10 悪女は昔を懐かしむ
助けを求めながらも半ば昔のように我慢する気持ちが出かかったところで、ゼファーの声がして。
王子が慌てて手を離し、私は膝から頽れた。
「と、とにかく勝手な真似はするな!」
バツが悪かったのか、王子はそう言い捨てるとその場を慌てて去ろうとする。
その途中、何故か彼はゼファーを見て驚いたようだった。
「お前は……」
けど今度はこちらへとやってくる話し声が遠くから聞こえ、そのまま足早にこの場から遠ざかることにしたようで、その背中はみるみる小さくなる。
かわりに近づいてきたのは、さっき別れたはずのゼファーだった。
「大丈夫かい? ウルム」
「っええ、大丈夫、大丈夫だわ、私は……」
そう言いつつ。
何度も何度も唇を擦る。
ごしごしと、幾度も。
気持ち、悪い。
視界が霞むわ――
そう思った後のことは、何も覚えていない。
※ ※ ※
目を開けると、見知ったシャンデリアの下がる天井が見えた。
私は寝ていたらしい。
右へと顔を傾けるとお気に入りの机と椅子、収納棚がそこにあって自室にいるのだとわかる。
私、確か王子に襲われて……。
まざまざと思い出されて途端気分が悪くなる。
いよいよ自分が物にでもなった心地がして、見えていたお気に入りの自室が見えなくなった。
眦からこめかみまでが、冷たい。
どうしてこんなことになったの……
私は王子の変化が何故起こったのか、近くにいたはずなのによく分かっていない。
昔は、決して、こんなじゃなかったのに――
「ウルム、ウルム!」
キラキラとした目の王子に、手を引っ張られてどこかへ連れていかれている。
出会ったお茶会――ちなみに後で二人こってり叱られた――の後、私の何を気に入られたのかよく王城に招待されるようになっていた。
「こっちにちょうのさなぎがいたんだ!」
「まぁ、それはとってもすてきだわ!」
二人して、王城の薔薇咲く庭を手をつないでかけていく。
春には蝶々、夏には蝉。
気どらずその年頃の遊びをなんでもした。
木登り、虫取り、私のおままごとにも付き合ってくれた。
女の子二人になりきってお茶会ごっこ、お父様とお母様になりきっての家族ごっこ。
「わたくし、お茶をたしなんでおりますの」
「あらまぁきぐうですわ、わたくしもですのよ。このお菓子、おいしゅうございますわー」
ふふふふ、くすくすくす。
男の子も女の子も関係なしに、王子と私は遊びまわった。
竜退治ごっこ、鬼ごっこ、冒険者ごっこ。
川に入って護衛のおじさまに怒られて、泥んこ遊びでメイド長に慌ててドレスを洗わせてしまったけれど。
とても楽しかったのだ。
王妃様も、時折王子に付き添ってらっしゃって、木陰で涼みながら朗らかに見守ってくださっていた。
少し大きくなると段々とずる賢くもなった私たちは、上手いこと王妃様におねだりをして城下に遊びに行ってみたりもした。
活気あふれる市場、美味しい食べ物。
お忍びだから、コソコソしていたけれど。
最後に案内された、町を一望できる小高い丘で王子は言った。
「ウルム、俺はこの国が好きだ。もっともっと、面白く良い国にしたい。手伝ってくれるか?」
「はい!」
真剣な眼差しに私も真剣に返事をした。
二人でいることは、本当に楽しかったのだ。
出会って最初の一年、それくらいまでは。
思い出が溢れて胸が苦しくなった。
涙は枯れたと思っていたのに。
「まだ、かなしめるのね……」
トントントントン
呟いたと同時にノックの音がして、ついでメイドのシルフィの声がした。
「ウルムお嬢様、旦那様がお部屋に入りお話が聞きたいとのことなのですが」
「お父様が? わかったわ、通してちょうだい」
私はその声に返事をしながら慌てて立ち上がると、ベッド脇の小ぶりな机の上にあった羽織ものを寝間着の上から着て、応接セットの椅子に座った。
準備が整ったすぐ後くらいに、お父様がその巨体を心なしか縮めて扉から入ってくる。
座る私に少し目を見開きながら、向かいの椅子に腰掛けた。
「ウルム、起きていて良いのか」
「ええ、元から病気や怪我ではないもの」
「しかし倒れたと聞いた、それにこの前の怪我……」
「これは下手をうったと報告したでしょう?」
「だが……」
お父様が困り顔になる。
困らせたいわけではないのに……
「……王子と、不仲だと噂が出回っている」
「えっ。……そちらにも?」
「子供も大人も噂話は大好きだからな、すぐ回るのだ」
立ち回りを責められているような気がして、けれど次期王妃としてそれは至極真っ当でもあって。
私は情けなさに下を向いた。
「……ごめんな」
「謝るのはよしなさい。思えば私も親として不甲斐ないことをした。ウルム、すまない」
お父様の謝罪にびっくりして顔を上げる。
真剣な、深く紫紺の瞳が私を包み込むように見ている。
この瞳が大好きで。
私も紫の瞳だったから、お父様がそばにいてくださるようでとてもお気に入りで。
じっと見返しているとさらにお父様が口を開いた。
「あれから……もう九年になるのか」
「ええ」
「王族との関わりの手前、言えぬこともあるのだろう……だが親としてはお前の幸せを願っているのだ。家の基盤を築いてくれた国に恩義はあるが、それでも家族を損なうならば私は抗いたい。辛いことは、ないか……?」
じっと瞳を見つめられる。
髪には白髪が少し交じり始めていて。
そういえば私も王妃教育などが多忙で、ろくろくと話もしてこなかったことに気がついた。
あの頃、もしかして一生懸命うったえていたら、私はこの生活から抜け出せていただろうか。
考えても仕方がないことだけれど、言えたら何かが変わっていた未来にどこか救われた気持ちになって。
思わずぽろぽろと、この九年のあれこれをお父様に話していた。