not young anymore
【プロローグ】
初夏。都会の風向きは変わりやすい。夕刻から吹く風は日中の蒸した空気を飛ばし、汗ばむ暑気と入れ替わったかのようだ。
退勤の時刻を過ぎたのであろう。帰宅を急ぐ者や、喧騒に繰り出す者達は駅へと群がっていく。逆行する存在は常に目立つものだ。駅から流れに逆らうよう、ビル街へと駆けていく男がいた。右肩には紺のスーツの上着を担ぎ、左手にはビジネス鞄。緩められたネクタイと、そこから僅かに覗く首元。いくら急いでいようが、街中で陸上部のように走るわけにはいかない。世間体がある。彼は世間が許す限界の速度で会社へと急いだ。
中規模オフィスの一角、その事務室。室内では3名の女性が、手持ち無沙汰にパソコンの画面を眺めている。仕事をしている素振りだ。今、彼女達にはするべき仕事はない。ただ、ひたすらに待っていた。それならば、スマートフォンでも見て暇を潰していたほうが良いと思われるかもしれない。しかし、その行為は……この部屋の主、お局様の機嫌を損ねること間違いない。そもそも定時は過ぎていた。にも関わらず、先に帰れば……何を言われるかわかったものではない。このようにして、お局以外の女性達はするべきことのないまま、帰ることすら出来ず……待っていた。何をかというと……領収書をである。
その時、事務室のドアが大きな音を立てて開いた。先程の男である。彼は息を切らしながら……
「す、すいません。まだ……間に合います?」
そう言うと、しわくちゃな領収書を取り出す。彼は少し前まで長期の出張に出ており、その経費申請は一括で行えば良いと勘違いしていた。しかし……社内規則には、領収書記載の日付から一定期間内に行うよう規定されている。彼は期日ギリギリの今日、それを伺い聞くと……自宅に放置していた領収書を取りに往復することとなった。その道程に全力を尽くしたであろうことは、彼の荒い息遣いに見て取ることが出来る。
急に男性が駆け込んできた。一瞬、事務室内の女性陣は驚きの表情を見せた。しかし、入室した者が男性だとわかると……お局を除いた彼女達は顔を余所行きの顔へと整える。男性の眼がある場所では、そうあるべきだ。そうでないと損をするかもしれない。身に染み付いているのだろう。だが、その部屋の主のお局は……表情を整えることはなかった。
「間に合いません。ですが、こういう事は大目に見るよう……上より、そう言われておりますので」
極めて事務的に領収書を受け取る女性。細い銀縁フレームのメガネの奥、その切れ長の眼で領収書を確認している。
「この金額ですと……口座振込になります」
「は、はい。お……お願いします」
険しそうな顔つきで領収書を確認すると、パソコンに向かい手続きを行っているお局に向け、男は深く頭を下げた。
室内、残りの女性達は……たかだか時間外の領収書の為だけに、定時を越えて残っていたのかと呆れ顔を見せる。何も全員が残るほどの仕事量ではないのだ。お局一人を残して帰れば良かったとも思う。しかし、結局はお局の機嫌を伺って帰れない。そんな事務室の内情には……ほとほと嫌気が差していた。
「貴方達、もう帰っていいわ。後は私がやっておきます」
彼女達に一瞥をくれることすらせず、打鍵を行いながらお局は言う。これこそが真に待っていたものだ。彼女達は我先にと扉へ向かう。そして更衣室へ向かい、帰宅しよう……そう考えた、その時。
「本当にすいませんでした。あの……今度の日曜、よろしければ食事でもどうです? 最近、近所に新しくカフェが出来たみたいですし、行ってみませんか?」
帰宅を急いで扉に向かっていた2名は思わず足を止めた。そして、何か忘れたものをしたかも……と自分のデスクへと戻る。その足取りは、ゆったりしていた。時間稼ぎであろう。彼女達は男性の誘いにお局がどう返答するのか……それを盗み聞きいてやるつもりであった。
「大丈夫ですよ。ぁ…………そ、それでは…………とりあえず12時にそこで」
彼女達は驚く。その後にニヤついた。まさか、あの底意地の悪いお局様が男性に誘われるとは……しかも、それを受諾するとは夢にも思わない。彼女達はその場に集い、ヒソヒソ話を開始するのだが……
「貴方達、まだいたの? 早く帰りなさい」
お局の厳しく鋭どい視線に部屋を追い出された。逃げるように退室する2名。しかし、様々な意味で冷静さを失していた彼女達は気づけなかった。男性に対し、平然として見えるお局、しかし……その手元のタイピングは乱れに乱れていた事を。
彼女達が退室すると、男性もお局にお礼を述べて事務室を去る。
部屋に一人取り残されたお局。すると、彼女はタイピングを止め……両手で顔を覆った。
ここで彼女の発言を見返そう。彼女の言う『大丈夫ですよ』。これは男の『本当にすいませんでした』への返答を意図していた。何故ならば、彼女は領収書の処理に気を取られており……男性の発言への注意が散漫になっていたことに起因する。そして、すぐに気がついた。自分が食事の誘いに即答で快諾してしまったと……。パニックになった頭では、その後の言葉は継げない。とりあえず時間だけを提示すると、ディスプレイに視線を向け……仕事に集中している素振りで場を凌ごうとする。少し離れた場所で、若い子達がうるさい。職権を利用して彼女達を追い出す。そして、その空気を読んでくれたのか男性も退室していったのであった。
そして、今……覆われた両手で顔を見ることはできない。しかし彼女の耳は紅に染まっていた。
「どうしよう。私、男の人に誘われるなんて……初めて」
彼女は両の手を押し付けたまま顔を左右に振る。そして……そう呟いた。その時の感情は彼女にしかわからない。
【A面 三上佳佑(34)】
帰ってから気がついた。俺……ひょっとして、やっちゃいましたか。自分としては、同僚に仕事をミスした時の借りを返すような感覚。その延長で食事に誘ったつもりだった。しかし、よくよく考えてみれば……。いや、考えなくてもわかる。誘った相手は女性だ。同僚との距離感とは……当然、違うよな。
どうしよう。ひょっとして……これはデートなのか? そんな疑問が頭を渦巻く。だが、その解を出すには……俺の恋愛経験は極めて浅い、浅すぎる。デートの定義をネットで調べたのだが、はっきりしない。それがはっきりしない事に俺は……はっきり言って、困っている。
【B面 椎奈沙百合(31)】
私は帰りの電車、徒歩での帰宅中の記憶がありません。帰路の私はどんな感情だったのでしょう。嬉しい? 恥ずかしい? 怖い? 何が怖い? デートが怖い? それとも……デートで失敗して嫌われるのが怖い? 何もかも覚えていません。仕方のない事です。いつも踏ん切りが付かず、勉強が……仕事が……と、言い訳ばかりして逃げ続けた結果でしょう。これが……恥ずかしながら三十路を越えた私の人生、初デートです。
感じるのはお酒を飲んだ後の、いい浮遊感。でも……この浮遊の魔法が解けたらと思うと、怖くて怖くてたまりません。逃げてしまいたい。でも……一度、浮遊してしまった気分は、それを拒むのです。浮いては沈む感覚は感情と同じく揺れ動きました。
【A面 三上佳佑(34)】
約束の日は明日。まずは、明日の予定から考えるか。とりあえず、女性を待たせるのは失礼だよな。安全に30分、いや……1時間くらい前に着いておいた方がいいんだろう。すると……朝にシャワーを浴びていくとして、そこまで早起きしなくても大丈夫そうだな。
服装は……下手に気張ってる感を出すのも何だな。普段使いのワイシャツに……そうだ、下をカラーシャツにする程度。うん、これくらいがいいよな。とは言っても、他に選択肢はない。だって、俺……ファッションとかには無知だから、流行りの服なんて持ってないんだよ。もしも俺の格好で恥をかかせてしまったら、ごめんなさい。その時は潔く頭を下げよう
そろそろ……寝るか。寝すぎないように目覚ましだけは、二重に設定しておくかな。
【B面 椎奈沙百合(31)】
明日は約束の日曜日。私は鏡を見つめていました。私は美人ではない。もういい年齢です。それくらいは、わかっています。
。やっぱり美容院の予約をしておけばよかった。でも、普段の髪のケアを疎かにしていたせいか……美容院に行く勇気に欠けていました。普段の仕事で邪魔にならないように縛った髪は、その部分が癖になっています。よく見てみれば少し痛んでもいました。
顔もそう。以前の少し疲れていた時期にこけてしまった頬は、今もこけたまま。若い子のような柔らかく赤みを帯びた頬にはもう戻りません。目元もいつしか険しくなったまま戻らないし、少し皺も出来ました。よく見れば鼻の形もかわいくない。会社の子達が私をお局様と呼ぶことは知っています。ですが、怒る気にもなりません。だって、今……鏡に映る私は、まさにお局様なのですから。
ああ、どうしよう。少しだけ思考が脱線しましたが……すぐに明日のことしか考えられなくなってしまいます。そもそも、明日は……何時に着けばいいの? マンガでよくあるように、遅れて行っていいの? 私にはデートの経験がないので皆目検討も付きません。
『ごめーん。待った?』
そんなシチュエーションを想像してみます。いや、ダメでしょう。だって、遅れてるのに失礼ですよね。じゃあ、時間通りに着けばいいの? でも、たまたま、その日に限って電車が遅れたりしたら……そうだ、もっと早く行かないと。じゃあ……30分? いや……1時間? それくらい早く行けば安心でしょうか? ひとまずは1時間前到着を目標にしておきましょう。
で……何を着ていけばいいの? デート用の服装なんてわかりません。ヒラヒラした服なら可愛い? でも、そんなの持ってない。今から買いに行く? 何処に?
気づけば日は暮れていました。今から買いに行けるようなお店は知りません。詰んだ。どうしよう。そうだ……逆に考えればいい。下手に可愛い服を着ていって……気合入れすぎだと思われるくらいなら、いっそ普段着。これしかない。むしろ……これが正解な気がしてきました。いや……実際には、他に選択肢はないんです。自分を騙すのはやめにしましょう。
あ、そうだ。明日はお風呂に入ってから行くべきですね。そうすると……多少、早起きしないといけないかもしれません。お風呂に入るとして……脱毛とかはしたほうがいいの? わからない。 どうしよう。 最初のデートに……脱毛は必要なんでしょうか? でも、最低限はした方がいいかも。だとしたら……起きる時間は早くしなきゃ。え? これじゃ普段の仕事と同じくらいには起きないといけないの?
あ、そうだ。天気予報を見て傘がいるか調べないと。それによってはお化粧だったり、靴だったりも変えたほうがいいですね。ああ、忙しい忙しい。
そういえば、カフェに行くって言っていました。行く前に何か食べておいたほうがいいでしょう。大食いだと思われたくないです。カフェでは……サラダだけ頼むのが無難でしょう。だとしたら……行く前にコンビニでおにぎりを買って、食べていく時間も必要です。そうこう考えていると、明日の私の起床時間は、普段よりも早く起きないといけない時間だと割り出されました。世間の人はデートの度に、こんなに苦労しているの?
あ……カフェにサラダが無かったらどうしよう。調べなきゃ……。え? 新しいお店だからか、そのお店のホームページがありません。それどころか……口コミもないです。
それと一番肝心なのは……デートって何を話したらいいの? これも調べなきゃ……。【さしすせそ?】 これはメモしておかなきゃ。
私がそうこうしている間にも、時間は残酷に過ぎていきます。気がつくと時計は頂点を回っていました。
そろそろ寝ないと……。
寝れない……。
【A面 三上佳佑(34)】
当日、俺は待ち合わせのカフェから、少し離れた場所で時間を過ごしていた。
「早く来すぎたな」
仕方ない。何処かをウロウロしていればいいか。俺は手近の通りを右に進み始める。
行儀は悪いがスマホを見ながら歩く。スマホと言っても、何らかのアプリを見ているのではない。ただ……時計を眺め、約束の時間が来るのを待っていた。
【B面 椎奈沙百合(32)】
寝不足のまま、私はちょうど1時間前に待ち合わせ場所の近くへと到着しました。寝不足は語弊がありますね。寝ていません。寝られませんでした。幸い、昨日見た天気予報通り、今日は晴れています。多少の顔色の悪さはお化粧で誤魔化しています。
朝からお風呂も入りました。脱毛も多少は行っています。服装は普段着です。一応、折りたたみ傘も持ってきました。頭の中で考えた予定は一個を除いては完遂できています。唯一、出来ていないのは……コンビニに行き損ねたことです。これでは、デート中にお腹が減ってくるかもしれません。ですが、一食程度抜いても……なんとかなるでしょう。腹ごしらえは出来ませんでしたが、今日は予定通りサラダだけを頼むつもりです。
そんな事を色々と頭の中で考えていても、思ったより時間は経ちません。ちょっと歩きましょうか。心が落ち着くかもしれません。
そして、私は手近の通りを左に進み始めました。
歩いている最中も、時間の経過が気になって仕方がありません。私は、すれ違う人にぶつからないように気をつけながら、スマホの時計を見ながら歩いて……約束の時間が来るのを待つのでした。
【A面 三上佳佑(34)】
12時。俺は約束のカフェに歩いていくと……ちょうど向こうから椎奈さんが歩いてきた。時間ピッタリみたいだ。良かった。
「先日はありがとうございました。あぁ……いえ、本日も来て頂きましてありがとうございます」
営業仕事で培われた成果なんだろうな。まずは謝辞から入る。多分、デートとしてみたら不正解なんだろう。でも、俺にはこれしかない。
「いえいえ。今日は仕事じゃないんですから、そんな頭を下げなくても大丈夫ですよ」
そう言うと彼女は笑った。彼女がどういう人物なのかは事務室の他の子に聞いてみたので、多少は知っている。だが、聞かされていたのとは様子が違って見えた。話では……彼女は短気で、威張り散らして、性根がねじ曲がっていて、年増で、お局様で、感情を失ったロボットだとか……耳にタコが出来るくらい聞かされたものだったのだが………その話は嘘だったんだろう。彼女の素直な微笑み……惹かれるには十分すぎるほど人間らしかった。
「さあ、行きましょうか。席が埋まってしまうかもしれません」
「そうですね。行きましょう」
俺は彼女の先を歩くようにして、そのカフェに足を踏み入れた。
【B面 椎奈沙百合(32)】
12時。私は約束のカフェに歩いていくと……ちょうど向こうから三上さんが歩いてきました。時間ピッタリみたいですね。良かった。
お互いが近づくなり、三上さんは……
「先日はありがとうございました。あぁ……いえ、本日も来て頂きましてありがとうございます」
そう頭を下げます。先日と言うと……領収書の日ですね。ああ、せっかくのデートだというのに……仕事の事を思い出すのは嫌ですね。
「いえいえ。今日は仕事じゃないんですから、そんな頭を下げなくても大丈夫ですよ」
私はそう返しました。それを言ってから気付いたんです。仕事の事を考えるのは嫌だと思っておきながら、私がそれを口に出してしまったら……彼の方も仕事を思い出して嫌な気持ちになってしまうかもしれません。私は……それを取り繕うべく、笑って誤魔化しました。その笑いはひきつっていた事でしょう。
「さあ、行きましょうか。席が埋まってしまうかもしれません」
彼は私を先導するように歩いていきます。あ、手を取るとかはしないんですね。それは……もっと上級者向けの所作なんでしょうか? わかりません。何と言っても、私の持てる全ての知識は恋愛系のマンガからの受け売りです。
「そうですね。行きましょう」
頭の中がいっぱいいっぱいの私は、彼の言う事をオウム返しする事しかできません。
【A面 三上佳佑(34)】
「じゃあ……ゴルゴンゾーラで」
俺は店員さんに注文を通した。頼んでおいてなんだけど……ゴルゴンゾーラって何だろうな。知らないまま頼んだのには理由がある。流石にデートでミートソースを頼むのは恥ずかしかった。だからメニューを穴が空くほどに眺めて……一番格好良さそうな名前のメニューを頼んだんだ。大丈夫、多分……美味い。それにしてもゴルゴンゾーラって名前、ボスキャラみたいだよな。しかも強そう。
「私は……このボウルサラダでお願いします」
椎奈さんはサラダだけを頼んだ。やっぱり女性は食が細いんだな。ここで……それで足りますか? とか言うのは野暮なんだろう。その言葉をぐっと飲み込むと、俺は彼女との会話を楽しもうと話題を振った。
俺と彼女は同世代なんで、会話は思った以上に盛り上がった。やはり10代の頃のような青臭さがないからなのだろう。互いが相手を尊重して、話をする、話を聞くのがバランス良くできるのが心地よい。若い頃は、ただ……良いところを見せようと気張って見せていたのが、何だか馬鹿らしく思えてくる。
そんな感じで、会話が盛り上がった時……注文の品が届けられた。これが……ゴルゴンゾーラか。一見、その色は白く、カルボナーラのようにも見える。その名前からして漆黒なRPGゲームのボスをイメージしていた俺は、真逆を付かれたことに動揺した。いや……動揺した理由は、それじゃない。俺は……あまり白い系の食べ物が得意ではないのだ。好きなのは茶色の食べ物。まあ……でも、この方がデートには相応しいのだろうな。格好良く見えそうだし。
俺は覚悟を決めると……白色のパスタを食した。うん、苦手な味だ。これは……短期決戦で食べないと負けるな。そして、俺はゴルゴンゾーラと雌雄を決する戦いに挑んだ。恥ずかしながら……その間、デートであることを忘れてしまっていた。
【B面 椎奈沙百合(32)】
メニューには、多数の料理名が文字だけで記載されていました。ですが……私にとって必要なメニューはサラダだけです。
「じゃあ……ゴルゴンゾーラで」
三上さんが先に注文を通しました。私はボウルサラダにしましょう。これなら量も多いでしょうし、朝に食べ損ねた分は取り返せそうです。
「私は……このボウルサラダでお願いします」
店員さんが離れると、私達は会話に興じました。特に盛り上がるのは……やはり同世代トークですね。楽しかったです。もし、こういった会話を事務室でしようものなら、あの子達は『え? そんなのあったんですね』とでも言うのでしょう。若さマウントを取ってくるのは目に見えています。だからこそなんでしょう。この会話は心底……心地良く感じました。
そして注文が届きます。私の目前にはボウルサラダが置かれました。あれ、想像以上に大きい。ボウルが本当にボウルのサイズです。おそらく、これは多人数用。それに単体で挑もうとする私は、まるで草食の家畜。朝、コンビニに行き損ねた事が悔やまれます。そして……恥ずかしさが襲ってきました。
私は覚悟を決めると、サラダボウルに手を付けました。その量は多く、減っているようには見えません。あぁ……私、彼に何と思われているんでしょう。私は彼に視線を向けます。すると、彼は勢いよくゴルゴンゾーラを食べていました。やはり男性は、豪快に食べるんですね。その食べっぷりに、私は新鮮な感動を覚えました。そして、自分も……そのように出来たらいいのにと、そう思うのです。
【A面 三上佳佑(34)】(ここまで)
頭の中に勝利のファンファーレが鳴り響いた。勝った。ゴルゴンゾーラに勝ったぞ。俺は勝利の余韻に浸るように、椅子に深く沈むと、少し深めの息を吐く。その時に見えてしまった。俺はスマートフォンを取り出すと……
「えっと……椎奈さんってラインはやってます?」
彼女にラインのIDを尋ねる。いきなり失礼だろうとは思った。でも……今、言わなければタイミングを逸してしまうかもしれない。
「あ……ラ、ラインですか。やってないです」
椎奈さんはラインはやっていないようだ。それなら……
「じゃあ、ツイッターとかはどうです?」
「えっと……アカウントはあります。ほとんど使っていませんけど」
よし! 俺は彼女のアカウント名を聞くと、彼女をフォローする。彼女もスマートフォンを取り出すと、俺にフォローを返してくれた。そして……俺は彼女にDMを送る。
【B面 椎奈沙百合(32)】
サラダボウルは半分ほど減っていますが……もはやこれまで。私はこれ以上の野菜の摂取を諦めました。その時です。
「えっと……椎奈さんってラインはやってます?」
え? あ……これが、ひょっとして世間で言うライン交換でしょうか? 都市伝説だと思っていましたけど……本当にあるんですね。でも、私はラインはやっていません。あぁ……恥ずかしい。こんな事なら流行に乗っておけば良かった。
「あ……ラ、ラインですか。やってないです」
嘘をついても仕方ありません。私は素直に返事をしました。どうしよう、彼に幻滅されたりしないでしょうか。
「じゃあ、ツイッターとかはどうです?」
良かった。ラインをやっていない事で、会話が終わってしまったりしたら……後悔してもしきれません。幸い、ツイッターなら……何年か前にアカウントを作ってあります。作っただけですけど。
「えっと……アカウントはあります。ほとんど使っていませんけど」
私は急いでバッグからスマートフォンを取り出すと、滅多に使わないアプリを起動しました。そして、彼に私のアカウント名を伝えると……彼からフォローされたと通知が来ました。私は不慣れな手付きで……フォローを返します。
すると見慣れない通知が来ました。DMというものが届いたそうです。わからないまま触れてみると……そこには彼からのメッセージが届いていました。
【振り返らないでくださいね。今、椎奈さんの後ろ側の席に事務室の女の子達がいます】
意味がわからない。私は振り返りそうになるのを、必死に堪えました。
【ご時世、マスクは当然でしょうけど……彼女達は変装していますね。多分ですけど、見られてますよ】
意味がわかりました。あの子達……私達のデートを覗きにきたんですね。突然の野次馬の乱入に腹が立ってきます。
【食事済ませて、逃げちゃいましょうか?】
彼のメッセージが届きました。そして……
「パスタだけでは少し足りないんですよ。ちょっと貰ってもいいですか?」
彼はそう口にしました。私は頷きます。
「それじゃ、失礼して」
彼は私が諦めたサラダボウルを自身に引き寄せると……勢いよく食べていきます。これもまた豪快でした。そして、何よりも彼は……私が先程まで食べていたものを食べています。何ででしょう、嫌悪感は感じません。ただ、何だか……彼から眼を離せない。そんな気持ちです。
彼はサラダボウルをキレイに平らげてました。そして……
「じゃあ……行きましょうか」
と、席を立ちます。私もそれに続きました。横目にあの子達をチラッと見ます。彼女達も私達を見ていました。焦っていますね。私達が会計を済ませて出ようとしているのに、自分達はまだ食事中。どちらもがリスのように頬を膨らませています。若い子達は、こういう時に写真を撮ってインスタとやらに公開するんでしょうね。
気がつけば、会計は彼が済ませていました。私もお金を払ったほうがいいと思いましたが……それは、今言うことではなさそうです。私達は急ぎ足でカフェを後にしました。
【エピローグ】
日曜、昼間の公園は静穏そのもの。その静寂は男女が駆けてくると破られる。彼らは公園のベンチで、ようやくその足を止める。男は女の手を離した。
「ここまで来れば、もう探せないでしょう」
「まったく……あの子達ったら……」
まだ女の呼吸は整っていない。女はベンチに腰を下ろした。
「すいません。明日……叱っておきます」
女は申し訳無さそうに言う。呼吸は落ち着いてきたようだ。
「叱らなくてもいいですよ。それに……ちょっと面白くありませんでした? ほら、マンガのストーリーみたいで」
男はそう答えると、無邪気な笑いを浮かべた。
「そうですね、少し……仕事を増やす程度にしておきます」
女も笑顔を返すと、男に答える。
それから、少しして……女は、急に真顔になると……
「私……こんなデートは初めてです」
そう言った。
「そうですね。俺も……こんなデートは初めてです」
その発言に女は……心底嬉しそうに破顔してみせた。
「少し走りましたし、サラダだけでは持たないでしょう。どうです……ケーキでも食べにいきませんか?」
男はベンチに座る女に手を差し出すと、次の行き先を提案する。
「ケーキですか?」
「はい……ツイッターで風船が飛んでいましたよね。お誕生日おめでとうございます」
女は……男の手を取るとベンチから立ち上がった。
【not young anymore】 了