第一着 和装男子と恋心
壱
町の大通りを抜け、路地裏を進んでいくと一軒の日本家屋がある。
そこには、こんな看板が掲げられていた。
「寿屋」
この家は古くから伝わる由緒正しき呉服店。
今日も誰かが、この地を訪れる。
弐
春が来て、俺は寿綺羅を襲名した。寿家第八代目として店を任されるようになったのだ。昨年、先代の病気が悪化したのをきっかけに跡を継ぐことを決めてから早一年。今では、和裁士として日々仕事に打ち込んでいる和装男子である。
今日は八月一日。真夏の昼下がり。窓から流れる風が風鈴を揺らし、らりん、という音を立てる。それを聞きながら俺は黙々と作業をしていた。バイタという板の上に反物を広げ、一ミリのずれもないように手で縫い合わせていく。ふと額に湿った感覚がして、縫う手を止めて顔を上げた。すると、目の前には朝顔をあしらった小紋柄の浴衣を着た小さな女の子がいた。
この女の子はユウコ。八代目になった途端に現れた妹分。普段は勘定をしていて、無口だが数少ない働き手でもある。その彼女は「タオル」とつぶやき、薄い布のハンカチを渡そうとしていた。
「それ、ハンカチな」
何気なく指摘してやっても彼女は首を縦には振らない。
「タオル」
そういって、鼻先に当たるくらい布を近づけた。しょうがないと思い、仕方なく彼女のいうタオルを受けとって汗を拭いた。
そうして、しばしの休息をとっていると、レジに置いてある黒電話が金属音を鳴らしていた。受話器を取ると、耳元を抑えたくなるぐらいの大声が響く。
「おう、元気にしとったかのぉ。愛しの綺羅よ」
電話の相手は、遠くの病院に入院中のじっちゃん。この人は第七代目の寿家和裁士。師匠でもあり、俺の祖父でもある人だ。
「じっちゃん、また病院から電話して。病気は大丈夫なのか?」
「心配することはありゃせん。こう見えてもじっちゃんは体力には自信があるぞぃ…」
といいつつも、声がだんだんと薄れていき、しまいには激しく咳き込んでいた。
「おいっ!」
俺は病気がひどくなったのではないかと思い、焦ってとっさに叫んだ。しかし、その必要はなかったようだ。
「さっき食べたわらび餅が…」
そう言った後、電話の向こうでは喉を鳴らして水を飲む音が聞こえた。餅が喉に詰まって息ができなくなったら、どうするのだろうか。本当に全く笑えない冗談である。
「はっはっはー、ドッキリ成功じゃ。そういえば、町の大通りである祭りはいつだったかのぉ」
「今日だよ」
「わしも行きたかったぁ。若くて美人なお姉さんと一緒に」
「あんたは、それが目的だろう!」
思わず突っ込みを入れてしまった。この人のセクハラ発言には頭を悩ませている。看護師にもそんな卑猥な目で見ているのだろうか、考えるだけで頭が痛い。そんな俺の考えをことごとく無視するのも祖父の特徴。
「何より元気そうで安心じゃ。わしはこれから検査があるから電話切るぞぃ。」
「ちょっと待」
言い終える前に、繋がらなくなったため、病気がどうなのか聞けないまま無情にも電話が切れた。
「そういえば、今日は祭りだったな」
電話で話した祖父の声を思い出し、一人呟く。それを聞いていたユウコが、首を縦に振っている。
「早めに店閉めて俺たちも行くか?」
「行く」
羨望の眼差しで見つめる彼女は、あっさりと俺の誘いを受けた。
窓から差す光も少し赤みを帯び始めていた。大通りに向かう人の話し声がだんだんと大きくなっていく。時計に目をやると、祭りの開始時間が近づいていた。俺は、店に出してある着物を箪笥に直していた。ユウは今日の勘定を済ませて手伝いをしている。小柄な体でうさぎのようなジャンプを繰り返している姿は何とも微笑ましい。おもしろくて観察していたら、急に彼女の白い長髪がふわりと宙を舞った。そして縦に大きく波打ち、静かに降りる。その瞬間、無表情でポツリ。
「客、くる」
それと同時に、カラカラと音を立てて店の戸が開く。
「すみません、えっと呉服店は此処ですか?」
テノールの声が、誰もいないはずの店内に響く。
奥の部屋で作業をしていた俺は、浴衣の裾が乱れないようにすり足で表へ出る。戸の前にはTシャツにジーパン、サンダルという格好の年若き男の姿。
「いらっしゃいませ、呉服店の寿屋へ」
恭しく頭を垂れて目の前の客に敬意を払った。
参
閉店間際の寿屋に、客が来店した。その人はTシャツにジーパン姿の若き青年だった。
男は、中の様子を見渡すと「浴衣ありますか?」とごくごく当たり前のことを尋ねてきた。店内にある商品はほとんど直してしまったので品薄状態と勘違いされたのだろう。そんな男を安心させるように笑顔を向けて話す。
「ありますよ。よかったら見て行きますか?」
「あっ、はい。お願いします」
失礼しますなどと呟き、おそるおそる足を踏み入れた。
遅れてやってきたユウは男の傍へ赴き、持っていた鞄を預けるよう促す。青年はとんでもないといった感じで手と首を横に振ったが、押しに負け手ぶら状態になった。
「申し遅れましたが、俺が店主の寿綺羅。この女の子はユウコと言いまして、妹のようなものです。失礼ですが、貴方のお名前をお尋ねしてもよろしいでしょうか?」
「名前?僕の?僕は田中秀一郎です」
「それでは秀一郎様。ご案内いたします」
ユウに店の奥にある男物の浴衣を持ってくるよう指示をだし、隣に立つ客を浴衣置き場に案内する。その間、俺の姿を足先から頭まで目線を向ける青年。
「店主さんって男前ですね。すごく和物が似合ってかっこいいです」
といきなり言われたので正直、戸惑ってしまった。今の俺の姿は、黒を基調とした霞模様の浴衣で、黒髪を一つに纏めているはずだ。お世辞にも決して褒められる容姿ではない。しかし、それを悟らせないように微笑を浮かべてごまかした。
「ありがとうございます。これは俺が結ったものなので」
「えっ、本当ですか。すごいなぁ」
彼は驚嘆の声を上げつつも、なぜか表情はすぐに曇った。
しばらくして、ユウが「ゆかた」と単語を吐いて、前が見えなくなるほど大量に運んできた。適当にお礼を言うと、机の上に布をきれいに並べていく。男物なので基本的には暗い色が多い。彼は、真剣に着物たちを見ていくが、首を傾げたままだ。この店にラフな格好の時点で、おしゃれなどに到底興味があるようには思えないのでこういうことは苦手なのだろう。それでも、一生懸命に食い入るように見ている。しかし、布と彼自身を交互に一瞥しては、ため息を吐いて項垂れている。やがて疲れたのか、覇気のない声でこう尋ねていた。
「店主さん、おすすめはありますか?」
そう聞かれて、彼の姿を再度確認した。褐色の肌に、灰色の短髪。童顔だが目鼻立ちは整っている。体系も悪くない。
「おすすめですか、そうですね。これなんかいかがでしょう」
俺が選んだのは紺色の浴衣だった。袖や裾の部分に、白や青で水面の模様と魚の姿が描かれている。布という海の中で優雅に泳ぐ魚が、なんとなく彼に似ているような気がした。俺は机の上に広げてよく見えるように移動を促す。彼は目を輝かせてその布を手にとった。気に入ったみたいだ。
「着付けもされていきますか?」
俺の問いに、彼は頷いた。
「苦しいですか?」
「いえ、大丈夫です」
店の奥の部屋に入った俺たちは、浴衣の着付けをしていた。紺を羽織った秀一郎は、目を潤ませて、手を強く握り何かに耐えているようにも見えた。
「いい筋肉がついていますね。何か運動でもされているのですか」
少し変態チックな質問かもしれないが、会話をして緊張を少しでもほぐしているつもりだ。
「あっ、一応水泳部に所属しています」
彼が答える間に腰紐を後ろに回して交差させる。手早く結び、脇のところに余った部分を入れ込む。その瞬間、青年は少し体をくねらせた。反動で、俺の浴衣の半襟にはさんでいた赤い金魚の髪飾りが落ちる。畳の上だったのでそんなに音は立たなかったものの、落ちた髪飾りを急いで拾う。手のひらにのせ、傷がついていないことを確認して一安心する。
その様子を青年は固唾をのんで見ていた。
「すみません、僕が体をくねらせたばっかりに」
「いえいえ、俺の方こそ着付けを中断させてしまって申し訳ありません」
そう謝罪すると、髪飾りを近くにあった机に置き、着付けを再開する。
秀一郎はその髪飾りが気になるのか、ちらちらと横目で見ていた。
「今日はどうして浴衣を?」
浅葱色の帯を取り出して、腰に巻いていく。
「あぁ、えーと。僕には彼女がいまして、今日が初めてのデートというか、お出掛けみたいなものでして。それで少しは喜ばせてあげたいなって。彼女は此処で買った浴衣を着ると言っていたのでその、はい」
いつも以上に饒舌になり、顔を真っ赤にさせて話す。つまりは、彼女とお揃いにしたいということだろう。物思いにふけっている間に俺は角帯の形に整えた。
浴衣へと変装した秀一郎は、再び店内に出た。一歩進むたびに、首を動かして自分の姿を確認している。似合いますかね、と何度も聞き返す彼は自信がなさそうに見えた。
サンダルを履き直し、ユウから預かっていた鞄と、洋服を受け取る。そして俺たちの方を向き直ると鞄から財布を取り出した。
「御代はこれでお願いします」
彼が御代を払おうとした瞬間、戸がバンという音を立てて開いた。
「やっぱりここにいたのね、秀一郎!」
「珂子」
戸の前には緑のショートヘアに、緑を基調とした花柄の浴衣をきた少女が立っていた。彼女は、とある川に住んでいるうちの常連客である。きゅうりが大好物で、いつも川泳ぎばかりしているのだが、たまにこうして着物を買いに訪れる。必ず挨拶だけはするのだが、今はそのことすら忘れている。少女はずかずかと入ってくると、秀一郎にすごい剣幕で文句を浴びせる。
「集合場所はこの店の前だったのに、どうして中に入ったの?」
「いやぁ、折角だから店内を見ようかなって」
会話をしている間に秀一郎はどんどん壁側へ追いやられている。もう逃げ場はほとんどない。少女は興奮しすぎて、人間の手から爬虫類のような手へと変わっていく。
「もう、この店で秀一郎の浴衣選ぼうとしていたのに。既に着ていたら意味ないじゃない」
「お客様、それは勘違いですよ。秀一郎様はこの店で浴衣をお買い求めなさいました。俺が見立てて差し上げましたが何かご不満でもございましょうか?」
俺がすかさずフォローに入る。少女は彼の姿を足元から見上げると、顔を少し赤らめてそっぽをむきながら呟いた。
「確かに、その見立ては正しいけど。私が選んだのも着てほしかったの」
「それは、秀一郎様も一緒です。貴方のためにこんなものもお選びになられていたのですよ」
俺の隣にいたユウコの手には、赤い金魚の髪飾りがあった。これは、先ほど着付けをしている際に秀一郎がずっと見つめていたもの。水泳をしていると彼は言っていたし、恋人なら好きな趣味を共有しているはずだと考えたので、すかさずそれをユウコに渡したのだ。
ユウコは秀一郎の所まで赴き、髪飾りを手渡す。そして俺は、秀一郎にこっそり彼女の髪につけるように耳打ちした。彼は驚いた顔をしつつも、彼女としっかり向き合う。震えながらも優しい手つきで緑の髪をなでる。髪飾りを付け終え、手を放すと二人とも顔を茜色に染めていた。
「やっぱり、此処の歴代店主はむかつく奴ばかり。だけど、秀一郎に免じてこれからもご贔屓にしてあげる」
「有り難うございます。珂子様」
お辞儀をすると、行こうか、と秀一郎が彼氏らしく人間の手に戻った珂子の手を握る。
「バイバイ、秀一郎…カッパ」
「それでは、よいお祭りを」
そうして恋人たちは、夜の街へと繰り出した。