最悪の選択
三度目にそのニュースを聴いたのは、火事の一件から7年ほど経った頃だった。
ぼくは大学に入学すると同時に親元を離れ、東京の下町にある小さなアパートで一人暮らしをしていた。
その頃、ぼくには同い年のガールフレンドがいた。彼女とは同じゼミで知り合い、すぐに打ち解けた。ぼくらは驚く程相性が良かったらしく、知り合って一月後には互いの部屋を行き来する仲になっていた。
ある日、ぼくは彼女から一緒に暮らさないかと相談された。どうしたのと質問すると、彼女は長い間口籠っていた。
ぼくたちは学生で、家賃の大半を親からの仕送りで賄っていたから、互いの親の承諾無しにいきなり同棲するわけにはいかない。そんなことは彼女だって良く解っているはずだった。
「前の彼氏につきまとわれてるの」
怒らないでと念を押された後、ぼくは彼女からそう告げた。
東京に出て最初に始めたアルバイト先で親切にしてくれた2歳年上の男と、一月ほど交際していたらしい。だがその男は、交際が始まると同時に性格が激変した。彼女を束縛し、大学に行かせないようつきまとい始めた。男に恐怖を感じた彼女は、男が目を離した隙に部屋を出て実家へと避難した。両親と共に警察に相談し、彼女が借りていたマンションに居座り続ける男と話をつけて追い出した。
彼女は部屋を替え、警察からは男に対してストーカー行為を止めるよう禁止命令を出してもらった。それから二年が過ぎ、すべて過去のことにだと思っていた矢先に、男が再び姿を現すようになったという。
「利用するみたいでごめんなさい。でもあなたと一緒に住んでるって知れば、あの男も諦めるんじゃないかって思って」
彼女が何かに怯えていることは感じてはいた。その理由が前に付き合っていた男のせいだと知って驚きはしたが、落胆したりはしなかった。寧ろ、彼女が秘密を打ち明けてくれたとが嬉しかった。
「きみの両親さえよければ、すぐにうちの親へ相談する。多分、反対なんかしない」
そう告げたとき、彼女がぼくに見せた笑顔を今でも覚えている。ぼくは本当に彼女が好きで、彼女の力になりたいと心の底から望んでいた。
週末に彼女の両親と会う約束をした。場所は上野公園に近いフレンチレストランだった。ぼくはバイト代で安いスーツを買い、慣れないネクタイを締める練習をした。
面談の前日、彼女と電話で話をした。彼女はぎこちなく、ここ最近ストーカー男は姿を見せてないから、もし嫌ならこの話は無かったことにしてもいいよと伝えてきた。
そうじゃないんだと彼女に伝えた。こんな話がなくても、ぼくはきみと一緒に暮らしたいんだと、ぼくの本心を伝えた。
「プロポーズされたみたい」
電話の向こうでクスクスと笑う彼女の声がした。あれは本当にプロポーズだったのかもしれない。あの時の僕にとって、彼女は本当に世界の全てだったのだから。
電話を切ると、鏡の前で再びネクタイを結ぶ練習を始めた。気持ちのいい春の夜で、明け放した窓の先から、咲き始めたばかりの桜の香りがした。
「踊りだしたい気分だな」
ぼくは呟き、オーディオのスイッチを入れた。大きな音は出せないが、CDで一曲位なら苦情も来ないだろう。仮に苦情が来たって、多分来週にはこのアパートを引き払って彼女と共に生活をするのだから構いはしない。
「今日最後のニュースです」
スピーカーから流れた声を耳にして、ぼくは凍りついた。
ぼくは音楽を聴こうとしていた。自分のオーディオで、自分で買ったぼくのCDだ。ここのところ酷く気に入ってる曲で、毎朝出かける前には必ず聴いている。それなのに何故、今日に限ってCDではなくラジオが流れてくるのだろう?
「23時45分頃、東京都江戸川区のマンションで、若い女性が男に右胸を刺される事件が発生しました。男は近隣の住民に取り押さえられ、駆け付けた警察に身柄を拘束されました。女性は一時心肺停止したものの、救急隊により意識を回復し、近くの病院へ搬送された模様です」
抑揚の無い、機械の稼働音のように平坦な声。間違いない。これは昔、ラジオから流れてきたあの女の声だ。七年の月日が過ぎてもなんら変化なく、昔と同じ調子で、昔と同じように不吉なニュースを淡々と読み上げている。
ニュースは更に続いた。胸を刺されたという女性の名前は伏せられていたが、取り押さえられた被疑者の名は公表された。その名は彼女から聴かされていた男のものと一致していた。
ぼくは時計を見た。時刻は23時30分。ここからどんなに急いでも彼女の部屋まで30分は掛かる。今から向かっても間に合いはしない。
ぼくは自分の携帯電話を探した。テーブルに置いたはずなのに、いつの間にか見えなくなっている。
辺り一帯を探しまくり、自分が着ていたスーツの内ポケットに入っていた携帯電話を取り出した。
まだ23時33分だった。ことがおこるまで12分もある。
「もしもし、どうしたの?」
電話の向こう側から彼女の眠そうな声が聴こえた。良かった。彼女はまだ無事だ。
「よく聴いてくれ。やつが近くにいる。すぐにそこから逃げるんだ。いいか。今すぐ部屋から出て、向いのコンビニに入って警察を呼ぶんだ。おれもすぐに向かうから、とにかく急いで行動して」
「ねぇどうしたの?なんでそんなこと言うの?ねぇ、わたし怖いよ」
「予告があった。いまからきみを襲うって。だから急いで逃げろ。もう時間が無い。頼むからおれを信じて」
嘘だ。口から出まかせだ。だけど一刻も早く、彼女を部屋から逃がさなきゃならない。
「わかった。すぐに来てくれるんだよね。待ってるから。だから絶対に来てね」
電話を切って部屋を飛び出した。この時間ならタクシーを使えば20分で着くかもしれない。腕時計に目を向けると、23時37分を示していた。大丈夫。これなら間に合う。
彼女のマンションの前に着いたとき、時計の針は0時7分を指していた。予想した通り、マンションの前の通りには救急車が停車していて、複数の警察車両も到着していた。
救急車に駆け寄ると、ストレッチャーを押してマンションの玄関から出て来る救急隊とすれ違った。彼女の姿を探したが、ストレッチャーには誰も乗っていなかった。
玄関から彼女の部屋のある五階まで階段を駆け上がった。五階の廊下に出たところで、警察官に止められた。
制止する警察官に向けて、彼女の名前を告げた。寄ってきた別の警官が、彼女の部屋に向かって走った。しばらくするとジャンパー姿の男が現れ、ぼくと彼女の関係を訊ねてきた。まるで犯人にでも対処するような、きつい口調だった。
「あの子の、被害者の家族の連絡先は知ってるか?知ってるなら連絡してすぐに来るよう伝えろ」
被害者?彼女は無事じゃないのか?充分でないけれど、時間はまだ在ったはずだ。
ぼくの脳裏に怖ろしい疑念が浮かんだ。救急隊は空のストレッチャーを押していた。ぼくはてっきり、彼女は無事で病院に行く必要がないからだと思っていた。だが、もし彼女が死んでいるなら、救急隊は彼女を病院に運ぶ必要は無くなり、やはり空のストレッチャーを押して戻ってくる。
「彼女は、あの子は無事なんですか?ねぇ、教えて下さい。お願いします。怪我してるだけですよね?ちょっと怪我して、警察に事情を話しているだけなんですよね」
「あの子は死んだよ。体中何ヵ所も刺されて、おれらが着いたときには、血塗れになって事切れてた。可哀想だけどそれが現実だ。あのクソ野郎のせいでな」
私服の警官が指差す方に、全身血塗れの若い男が立っていた。両脇を警察官に支えられ、手錠を掛けられているだろう両手には上着が掛けられていた。
男は視線を前に向けたまま、警官と共にぼくの脇を通り過ぎて行った。ぼくが飛びかかるのを警戒したのか、制服の警察官二名がぼくを背後から抱き止めていた。
「ばかな。そんなわけない。間に合ったんだ。時間前に、あいつが彼女を襲う前におれは忠告したんだ。彼女が死ぬわけがない」
ぼくを取り押さえている警官たちが顔を見合わせていた。ぼくが事件に拘る重大な告白をしていると思ったのだろう。後日警察に呼び出され、事の経緯を説明したが、結局誰一人として、ぼくの話を信じてくれる者は現れなかった。
どうしてあんなことになったのだろう?それから何年も、ぼくはあの日の出来事を思い出し検証を重ねた。だが辿り着いた結論は、あの日の出来事以上にぼくの心を苛んだ。
あの日、ぼくの電話を受けた彼女は、ぼくの忠告に従ってすぐに部屋から出た。そして廊下の先にあるエレベーターで、彼女の部屋へと向かう男と鉢合わせしたのだ。
驚いた男は、彼女をエレベーターの中に押し込んだ。逃げ場を失った彼女は激しく抵抗し、逆上した男は持っていたナイフで彼女を刺した。エレベーターのボタンに手を伸ばし、とにかく男から逃げようとした彼女を、男は背後から何度も刺して命を奪ったという。
あの日、ぼくが聴いたニュースの中では、右胸を刺されたものの彼女は一命を取り留めていた。だが現実には、彼女はあの男に殺されてしまった。どうしてそんなことが起きたのだろう。あのニュース自体に間違いがあったのだろうか?
そうではない。ぼくが聴いた時点では、ニュースは事実を伝えていたのだろう。ニュースが伝えた事実を、ぼくが塗り替えてしまったのだ。
あのまま部屋に残っていれば、刺されはするけれど彼女は助かったはずだ。だがぼくは、彼女に部屋から出るよう指示してしまった。その時点でニュースの情報は正確さを欠き、未来は上書きされてしまった。そして上書きされた未来は、昔の放火事件のようにいい方向に進むのではなく、最悪の結末に向けて進路変更してしまったのだ。
彼女の死はぼくのせいなのだろうか?あの時、どういう選択肢を選べば、ぼくは彼女を救えたのだろう?そもそも、あの時ぼくに選択肢などというものがあったのだろうか?あれから20年も経過した今になっても、あの時ぼくはどうすれば良かったのかわからない。