葉を渡した。
その葉は、茜色に染まった椛の形をしていた。
部屋の中にいた男はそれを拾おうと、窓辺の淵にそっと手を伸ばす。
その瞬間、誰かと手が触れた。
伸ばした手に重なっていたのは、ほっそりとした白い指先。
触れた手がある方向に顔を向ける。
開いた窓の外には、和装姿の女がいた。
女は窓の外から手を伸ばし、男と同じものを取ろうとしていた。
白髪の男と和装姿の女は目を合わせ、そっと微笑みあう。
そして、男はこう呟いた。
この椛は綺麗だねと。