第88話 永夜の宴、花映の萌芽
この作品は「東方Project」の二次創作です。
原作 上海アリス幻樂団
改変、独自設定その他諸々 小湊拓也
「うわぁああああん、エリー!」
吸血鬼くるみの小さな身体が、ぶつかって来る。抱きついて来る。
エリーは、しっかりと抱き止め、抱き締めた。
「うふふ、よしよし。かわいそうなくるみ、お馬鹿なくるみ、浅はかなくるみ。身の程知らずなくるみ、脳髄の足りないくるみ。酷い目に遭ったのだから、学習をしなければ駄目よ?」
「あのね、あのね、幽香様が許してくれたの!」
くるみは、泣きながら喜び、怯えている。
「宇宙いち綺麗で素敵でカッコ良くて頭良くてイイ匂いのする幽香様がねえ、あたしの事、許してくれてひぃいいいいいいッ!」
風見幽香が、くるみの頭を優しく撫でていた。
にこにこと引きつり青ざめている、くるみの頭蓋を、その気になれば一息で握り潰す事が出来るのだろう。
撫でながら、幽香は言った。
「ね……二人とも、帰ってしまうの?」
「夢幻館を守るのが、私の役目です」
エリーは言って、夜空を見上げた。
「貴女のいない夢幻館で……未来永劫、貴女の帰りを待つ。それもまた趣深い生き方であると、ここ最近ようやく思えるようになってきましたから」
月が、明るい。
太陽光の反射によって、ではなく、自身が発光しているかのようにだ。
太陽の畑、と呼ばれる場所に、月明かりが皓々と降り注いでいる。
「それに……今、幻想郷が再び、分かたれます。歴史喰らいの聖獣が、役割を思い出してしまったようですね。旧き幻想郷は、誰も知らぬ歴史として隠れ行くのみ。私は……旧き存在ですから」
「そんな事を言ったら、私だって隠居しないといけなくなるわ」
くるみの青ざめた頬を優しくつまみながら、幽香は言った。
「……私は嫌よ。まだ異変だって起こし足りない。私に立ち向かう連中、ことごとく弾幕で砕いて原子の霧に変えるの。それをね、見せつけるのよ。弾幕使いがそれをしないでどうするの。隠居なんて、してられないわ」
「…………眩しい……」
本心から、エリーは声を漏らした。
今の風見幽香は、まさしく真夜中の太陽だった。
地上から月を威圧するかの如く、輝いている。
その絶大な妖力の顕現体たる美貌、若草を思わせる緑色の髪。赤と白の洋服が似合う、一見たおやかで優美なる肢体。
全てが、エリーの目には眩しかった。
真夜中でも萎れる事なく咲き誇る、向日葵。
それが、風見幽香なのである。
「……私、貴女のようにはなれません。久方ぶりに少し弾幕戦をしただけで、なけなしの闘志と勇気が燃え尽きてしまった。弾幕戦が、どれだけ恐ろしいものであるのか……身体が、細胞のひとつひとつが、思い出してしまったんです」
「もう千年も経てば、また弾幕戦をやりたくなってくるわ」
「そうでしょうか……ね」
エリーは微笑んだ。
千年、一万年。風見幽香は、この先も弾幕戦の表舞台に在り続ける。博麗霊夢や霧雨魔理沙と、戦い続ける。
そんな恐ろしい事は、自分には出来ない。
心から、エリーはそう思う。
自分は、風見幽香の傍に居る資格を、とうに失っている。
失われた歴史である旧き幻想郷で、のんびりと隠遁生活をしているのが似合いなのだ。
少女が一人、しずしずと歩み寄って来た。
「異変を起こし足りないだの、原子の霧に変えるだの」
笠を被った、大人しめの少女である。
静やかな佇まいの中に、しかし凄まじい魔力が秘められている。
「相変わらず物騒な言動が目立っているわね、この外道破廉恥妖怪は。あんまり外道で破廉恥な事をしては駄目よ」
「外道で破廉恥な事をしても、貴女が止めてくれるわ。成美さん」
幽香が、優しく美しくも若干、不穏な笑みを浮かべた。
「まさか、ね……貴女に止められるなんて、思わなかった。お見事としか言いようがないわ」
「何度だって止めるわよ。貴女が私を生かしておく限りは、ね」
「ちょっと……!」
矢田寺成美の命知らずな発言を、エリーは止めようとした。
小さな人影が、ふわりと幽香の傍らに降り立った。
「幽香は、月まで行って来たのかー?」
ルーミアだった。
「魔理沙たちと……殺し合って、来たのかなー」
「安心なさい、魔理沙は殺し損ねたわ」
幽香が、ルーミアの頭を撫でる。
くるみと同じく、頭蓋を握り潰すのは容易い事であろう。
ルーミアという小妖怪は、それを覚悟の上で、風見幽香と会話をしている。
「幽香のおかげで、ちゃんとした朝昼夜が来るようになったけど。魔理沙やアリスは、殺さないで欲しいなー」
「あの二人はね。私が殺しても、そうそう死にはしないわよ」
言いながら幽香は、ちらりと視線を動かした。
天使とメイドが、そこにいた。
厄災、そのものの姉妹である。
「……借りが、出来ちゃったね。風見幽香と、その一味」
「ああもう腹立つ! あンのゴミクソ吸血鬼をよォー、とっととぶち殺しに行きたいのにいぃ! ああビビってんじゃねえよ、くるみとか言うの。お前の事じゃねぇーから」
幻月、夢月。
この両名が敗れる。ものの見事に、してやられる。
それが今の幻想郷なのだ。
自分の出番など、ない。強くエリーは、そう思う。
「貸した、とは思っていないわ」
幽香が言った。
「それでも返したい、と思っているなら幻月、夢月……ひとつ、私の言う事を聞きなさい。神綺にね、一度きちんと頭を下げて、ちゃんとした話をするのよ。一体どんな揉め事があったのか知らないけど、あいつ貴女たちに会いたがっていたから」
「……私ら、神綺様のやり方が甘っちょろいと思って魔界を出た。わけだけど」
夢月が俯き、幻月も言った。
「今の私たちに……そうだね。誰かが甘っちょろい、なんて言う資格はない」
神綺の造り上げた魔界は、旧き幻想郷とは、地続きと言って良い世界である。
新しき幻想郷と、共存する事は出来ない。
新しき幻想郷に、魔界の住人が存在するには、魔法使いによる召喚が必要となるのだ。
召喚されたわけでもなく、この場に出現している悪魔族の姉妹が、キラキラと光に包まれながら姿を薄れさせる。
消えて、ゆく。
エリーと、くるみの姿もだ。
「行って、しまうのね」
幽香が、じっと見つめてくる。
「……いずれ気が向いたら、夢幻館にも顔を見せに行くわ」
「期待せずに待っていますよ、幽香様」
エリーは微笑んだ。
「今……新しき幻想郷と、旧き幻想郷が、激突寸前で擦れ違い、それぞれ別方向へと流れ始めました」
上白沢慧音の力が、発動したのだ。
「新しき幻想郷は、過酷な光の中へと進み……旧き幻想郷は、穏やかな忘却の闇の中へと、私たちもろとも帰って行くのです」
「そちらから見られるものなら、見ていなさい。エリー」
美しい細腕で、幽香は太陽の畑を指し示した。
夜闇の中で、無数の向日葵が頭をもたげ、花弁を開く。
真夜中の太陽、とも言うべき咲き誇りようである。
そして、向日葵だけではなかった。
野菊、桔梗、月見草……多種多様な花々が、いつの間にか咲き乱れている。
豊かな、鮮やかな、暴力的なまでの色彩が、月明かりの中で息づいていた。
太陽の畑、だけではない。
夜明けと共に、幻想郷は、この花々に支配される。
エリーは本気で、そう思った。
「紅い霧が、永遠の夜が、いくら太陽を隠そうとも……この子たちは、咲き誇る。咲き乱れる。人妖の血と屍を、栄養分として」
(やっぱり……この人には、敵わないわ。誰も勝てない……)
キラキラと姿を消しながら、エリーは、花々の眩しさに圧倒されていた。
(一度の敗北で心折れてしまった私たちとは、根本的に違う。どれほど踏みにじられようと、芽吹く事をやめない花……そして、異変を開花させる……)
花々に、幽香は語りかけていた。
「さあ、あなたたちの出番よ」
「ばかやろーっ!」
藤原妹紅が叫び、拳を振るう。
火の粉と、鼻血の飛沫が散った。
燃え盛る拳の一撃が、上白沢慧音の顔面に叩き込まれたのだ。
何もそこまで、とアリス・マーガトロイドは思わなくもなかった。
そう思わせるのが、妹紅の目的ではあるのだろう。
誰かが、上白沢慧音には罰を与えなければならない。
ならば自分だ、と妹紅は思い、誰かが慧音を責め始める前に拳を振るったのだ。
炎の拳をまともに喰らい、慧音の美貌は痛々しく腫れ上がって鼻血にまみれた。
並の妖怪であれば、遺灰に変わっている一撃である。
「お前、何やってる! 何考えてんだ馬鹿慧音!」
よろめいた慧音の胸ぐらを掴み。妹紅は叫ぶ。
「謝れ! ここにいる全員に謝れ! 幻想郷に住んでる全員、人里はもちろん妖精の一人一人に至るまで謝って回れ! 私も付き合うから!」
「そんな事しなくていいと思うわ。落ち着きなさい、藤原妹紅」
レミリア・スカーレットが言った。
「……お見事だったわよ、上白沢慧音。幻想郷そのものが消えてなくなりかねない、大異変をやらかしてくれたわね」
「…………気安く話しかけるなよ、吸血鬼。私は、貴様を許さない……」
腫れ上がった顔で、慧音はレミリアを睨んだ。
「私から、妹紅を奪い去った……悪魔が……っ」
「巨大な怪物に変わっていたわね、貴女」
レミリアが笑う。
十六夜咲夜が差し掲げる日傘の下で、尊大に。
「素敵だったわ。幻想郷を踏み潰す、巨獣……妖怪は、ああでなければ。私もね、あんなふうに成りたい」
迷いの竹林の、早朝。
月より帰還した弾幕使いたちが、永遠亭の庭園に集っていた。
その全員を、慧音は睨む。
「私は……お前たちを、許さない……!」
「いい加減にしろ馬鹿!」
妹紅が、拳を振り上げる。
その腕を、蓬莱山輝夜が背後から掴む。
「そこまで。永遠亭の敷地内で、野蛮な事は許さないわよ。まあ私たちが常日頃している事だけど……今は、やめておきなさい」
無言で妹紅が、輝夜を睨んだ。
涙目だった。
見つめ返し、輝夜は言う。
「弾幕使いという生き物はね。どこかで必ず……何か、やらかすものよ。この場にいる誰にも、上白沢先生を責める資格はないわ」
「立派よ、輝夜」
永遠亭の最高権力者が、歩み寄って来て言った。
「確かに、貴女の言う通り。私もね、この歳になるまで随分と色々やらかしたもの。それはそれとして……私に心配をかけた事は、許し難いわ。ねえ輝夜? どんな罰を受けたいか、選ばせてあげる」
「私の事。心配なんて、してくれたの?」
輝夜が苦笑した。
「ちょうどいい試練、くらいにしか思ってなかったくせに。そんな事より永琳! 私を助けに来てくれた人たち、誉めてあげなさいよ」
そう言って輝夜は、弱々しい人影をひとつ、剛力の細腕で優しく引きずり寄せた。
「……私は……何も、出来なかったわ……」
パチュリー・ノーレッジだった。
「永遠亭で受けた御恩。僅かばかりでも、お返しが出来たら、と思ったのだけど」
「御恩を返さなければいけないのは、むしろ私たちの方よ」
八意永琳は、パチュリーの細身を軽く抱き締めた。
「ありがとう、パチュリー・ノーレッジ……そして、紅魔館の方々。私ども永遠亭は、貴女がたに大きな借りを作ってしまいました。いずれ必ず、お返し致します。御迷惑でも受けていただきます」
「そう。それなら、宴でも開いてもらおうかしら」
レミリアが言った。
「パチェと私たちの仲直り宴会をねえ、魔理沙がずっと企画してくれていたのよ。お花見の時に出来れば良かったけれど、ねえ魔理沙。お月見でも、構わないわよね?」
「……月見でも雪見でも、次の花見でも構わないって思ってたぜ」
霧雨魔理沙は、とうの昔に泣き止んでいた。
先に立ち直るのは魔理沙の方だと、アリスも思っていたのだ。
「あんたが、八意永琳先生か。あの薬を作ってくれた……私たちにとっては、恩人だぜ」
「ごめんなさいね。幻想郷の弾幕使いの、誰かで実験をしたかったのよ」
永琳が、にこりと笑う。
「霧雨魔理沙……私の薬の、最初の実験台。お話を聞かせてもらうわね。それはそれとして、もちろん宴席はこちらで用意するわ」
泣き止んでいない少女が、一人いる。
そちらに、永琳は言葉をかけた。
「……だから、というわけではないけれど。元気を出しなさい、霊夢」
「……八意……先生……」
博麗霊夢は、しゃくり上げていた。
「……ちゃんと、お話するの……初めてよね。私……ここにいた時は、正気じゃ……なかったから……」
涙目で霊夢が睨む、その視線の先では、因幡てゐと鈴仙・優曇華院・イナバが、何か話し込んでいる。
「…………無様なところ、見せてたわ……」
霊夢は声を震わせ、涙を拭う。
「……今だって、そうだけど……」
「ねえ霊夢、それに魔理沙」
アリスは言った。
「私なら、貴女たちの気持ち……少しは、わかると思うわ」
「……魔界ヘ帰らなくて、良かったの?」
霊夢の口調は、半ば嗚咽だ。
「神綺も、他の連中も……随分、寂しがってたじゃないの。一緒に、いてあげればいいのに……こっちの幻想郷にいたら、またいくらでも悲惨な目に遭うわよ」
「そうかも、知れないわね」
アリスは笑った。
サラも、ルイズも、ユキとマイ、それに夢子も、泣きながらアリスに抱きついて来たものだ。
涙の抱擁の中で、アリスは思った。心の底から、生まれて初めて。
この子たちに会えて、この子たちがいてくれて、本当に良かった……と。
だからこそアリスの方からも抱き返し、涙を拭い、笑いながら言う事が出来たのだ。
またね、と。
そして皆、神綺に連れられ、姿を消した。魔界へと帰って行った。
独り、アリスは残されたのだ。
霊夢が涙を拭い、鼻水を啜った。
「……残ったんなら……覚悟、決めなさいよね……っ」
「お前も、私もなっ」
魔理沙が、霊夢とアリスの肩を抱いた。
「これからも……よろしく頼むぜ、アリス」
「よう」
その少女は片手を上げ、屈託なく微笑んだ。
八意永琳は、何も言えなかった。
賢者の頭脳をもってしても、とっさに言葉を組み立てる事が出来ない。
「…………よくぞ……」
そんな言葉しか、出て来ない。
伊吹萃香は、ただ微笑んでいる。
しばし見つめ合った後、永琳は、亭内から持参したものを差し出した。
「……あの後、再構成出来たものは……これだけ、だったわ」
瓢箪である。
「貴女の肉体を、全宇宙から萃めて再生させる……とてつもない難事業になると、覚悟を決めていたところよ。まさか……自力で、再生を遂げるなんて」
「しんどかったぜ、まったくよ」
萃香が瓢箪を受け取り、中身を呷る。
「……ぷはぁー、まさかコイツが戻って来るたぁ思わなかったがな。いや、ありがとうよ」
「月を砕く鬼……敬服するわ。どうやら本当に、宇宙規模の怪物に成長してしまったわね伊吹萃香」
「アレに比べりゃ、全然だ」
萃香は、酒を飲んだ。
「私はな、この先ずっと……気長に、アレと付き合っていかなきゃならねえ。難儀なもんだぜ、呑まなきゃやってらんねえっての。ま、そいつはともかく」
ちらりと、萃香は後方を見た。
「八意永琳、お前さんに殺されても構わねえって覚悟の奴らだ……話、してやってくれ」
たおやかな姿が二つ、静かに佇んでいる。
「八意様…………」
萃香の言う通り、死を覚悟した者の口調だ、と永琳は思った。
「理路整然たる言い訳が今、私の頭脳では渦巻いております」
「貴女が相手なら、私も論破されてしまうかも知れないわね」
「無意味……」
綿月豊姫は、言った。
「今この瞬間、私の頭脳は……言葉を、失ってしまいました。一目、御尊顔を……その想い、のみ……残って……」
まさしく、言葉が失われてゆく。
豊姫は泣き崩れ、嗚咽、以外の声を発する事が出来なくなっていた。
同じく泣きじゃくりながら、綿月依姫が、辛うじて聞き取れる言葉を発する。
「……お会いしとう……ございました…………八意さまぁ……」