第83話 墨染のユグドラシル
この作品は「東方Project」の二次創作です。
原作 上海アリス幻樂団
改変、独自設定その他諸々 小湊拓也
あの日、世界は一度滅び、生まれ変わった。
多くの人々は、そう語る。
宇佐見菫子の考えは、少し違う。
世界が一度、滅びたのは間違いない。だが生まれ変わったのではない。
捏造されたのだ。
守矢神社という、宣伝上手な宗教法人によって。
正義の味方ユナ・ナンシー・オーエンとその仲間たちが、悪しき世界を滅ぼした。
世界は、更地となった。
そこへ守矢神社が、立派な建物を建てた。
住む家を失った多くの人々が、そこへ収容された。
そして、建物の外を見なくなってしまった。
豪勢な建物の中を、世界の全てと思い込んでしまったのだ。
宗教とは、そういうものなのであろう、と菫子は思う。
歩きながら、見回してみる。
破壊され尽くした、ように見えた街並みが、ほぼ再建を完了しつつあった。
新しく建てられたビル群は、全て、守矢神社関連の不動産である。
この度の復興と再建、最も活発に動き、最も多額の資金を注ぎ込んだのは、国ではなく守矢神社だ。
誰も、守矢神社には逆らえない。そんな社会が出来上がりつつある。
自分も含め、それで困っている人間など1人もいない、と菫子は思っていた。
守矢神社が更地に建てた立派な建物は、あまりにも住み心地が良すぎて、収容された人々は誰も不満を抱かないのだ。
皆、そこが世界の全てで一向に構わないと思っている。
彼らなりの、幻想の世界へ行けた、という事であろう。
哀れむべき人々である、とは言える。
だが世の中には、もっと救いようのない者たちがいるのだ。このような。
「おい、おいおいオイオイおいオイ! 守矢がいるぞお、こんな所によおお」
公園の一角。
夕闇迫る、この時間帯になると、人通りの少なくなる区域である。
そこに、今日は人が群れていた。
「人の弱みにつけ込んで商売やってやがる連中がよお」
「何、でかい面して外歩いてんだコラ。恥ずかしくねえのか?」
「でかいのはオッパイかあ!? いや、そうでもねえか」
「おら脱げよ姉ちゃんよ。人様に売り付ける、蛇のお守りやら蛙のお守りやら、大量に隠し持ってんだろうが」
「テメエらどんだけ恥ずかしい存在なのかってのをよォ、思い知らせてやっからオラ脱げよ守矢のメスブタがよおお!」
「どうせよ、高い金払ってる信者どもに股開いてんだろうがよ日頃っから守矢の女はさあ」
聞くに耐えぬ言葉を汚物の如く垂れ流しながら、男が5人。1人の若い女性を取り囲んでいる。
助けなければ、とは菫子は微塵も思わなかった。
ただ、試したいと思っただけだ。
「……あ? 何だ、テメエ」
男の1人が菫子に気付き、睨んでくる。喚く。
「おいおいオイ、おめえも脱がされてえのか嬢ちゃんよお!」
ちらり、と菫子は眼鏡越しに見つめ返した。
男の眼球が片方、破裂した。
「んー……まだ、こんなもの。かな?」
血まみれの顔面を押さえ、のたうち回る男を見下ろし、菫子は呟いた。
他4名が、恐慌に陥っている。
ただ1人。絡まれていた女性だけが、冷静に事態を観察していた。
知的な女性だった。自分よりも眼鏡が似合っている、と菫子は思った。
白衣も、似合っている。
どこかの研究室から、ふと気晴らしに外出したところ、面倒な事態に遭遇してしまった。そんな風情である。
白衣の胸に、蛇と蛙の徽章……守矢神社関係者の証が、輝いている。
「て……てめえ、何しやがった今……」
男たちが怯えながら、それでも攻撃性を維持している。
1人が、手を伸ばして来た。菫子の、髪を掴もうとしている。
その手を、菫子は見つめた。
男の手首が、五指が、あり得ぬ方向に回転し折れ曲がり、めきめきバキッ! と凄惨な音を発して血飛沫を散らす。
あと3人の男を、菫子は眼鏡越しに、じっと見据えた。
1人の鼻が、潰れた。鼻血が噴出した。滑稽だった。
あの時。菅原教諭に殴られていた自分も、こんな様を晒していたのだろう。菫子は、そう思った。
1人の顎が、がくりと外れた。口が閉じなくなり、顔面が伸びた。
あの時の自分は、さすがにここまで滑稽ではなかった、と菫子は思った。
4人の男が、負傷し、泣き叫び、のたうち回る。
無事な1人が、尻餅をついた。小便が飛び散った。失禁している。
膀胱でも潰してやろうか、と菫子が思った、その時。
「やめなさい」
白衣の女性が、ようやく言葉を発した。
「貴女の、その力……今この世界で、みだりに振るうべきものではないわ」
「私の、力……」
菫子は、会話に応じた。
「……何だか、わかっているの? 貴女」
「貴女自身にも、よくわかっていないのでしょう? その力」
「…………まあ確かに、ね」
「それは本来、この世にあってはいけない力なのよ」
理知的な美貌に、憂いが満ちた。
「科学が支配する。それがこの世の、あるべき姿……科学で説明のつかない力など、本当は存在してはいけない。存在すると……あのような事が、起こってしまう」
ユナ・ナンシー・オーエンとその仲間たちによる、大破壊。
確かに、と菫子は思う。
科学が全て、という世界であるならば、あのような幻想的な存在が、現れるはずはないのだ。
「貴女の、その力。あの大破壊を引き起こした存在と……根源を、同じくするものよ」
「お世辞でも、嬉しい」
菫子は、微笑んだ。
「私の力が、あのユナ・ナンシーと同じ性質のものだなんて……でもね、まだまだよ。この程度の力じゃ私、まだ幻想の世界へ行けない」
日頃の修練は、欠かしていない。
最初の頃は、スマートフォンを破損させるのが精一杯だった。今は、小規模ながら人体を破壊する事が出来る。
「そう……幻想の世界に、憧れているのね」
白衣の女性が、暗く微笑む。
「……恐いわよ、幻想の世界は。科学より強いものがある……こんなに恐ろしい事、ないわ」
この女性も、幻想の世界の住人ではないのか。
菫子は、ふと、そんな事を思った。
「私は……守矢神社・科学技術班所属、朝倉理香子。助けてくれて、ありがとうね。危険な力を持ったお嬢さん」
名乗りつつ、白衣の女性はスマートフォンを取り出した。
救急車を、手配している。
そして、男たちに声をかける。
「あと少ししたら、救急車が来るわ。それまで我慢なさい……これに懲りたら、もう馬鹿な事はやめておくのね」
「……ふ……ふざけんじゃねえぞ、クソ宗教がよ……」
ただ1人、今のところは無傷の男が、座り込んだまま呻く。叫ぶ。
「てめえら守矢神社のせいで、俺の家族はメチャメチャだってんだよ……おふくろがよお、てめえらんとこに金! 貢がされてよおおおおおおおお!」
叫びながら、男は膨張した。膨張した体表面が、破裂した。
大量の臓物が、うねりながら空中に伸び広がり、牙を剥く。
まるで、人体を食い破った寄生虫である。
牙を剥いて蠢き暴れるものたちを、男は全身から生やしていた。
「ぶっっっ! ころォす! もぉりやあああああああああああッ!」
顎関節の辺りまで口を裂いて、男は吼える。牙を剥く触手が、その口からも溢れ出す。
これまで菫子も、幾度か目の当たりにした事がある。
人間が、そうではないものに変わる光景であった。
牙ある触手の群れが、菫子を襲う。朝倉理香子を襲う。
そして、ズタズタに切り刻まれた。
円盤状のものが複数、どこからか出現して縦横無尽に飛翔している。
回転ノコギリのような、鋭利な歯車。
飛翔するそれらが、無数の触手をことごとく切断する。
触手の発生源である、男の肉体をも、粉々に切り刻む。
菫子は、息を呑んだ。
回転飛翔する鋭利な歯車の群れが、朝倉理香子の周囲で滞空している。彼女の、次なる命令を待つかのように。
「それは……科学、なの?」
「この私の科学技術の結晶、ホーミングギアよ」
物言わぬ斬殺者たちを周囲に従え、理香子は眼鏡の位置を微調整している。
「実用化には、守矢神社の資金力が必要だったけれど……ね」
「貴女は……なるほど。お金が目当てで、守矢神社に」
菫子の問いに、理香子はただ微笑んだ。
5人いた男は4人となり、静かに青ざめている。悲鳴すら、出なくなっている。
恐怖が、激痛を上回ったのだ。
汚らしく散乱したものを、菫子は一瞥した。
間もなく救急車が到着する。が、この有り様が「殺人」と判断される事はないだろう。
「人間が、人間じゃなくなる……都市伝説みたいに、言われてたけど」
その都市伝説も、あの大破壊によって、大いに信憑性を帯びた。
人智を超えた何かを、あの日、世の人々は目の当たりにしたのだ。
「……私、見かけたの3回目なのよね。こいつらって何なの? 結局」
「私も知りたい。本当よ。守矢神社のマッチポンプじゃないのか、みたいなお話があるようだけど」
理香子が、苦笑した。
守矢神社が、例えばあの大破壊に似た何らかの手段を用いて、人間を怪物に変えている。
それを殺処分する事で、人々の支持を集めている。
これもまた、都市伝説の類である。
「守矢では、まだ何も掴んではいないわ。明らかにわかっている事は、ただ1つ……」
立ち上がれず青ざめ固まっている4人の男を、理香子は眼鏡越しに見下ろした。
「……貴方たちは、最初から4人組だった。そうよね?」
この男たちは自分に感謝をするべきだ、と菫子は思った。
菫子がいなかったら間違いなく、5人とも切り刻まれていた。相手が人間であっても、この朝倉理香子は容赦をしなかっただろう。
ユナ・ナンシー・オーエンや十六夜咲夜と同じ何かが、感じられる。
そんな朝倉理香子を、暴力装着として保有している。
守矢神社には、ますます誰も逆らえはしない、という事だ。
ひらひらと、煌めく何かが舞った。菫子の、視界をかすめた。
蝶々、である。
何羽もの蝶が、夕闇にキラキラと鱗粉を振り撒きながら飛翔している。
呆然と、菫子は見入った。
これほど美しいもの、見た事がない。そう思った。
「駄目…………!」
後ろから、腕を掴まれ、引っ張られた。
理香子だった。
「逃げて。あの蝶に、近付いては駄目……そんな気が、するの」
「何よ、それ……」
「私も、わからない。ただ……あの蝶は、科学では絶対に解明出来ないものの、恐らくは筆頭に近いところに在る。それだけは、わかる……」
4人の男は、死んでいた。
片目を潰し、鼻を折り、顎を外し、手首を砕いた、程度で死にはしないだろう。
自分が殺したわけではない、と菫子は思う。
青ざめた4つの屍に、煌めく蝶たちは止まっていた。
生命を、吸収した。そう見えた。
菫子は、理香子と身を寄せ合っていた。
無数の蝶々が、周囲をひらひらキラキラと飛び交っている。
逃げろ、と理香子は言ったが、もはや逃げ場はない。
いくつものホーミングギアが、身を寄せ合う2人の周囲を旋回し続ける。
この煌めく蝶たちを、物理的に切り裂く事が出来るのかどうかは、わからない。
旋回する防御の中から、菫子は空を見上げた。
死の蝶々、だけではない。
桜の花びらが、ふわ、ふわり、と舞っている。
「…………幻想の、世界……」
呆然と、自然に、そんな言葉が漏れた。
守矢神社による復興を成し遂げつつある街並みを……守矢神社の支配する世界を、睥睨するかの如く。
巨大な桜が、天空にそびえ立っていた。
藤原妹紅が、死にかけている。
「……ちょっと……しっかり、しなさいよ妹紅……」
蓬莱山輝夜が声をかけても、妹紅は応えない。
輝夜の小さな身体を抱く細腕に、微かな力が籠められただけだ。
魂を核として再生したばかりの輝夜を、妹紅は、己の全身で庇っている。
庇われ、守られている事を、輝夜は認めなければならなかった。
妹紅の頭に、肩に、背中に、四肢に、蝶々が止まっている。
キラキラと光の鱗粉を撒き散らす、蝶の群れ。
妹紅の全身から、生命を吸い取っている、ように見える。
暑苦しく燃え盛る、永遠の生命を。
全ての生命力を吸い取られ、死に至ったとしても、妹紅は即その場で蘇る。
蘇った生命を、また吸い取られる。
この蝶たちがいる限り、それが繰り返されるだけだ。
宇宙空間を優雅に飛び交う、蝶の群れ。
妹紅に抱かれたまま、輝夜は弾幕を放った。
「この……っ!」
可憐な細腕が、色とりどりの光弾を無数、暗黒の宇宙に放流する。
放流された破壊の色彩が、妺紅を取り巻く形に渦を巻く。
そして、妹紅の全身に止まった蝶たちを粉砕した。
キラキラと砕け散ったものたちと、同数以上の蝶々が、しかしすでに妹紅の頭や肩に、腕と背中に、舞い降りていた。
炎の翼で、紅蓮の弾幕で、妺紅がいくら灼き払って焦がし砕いても、一向に数を減らさなかった蝶の群れ。
輝夜の視界を……この宙域を、満たしている。
いや。全宇宙に飛び広がっているのではないか、と思える。
あらゆる惑星に流れ込み、あらゆる生命を吸い尽くしているのではないか。
全方向に群れている死の蝶々から、妹紅は今、己の全身を用いて輝夜を守っているのだ。
「妹紅…………」
輝夜の呼びかけに、妹紅は、やはり応えない。
間近で、弱々しく微笑むだけだ。
青ざめた笑顔に、輝夜は囁きかけた。
「……どこまで頭、悪いのよ……蓬莱人を守る。この宇宙で一番、無意味な行動よ……」
「お前が、あの綿月豊姫に切り刻まれた時……私が、どんな思いを……したのか……」
妹紅が、ようやく言葉を発した。
「…………お前、わかるのか……?」
「わかるわけ、ないでしょ。どんな思いをしたって言うの」
「……言葉では、説明……出来ない……」
「何よ、それは」
「……とにかく。あんな思いをするのは……もう嫌だ……」
妹紅が、歯を食いしばる。
その程度の力は、まだ残っているようだ。
「私は……私のやりたい事を、やってるだけ……ふん、誰が……お前なんか守るかよ、思い上がるな……ばぁか……」
「こいつ……!」
忌々しい抱擁の中から、輝夜は周囲を睨み回した。打開の糸口を、探し求めた。
上下左右、前後、東西南北。あらゆる方向に、死の蝶々が群れている。
桜の花びらも、舞っている。
宇宙空間に、春が来た。そんな光景だった。
天の川の如く、静かに激しく流れ漂う桜吹雪。
そのあちこちで、弾幕使いたちは、妹紅と同じ様を晒していた。
綿月姉妹が、星幽剣士コンガラが、桜吹雪の中を流れ漂っている。安らかに、意識を失っている。生命までもが、失われつつある。
煌めく蝶の群れが、彼女たちを覆い尽くしていた。
常に小鳥たちを従えているカナ・アナベラルが、今は小鳥ではなく蝶々に群がられている。蝶の群れの中で、幸せそうに眠っている。死につつある。
悪霊・魅魔が、煌めく蝶たちに包まれ、眠ったまま少しずつ姿を消してゆく。霊体を、吸い取られている。
八雲藍と橙が、桜吹雪の中、身を寄せ合ったまま気を失っていた。2人の全身あちこちで、蝶たちがキラキラと翅を揺らしている。
「…………この……っ! おぞましい……敵性体がっ……!」
言葉を発しているのは、鈴仙・優曇華院・イナバであった。
妹紅と輝夜を背後に庇う格好で、宇宙空間に立ち、よろめいている。
よろめく身体を、パチュリー・ノーレッジが支えている。
支えられながら鈴仙は、右手の人差し指で、狙いを定めていた。
桜吹雪の、発生源。
宇宙に聳え立つ、桜の巨木に向かってだ。
支え合い狙いを定める両名の全身に、煌めく蝶たちが止まっている。
吸い取られ、残り少なくなった生命を、共有する事で、鈴仙とパチュリーは辛うじて持ちこたえている。
輝夜には、そう見えた。
「……もう、やめて。鈴仙も、パチュリーさんも」
後ろから、言葉をかける。
「私を守る事に意味がない事は、知っているでしょう? 何をされても私は生き返る、けれど貴女たちはそうではないのよ……逃げなさい、早く」
「この状況……どこへ逃げろと、おっしゃるのですか。輝夜様……」
鈴仙が、振り向きもせずに応えた。
「状況の、根源たるものを排除する……それ以外に、生存の道はありません……」
「……それに。私は貴女を、八意先生のもとへ連れ帰らなければならないのよ。輝夜姫」
鈴仙の半分も生命力の無さそうなパチュリーが、それでも口調強く言った。
「貴女もそうよ、鈴仙さん……生きたまま、永遠亭に帰ってもらうわ。八意先生も、てゐさんも、貴女の帰りを待っている」
「…………」
鈴仙は何も応えず、ただ人差し指を、桜の巨木に向けている。
銀河系の、どこからでも見える、全ての知的生命体が視認しているであろう、八分咲きの大樹。
星雲の如き花吹雪を宇宙全体に渦巻かせる、静寂の桜。死の桜。
鈴仙が狙いを定めているのは、それを背景として優雅に佇む、美麗幽玄なる姿に向かってだ。
薄青い衣装をまとわりつかせた、豊麗にして優美な肢体。
被り物から溢れ出して揺らめく、幻惑的な桃色の髪。
並の知的生命体であれば、認識した瞬間に惑星もろとも安らかに死滅してしまうであろう、魅惑の笑顔。
「みんな……素敵よ……どろどろ渦巻きながら、ぎらぎら燃えて輝く……濃厚な、生命と魂……」
いくつもの恒星系を瞬く間に呑み込んでしまう死の蝶々の群れを、西行寺幽々子は、そんな言葉で操っている。
「私のものには、ならない……? そうよね……でも、欲しいの……みんな、ごめんね……」
これほど優しく美しい笑顔は見た事がない、と輝夜は思った。
「……穢れ……これが、これこそが……」
呆然と、陶然と、呟きが漏れた。
いつしか輝夜は、微笑んでいた。
「…………月人が……失って、しまったもの……」