8 悪女は慰められる
そのまま堂々と、書架向こうの自習室へと歩みを進める。
開け放たれた扉の向こう、長机には椅子が二つ並んであって広めの机の端には花の鉢植え。
窓から吹き込む風に、そのサラサラな髪を揺らしながら真剣な瞳で何かを紙に書きつけている彼が見えた。
礼儀として一応のノックを鳴らす。
「ゼファー? 今よろしくて」
あわせて声をかけると、濃く長いまつ毛に縁取られた水色の瞳が私を真っ直ぐ見てきた。
「ウルムか、いらっしゃい」
「勉強の邪魔をしてしまったかしら?」
「いや、丁度君のことを考えてたから大丈夫」
「……ゼファー、そんな軽口は自分の身を滅ぼしてよ」
彼は私の言葉にハッとして、思わずといったように右手で口を押さえた。
そして何事か考えた後、その手を今度は前髪にやり髪をくしゃっと握り込みながら口を開いた。
「ごめん、浅はかだった」
「わかればよろしい」
私はゼファーが失態にあまり落ち込まないよう、なるべくおどけて居丈高に返事をする。
意図がわかったのか、彼はゆるく吹き出しながら言葉を重ねた。
「許してくださり感謝いたします姫様」
「ふふふ、精進なさい」
「御意。……ところで何か俺に用事かい?」
聞かれて思わず出ていただろう笑みを引っ込め、心もち真面目な顔を作って口を開く。
「ええ、用事よ。今日までに収集した情報を共有しておこうかと思って」
言いつつゼファーの左隣にある椅子に腰掛けると、彼の方を向いて続けた。
「協力、してくれるのよね?」
「約束したからね」
「押しかけ約束みたいになって、申し訳ないとは思っているの。ゼファーにとってはなんの益もないんですもの」
「それは言ったでしょう。益とかで推し量っていい問題ではないし、俺にとっては得があるかもだしね」
「そこまで言うなら、甘えさせてもらうけれど」
「そうしてくれると嬉しいな。で、ウルムの話から聞こうか」
言いながら彼も自身の勉強の手をとめ、こちらに向き合ってくれる。
こういうところが、ゼファーらしい。
私はそのことに安心しながら、話し始めた。
「まずは、王子と彼女はどうやら深い仲らしいっていう噂があるようよ。えっと、これは級友の中で私を決めつけで見ていない子に声をかけて、仲間になってもらったから知れた情報なのだけれど」
「え、あいつ!」
「あいつ?」
少し憤った口調になった後、ゼファーが言い直した。
「じゃない……こほん、殿下はもうそこまで?」
「不敬になるわよ、ゼファー」
友人、位には思ってもらえているのだろうか。
それならば、嬉しいのだけれど。
「それだと、これは誤った情報かな。俺の方では、ちょっと詳しいやつに聞いたら、ナナリ゠デューデン男爵令嬢とすごく親しくしてる男子生徒が何人かいて、そのうちの二人ほど、街で二人きりでいるのを見たって」
「……変ね。王太子のことが好きで婚約者の座を狙っているのなら、身辺には気を配っても良さそうなのに」
「そうだね。うーん」
唸りながら彼は私の左手にいまだ巻かれたままの包帯を、ちらりと見る。
傷が案外深かったらしく、まだ傷がくっついたとは言ってもらえていないその手を、私は右手で包み込んだ。
「……こう考えてはどうかな。確か君のその手は級友の男子生徒にやられたと言っていたろう?」
「ええ」
言いながら彼は、勉強した内容を書きつけていた用紙の余白に、何ごとか書いていく。
「こんな感じで、デューデン男爵令嬢が男子生徒を焚きつけて、君への嫌がらせを実行していたとしたら? 自分の手を汚したくないと考えても不思議ではないからね」
「確かに。ないとは、言えないわね……」
相槌を打ちつつ、見るとそこには彼女を取り囲む数人の男子生徒、彼女と付き合っているらしい王子。
そしてその王子にもまた、彼女とは別の女子生徒が一人、いるという図が書き込まれていた。
私は何気なく、その女子生徒を指差してゼファーに尋ねた。
「ね、ところでこれは誰なの?」
「えっと、それは……」
彼が気まずそうに視線を逸らす。
「今更だわ。私は……そう、大丈夫だから、教えて?」
私は平気だと主張したくてゼファーが逸らした視線の先から彼を覗き込み、両手を組みながら懇願した。
「っああ、もう! なんで……わいいかなぁ?!」
突然彼が聞き取れないくらいの早口と少し大きな声を出す。
びっくりしてでも知りたくてじっと彼の方を見ていると、こちらにチラッと視線をやった後、ちょっとのため息と共に彼が話しだした。
「落ち着いて、聞いて。殿下にはどうにも、昔から、一人の想う人がいたらしいんだ」
予想をしていた通りの答えに、案外と衝撃を受けていないことに自分自身驚いた。
麻痺したとか、そういう感じではなくて。
すとんと、納得した。
「そう」
「……大、丈夫? じゃ、ないか」
ん、と言いながらゼファーは両腕を広げてこちらを見てきた。
ちょっと照れているらしく、耳が赤い。
「女の子は悲しい時人の胸で泣きたいものだと、聞いたから」
私が反応できないでいると、そっぽを向きながらそんなことまで言ってくる。
その言葉と行動に、なんだか泣きたいほど嬉しくなってしまって。
ほんとに、嬉しくなってしまって。
うっかり眦に涙が溜まってきた。