第85話 儚月
この作品は「東方Project」の二次創作です。
原作 上海アリス幻樂団
改変、独自設定その他諸々 小湊拓也
地獄の女神の美しい両手が、潰れた金属屑をぐにゃりと引き伸ばす。
綺麗な円形に、満月の形に、整えてゆく。
整えられた満月が、泣きじゃくる。
『も……もったいのう、ございます……私を、私ごときを……貴女様が、御手ずから……』
「お黙り、おキクちゃん」
優しく、厳しく、地獄の女神は言った。
目蓋や頬が剥離して、眼球も歯も表情筋も剥き出しになったキクリの顔を、そっと撫でながら。
「……こんなになるまで頑張れなんて、誰も言ってないでしょう? 貴女もコンちゃんもね、もうちょっと力抜くって事を覚えなきゃダメよん」
癒されてゆく。
無惨に破壊された目蓋や頬が、再生してゆく。地獄の女神の美しい指先に、優しく触れられただけで。
つるりと綺麗な金属製の美貌を、キクリは取り戻していた。
地獄の女神が、そっと右手で撫でて修復を確認した。
「クラピーちゃんの適当さをねえ、ちょっとは見習いなさいな」
「あたいテキトーじゃないもん! お仕事、きっちりやってるもん」
クラウンピースは、ぷぅっと頬を膨らませた。
その頬を、女神の左手が軽くつまむ。
「うっふふふふ。クラピちゃんはぷにぷにしてるし、おキクちゃんはつるつるしてるし。可愛い子ばっかりで私、幸せよん」
『あぁ…………様ぁあ……』
キクリが感極まって、地獄の女神の御名を上手く発音出来ずにいる。
『ありがたき……ありがたき、幸せにて……このキクリの命、とこしえに……貴女様に、捧げ奉り……』
「そういうのはいいから」
女神が微笑み、溜め息をつく。
「コンちゃんも今頃きっと、同じくらいには無茶してるわよね。まったく、あの幻想郷って所の連中は何なのかしら。うちの賢くて冷静な子たちが、こんなにもトチ狂っちゃうなんて」
「ねえ御主人様。トチ狂うって、とっても綺麗だね!」
クラウンピースは言った。
宇宙空間に咲き誇る、巨大な桜を見つめながら。
銀河系の如く渦巻き流れる桜吹雪は、死、そのものであった。
宇宙全域に、死がもたらされたのだ。
その死が、地獄の女神の力によって大部分、食い止められたところである。
死の桜。
狂気の美しさだ、とクラウンピースは思う。
この女神がいなかったら、冗談抜きで全宇宙、あらゆる生命体が死滅していたかも知れない。
妖精である自分も、含めて。
この美しさにまみれて死ねるなら、それも悪くはなかった、と思いつつクラウンピースは労った。
「まあとにかく御主人様、お疲れ様でした。お風呂沸いてますから、ゆっくり休んで下さいな」
「そうね、みんなで入りましょうか。というわけでコンちゃん、帰っていらっしゃーい」
桜舞い散る宇宙空間に、地獄の女神が呼びかける。
死の桜は、散りつつあった。
全宇宙に及びかねない死が、この女神によって食い止められている間。幻想郷の弾幕使いたちが、決着を付けてくれたのだ。
花吹雪を散らせながら薄れ消えゆく桜の大樹を、地獄の女神はじっと見つめた。
そして、呟いた。
「まったく……一体どうやったら、1個の知的生命体から、あそこまでヤバいものが生まれるのよ……」
今この場にいる全員が、生殺与奪の権を握られている。西行寺幽々子ただ1人にだ。
なけなしの生命力がじんわりと回復してゆく、その温かさを感じながら、パチュリー・ノーレッジは改めて、強く、そう思った。
奪われた生命力を、返品されている。
可能性空間移動船の、広大な甲板上で、全員がだ。
皆、宇宙空間に浮かび上がり滞空する力すら失っている。
奪われた力を今、西行寺幽々子から返してもらっているのだ。
特にレミリア・スカーレットにとっては屈辱であろう、とパチュリーは思う。
「私たちは……お前に感謝をするべき、なのよね。西行寺幽々子」
白く美しい牙を剥き出しにしながら、レミリアは呻く。
「圧倒的勝利を見せつけておきながら……殺さずにいてくれて、ありがとう。と……」
「感謝をしなければいけないのは、私の方よ」
優雅に広げられた扇の陰で、幽々子の美しい唇が微笑み、囁く。
「貴女たちの、どろどろしたもの、ぎらぎらと輝くもの……とっても素敵、もっと見たいわ。だからね、生きて? いつか、その全てを私の手で収穫する。それはね、ずっと先の愉しみにしておくわ」
「化け物が……っ!」
言葉を吐き捨てたのは、藤原妹紅である。
「より一層、タチの悪い怪物に進化しやがったな。妖怪・富士見の娘」
「貴女のおかげよ、藤原妹紅。私に……切り捨てた、つもりだったものと向き合うよう助言をしてくれた」
幽々子の語りかけが、妹紅から、博麗霊夢に移って行った。
「……霊夢、貴女も。そのギラギラし過ぎている正体と、しっかり向き合って、それを受け入れた。本当にね、本当に素敵よ。紅白の蝶」
「私の正体、ね」
霊夢が笑う。いや、激怒しているのか。
「目の前にいる妖怪を、理由もなく潰す。それが私よ、私の正体。つまりねえ西行寺幽々子、あんたみたいなのを! ぶち砕いて消滅させる! 成仏も輪廻転生もさせはしない、ただ消え失せろ春の亡霊!」
「やめろ」
魂魄妖夢が、霊夢の前に立ち塞がり、楼観剣と白楼剣を構えかざす。
「言うまでもなかろうが、何度でも言う……幽々子様への御無礼は、許さん」
「ああ、もちろんね、ぶち砕いて消滅させるのは! あんたもセットだからッ!」
「……そこまでに、しておけ」
星幽剣士コンガラが、割って入った。
「博麗の巫女……やはり貴様は、この宇宙も地獄も魔界も滅ぼしてしまいかねない厄災であった。そして、それは……貴様もだ、冥界の管理人」
白い光の刃が、幽々子に向けられる。
「お前たち2人のぶつかり合いは、全ての次元世界に死滅をもたらす。だからな、やめておけ」
「星幽剣士」
霊夢が言った。
「初めて、あんたと戦った時から……私ずっと、得体の知れない何かを感じていたわ。あんたの背後に、ね。私を止めたいなら、そいつを呼んで来なさい」
「あの御方がお出ましになるようでは、それこそ全ての終わりだ」
言葉と共に、コンガラの姿が薄れてゆく。
全ての終わりを迎えたとしても、とパチュリーは思ってしまう。
(ひと目……あの御方に、お目通り叶うのであれば……)
「今、あの御方より帰還命令を賜った。その前に貴様たちを、この場で滅ぼしておきたかった……私の力が及ばなかった。無念である」
星幽剣士の秀麗な顔に、憂いが満ちる。
「……どうすれば斃せる? お前たちを、どうすれば……」
「どうやっても無理だよ、コンちゃん」
消えゆくコンガラに、悪霊・魅魔が言葉をかけた。
「博麗の巫女はな、今ここにいる全員が、ことごとく討ち損じている怪物だ。無理なんだよ。こいつはもう、幻想郷っていう檻の中でダラダラと飼い続けるしかない。そしてそれは、この連中の役目だ。お前さんや私に出来る事なんて、何もないんだ」
「魅魔よ、お前は……」
コンガラの、姿も声も消えてゆく。
「あの御方のもとへ、戻る気はない……のか? お前が、お前さえ、我が陣営にとどまってくれれば……地獄だけは、守られる……」
星幽剣士コンガラは、消え失せた。
「……無茶を、言うなよ」
消え失せた者を、魅魔はじっと見送っている。
「私はもう、引退したんだぞ。隠居の身だ。のんびり過ごさせてくれなきゃ駄目なんだよ。な? 爺さん」
「……引退だの隠居だの言いながら、おぬし常日頃、魔力と弾幕の鍛錬に励んでおろうが」
玄爺が言った。
「弾幕戦の表舞台に未練があるのは、わかるがのう」
「ま、まあアレよ。たまには、こうやって出て来るのも悪くなかろ?」
「たまに、なんて言わずにさ」
霧雨魔理沙が、じっと魅魔を見つめて言う。
「こいつらを見て、わかったと思うけど……今の幻想郷、一筋縄じゃいかない連中ばっかりだぜ。魅魔様だって、楽しくやれると思う」
「だろうな。お前も楽しそうで何よりだよ、魔理沙……それに靈夢も」
「魅魔、それに玄爺」
霊夢が、両名を見据える。
「こうやって出て来ちゃった以上、引退も引きこもりもさせないから。いいわね?」
「御主人様、貴女は……」
玄爺の言葉を、霊夢は聞かなかった。
「で。とりあえず、私がこんな所まで来た、当初の目的を果たさなきゃいけないわけだけど」
お祓い棒が、綿月姉妹に向けられた。肩を貸し合って弱々しく佇む、依姫と豊姫。
「幻想郷を滅ぼす……そう言ったわね。取り消す機会、なくなっちゃったわけだけど」
「待って、霊夢……」
依姫が、姉を背後に庇う。
「……どうか教えて。貴女が、姉を……月の都を、許してくれる。そのために私、何をすればいいのかしら」
「余計なこと考えないで、依姫さんは幻想郷で暮らすのよ。博麗神社の居候なんだから」
霊夢は言った。
眼光が、依姫を迂回し、豊姫に突き刺さる。
その眼光を遮って、1人の少女が立った。
依姫と寄り添うようにして、豊姫を背後に庇った。人差し指を霊夢に向けている。
「……命令よ、霊夢。下がりなさい」
鈴仙・優曇華院・イナバだった。
「豊姫様に、無礼を働こうと言うのなら……私が相手になるわ。貴女を、敵性体と認定する」
「さすが、よく言ったわ鈴仙隊長。弾幕使いはね、そうでなきゃ」
「待ってくれ……」
岡崎夢美だった。
北白河ちゆりと支え合い、穴だらけの甲板上をよろよろと歩いて来る。
「綿月豊姫を、許すために……何かが必要だと言うのなら、私も力を尽くす。だから……」
豊姫を助けたいのなら自分と戦え、弾幕で倒せ。霊夢はそう言うだろう、とパチュリーは思う。
「頼む、博麗の」
藤原妹紅も、進み出て来る。
「綿月豊姫は、私がぶちのめした。もう充分、痛い目に遭ってるんだよ。勘弁してやってくれないか」
「ねえ妹紅。痛い目に遭う、っていうのはね」
珠を転がすような声、と共に。
あまりにも目映い白さが、パチュリーの傍らを通り過ぎて前に出る。
「輪切りにされて、身体の中身をぶちまけられて、赤ちゃんからやり直しをさせられる事なのよ。貴女、そこまでやられた事はなかった? 今度そういう目に遭わせてあげようかしらね」
光り輝くほどに艶やかな、肌の白さ。
先程まで幼な子であった蓬萊山輝夜の、すらりと美しく成長した裸身が、綿月姉妹に歩み寄って行く。
パチュリーとしては、あとは、この姫君を永遠亭に連れ帰れば全て終わりである。
だが輝夜は輝夜で、この場で話をつけておかねばならない相手がいるようであった。
神々しい裸身が、立ち止まった。
次の瞬間。輝夜は、依姫と抱き合っていた。涙の煌めきを飛散させながら。
「輝夜……」
「……会いたかった、依姫姉様。どのくらいぶりか、なんて……もう考えたくない……」
「お前に……合わせる顔が、なかった……」
依姫の声が、嗚咽で震える。
「私の、せいで……輝夜は……」
「別にね、依姫姉様を助けたわけではないわ」
「よくぞ」
輝夜の白い美貌を、依姫はそっと撫でた。
「あのような状態から、よくぞ……ここまで……」
「本当にね、酷い目に遭ったわよ。あれに比べたらね、輪切りにされて中身が出るなんて全然大した事はないわ。私、怒ってなんかいないから」
依姫と抱擁し合ったまま輝夜は、もう1人の姉を睨んだ。
「……それはそれとして。どうするの? 豊姫姉様」
「さあ……どうしましょうか」
綿月豊姫が、ようやく言葉を発した。
「私は、幻想郷を滅ぼすと宣言し、反撃を受け、無様に敗れた……輪切り、程度で許していただけるなら僥倖というものね」
「当然、貴女1人が輪切りや細切れになっただけでは済まないのよ丞相殿」
八雲紫が、いつの間にか、八雲藍と橙に支えられ進み出ていた。
間近から豊姫を糾弾している、ようでいて、背後の霊夢から豊姫を庇ってもいる。パチュリーには、そう見えた。
「私は今から、ここにいる弾幕使い全員の中から賛同者を募って、月の都へ攻め入ろうと思うわ。さあ、阻んでごらんなさい」
「募る必要ないわ」
霊夢が、お祓い棒を振るう。
純白の紙垂が、獰猛に弧を描き、月の都の関係者たちを、紫を、威嚇する。
「月の都なんて、私1人で潰してやる。皆殺しにして、幻想郷には2度と手を出させない。紫、そこどいて」
「…………敗れた側が、こんな事を言うのも、おこがましいかも知れないが」
豊姫が、しとやかに細身を屈した。
ぼろぼろに破損した甲板上に、膝をつき、両手をついた。
「全ては、愚かな一月人の所行……月に住む、全ての生き物には罪はない」
紫の、霊夢の面前で、豊姫は平伏していた。
「どうか……その力で無に帰すのは、勘弁願えないだろうか」
「…………土下座されるのって、気分良くないわ」
霊夢が、豊姫に背を向けた。
「もういいわ。あとは、萃香の奴を捜して」
言いかけて、霊夢は硬直した。
この場の全員が、硬直していた。
光が、ゆっくりと降りて来る。甲板上の弾幕使いたちを、柔らかく照らす。
月光だった。
目映くも穏やかな月光をまとう、細身の人影。
降下、いや降臨と言って良いだろう。
まるで質量を感じさせず、その女性は、甲板に降り立っていた。
「……思い上がりは程々に……ね? 豊姫」
優しい声、優しい笑み。
蓬萊山輝夜だ、とパチュリーは錯覚した。
少女の年齢から先へ進む事がなくなってしまった輝夜に、年を取らせたとしたら、このような女性になるであろう。そう確信する事が出来る。
数万年、いや数億年の気品が、その美貌から溢れ出す。
「貴女1人で、罪を被ろうと言うの? それは……穢れ、そのものの考え方よ。許されはしないわ」
「……母上……嫦娥様!」
豊姫が立ち上がり、血相を変えた。
「なりません! このような場所に、おいでになっては……」
「このような場所、とか言わないの」
輝夜が、豊姫を押しのけた。
そして、嫦娥と呼ばれた女性と向かい合う。睨み合う。
いや、睨み付けているのは輝夜の方だ。
「お久しぶりね……私たち蓬莱人の感覚で年月を数えてみても、本当に久しく、貴女の顔を見ていないわ……お母様。一応、そう呼んであげる」
「おめでとう、輝夜」
嫦娥が微笑んだ。
輝夜に似た、だがどこか違う笑顔。
「貴女が頑張ったおかげで、純狐は無事、月の都から逃げおおせて……今や宇宙最大の穢れとなって、私たち月人を脅かしてくれているわ」
「……私、あの方にお会いしたい」
輝夜が言った。
「私、あの方が大好き。あの子も大好き。あの幸せがずっと続くのなら……月の都の退屈な永遠も、決して苦にはならなかった。皆で暮らす、平穏で変化のない日々が、私は……大好きだった……」
艶やかな黒髪が、舞い上がった。
白く美しい裸身が、光を発していた。
光は全て光弾に変わり、輝夜の周囲で渦を巻く。
「私が、好きだったもの……ことごとく破壊してくれたわね……嫦娥ッ!」
その時。真紅の光が、輝夜に向かって速射された。
鋭利な、光弾の嵐だった。
それが、輝夜の周囲で渦巻く弾幕とぶつかり合い、砕け散る。
光の破片を漂わせながら、輝夜は言った。
「……譲れないのね、鈴仙」
「お許しを……などとは、申しません」
銃口の形にした人差し指を、鈴仙は輝夜に向けている。
「お前はどちらの味方なのだ、と思し召しでありましょうが……」
「思っていないわ、そんな事」
輝夜は、微笑んだようである。
嫦娥の美貌からは、微笑みが消えていた。
「……すっかり、穢れてしまったのね。心優しい玉兎よ」
美しい声に、たおやかな表情に、悲しみが満ちている。
「知的生命体は、穢れを免れ得ない……我が盟友・八意永琳の言葉は正しかった。私も結局はこうして、大いに穢れたる者によって救われた……私も、月の都も、この子によって」
小さな少女の身体を、嫦娥は両の細腕で抱いていた。
優しい抱擁の中で、安らかに意識を失っている、有角の少女。
「萃香…………!」
霊夢が、息を呑んだ。
「ちょっと、生きてるんでしょうね……」
「死んでいる、などと言ったら滅ぼされてしまうのでしょうね。月の都は、貴女1人に」
嫦娥は愛おしげに、伊吹萃香を抱き締めた。
「この子は……ふふっ、蓬莱人よりも不死身よ。月の都を覆い尽くさんとする、死の蝶々を、全て……この小さな身体に、萃めてくれた。お酒と一緒に、飲み干してしまった……何という恐るべき、豪快なまでの穢れ! これが……幻想郷の、人妖……」
声が震えている。嗚咽か、笑いか。
「……月人が……勝てるわけは、ない……」