第68話 シンデレラ・ケージ
原作 上海アリス幻樂団
改変、独自設定その他諸々 小湊拓也
永遠亭の最高権力者が、帰還した。
「やあ、お帰りなさい八意先生。お前さんの事は全く心配してなかったよ」
因幡てゐは、とりあえず笑顔で迎えた。
「私に出来る範囲の事は、こなしておいた。後はね、先生にしか出来ないお仕事が山積みだよ」
「イナバの長に、随分と面倒をかけてしまったようね。ありがとう、てゐ」
微笑む八意永琳の隣で、1人の玉兎が身を固くしている。
鈴仙・優曇華院・イナバ……では、なかった。
「兎を拾ったのかい、先生」
「紹介するわ。ウドンゲ、ではないレイセンよ。面倒を見てあげてちょうだい」
そう紹介された少女が、落ち着きなく周囲を見回している。
迷いの竹林と、永遠亭。
静謐そのもの、の風景が今はいささか騒がしく慌ただしい。
何人ものイナバが、担架を運びながら忙しく出入りしているのだ。
「この子たちは、玉兎……ではないのね」
「地上の兎だよ、レイセンさん」
てゐは言った。
「あんたがた玉兎に言わせれば、穢れてどうしようもない生き物らしいね?」
「……私だって、もう充分に穢れた身よ。地上の妖怪に、叩きのめされて、助けられて、宿と食事を振る舞われた」
レイセンが俯く。
「あの風見幽香だけは絶対に許せないけど、他の人たちには親切にしてもらったわ……恩返しも、出来ないままで」
「その連中もね、あんたに恩返しなんか期待してないと思うよ。そんな事しなくていいから、ちょいと手伝っておくれ」
担架で永遠亭に運び込まれているのは、負傷した少女たちであった。
「うちの先生がね、怪我人を大量に連れて来ちまった。兎の手も借りたい忙しさになるよ」
「ご面倒を、おかけします」
永琳の傍に立つ女性が、ぺこりと礼儀正しく頭を下げた。
サクランボのような飾り物で束ねられた髪が、揺れて跳ねた。
「私の娘たちを、どうかよろしく……」
これほど大勢の娘を出産したとは思えぬほど、若い女性である。少なくとも外見は。
担架の上で死にかけた少女たちの何人かが、運ばれながら呻く。
「……私……あんたの娘じゃないよう……」
「いいじゃない、オレンジちゃん……うちへ来ちゃいなさいよ……」
「……私も、貴女の娘ではないわよ。もう……」
1人が担架の上から、母を名乗る女性の赤い袖を掴んだ。
「私は、貴女を裏切った……貴女から、自立した。その代償として……魔界神・神綺! 私を、処刑でもすればいい……」
「ねえエリス。貴女は私から自立など、してはいないわ」
魔界神・神綺と呼ばれた女性が、優しく微笑む。
「貴女だけではなく幻月も夢月もユウゲンマガンも、私を裏切ったつもりになっているだけ……皆まだ、私の掌の上よ」
「そういうところが、甘いと言っているのよ……!」
「私の掌から旅立つ……それが出来た子は、アリスだけ」
神綺が、エリスの頬を撫でる。
「随分と手ひどくやられたわね。まるで、あの時のように」
「博麗靈夢は、いずれ殺す!」
「違うわ。私が言っているのは、その戦いではない」
「…………!」
気丈に歯を食いしばっていたエリスの顔が、引きつった。青ざめた。
その顔を、神綺が愛おしげに撫で続ける。
「それよりも、ずっと昔……貴女も、幻月も夢月も。少しだけ元気が良過ぎて、ほら。彼女に、喧嘩を売ってしまったのよね?」
「…………法界の、化け物……」
エリスは怯え、泣き出していた。
「何故……神綺様は、何故……あのようなものの存在を、お認めになるのですかぁ……」
泣きながら邸内へと運び込まれて行くエリスを、神綺はにこやかに見送った。
「月の賢者、八意永琳……あの子たちを、お願いしますね」
「私はもう、月の賢者ではないわ」
永琳が言った。
「幻想郷で、医療に携わる者として……出来る限りの事をするだけよ。幸い皆、重傷ではないわ」
言いつつ、運ばれる担架の1つを見下ろす。
「……最も治療困難な患者は、貴女ね。上白沢先生」
「おやまあ」
てゐも、担架を覗き込んだ。
まるで鬼の如く立派な角を生やした牝妖怪が、ぼんやりと虚空を見つめながら、何事かを呟いている。
この場にいない誰かに、語りかけている。
聞き取る事が出来ない。聞き取る必要もなく、大体はわかる。
それが、最後尾の担架であった。永遠亭の邸内に、運び込まれて行く。
てゐは、じっと見送った。
「あの先生が、あんな様になっちまった……妹紅の姐さん、かね。原因は、やっぱり」
「突き詰めると輝夜のせい、とも言えるわね」
永琳が言った。
「つまり私のせい、と言えなくもないわ」
「そいつは突き詰め過ぎってもんだろうよ」
言いつつ、てゐは空を見上げた。
真昼である。月は、見えない。
朝になれば太陽が昇る。当然の有り様が、幻想郷に戻って来た。
なのに、まだ夜明けを迎える事の出来ない者が大勢いる。
彼女らは、月へと向かった。
「お前さんは、行かなかったんだね?」
永琳、神綺、てゐ、レイセン。4人で、担架を追って歩き出す。
歩きながら、てゐはレイセンに問いかけた。
「幻想郷でも特に物騒な連中が、月へドンパチやりに行ったわけだけど……あいつらと一緒に里帰り、って気にはなれないかな。そりゃ確かに」
「私なんか行ったって……出来る事、何もないわ」
俯き加減に、レイセンは応える。
「私なんかじゃ、依姫様のお役にも……豊姫様の、お役にも……立てない……」
「あの子たちの事を色々、お話して欲しいわ。貴女には」
永琳が、レイセンの細い肩を軽く抱いた。
「豊姫も依姫も、私の事なんて忘れてしまっているのかも知れないけれど」
「……そ……そんなわけ、ありません。や、八意……様……」
レイセンの声が、震えている。
本来ならば、こうして直に会話が出来るような相手ではない……などと、レイセンの方で勝手に思い込んでいるのだろう。
「お2人とも私たち玉兎に、貴女様のお話を……事あるごとに、して下さいます……」
「反逆者として?」
「……そのような事に、なってしまった事情……経緯……私は、何も存じ上げませんが……」
レイセンが顔を上げた。永琳を、じっと見つめた。
命がけの眼差しだ、とてゐは感じた。
「依姫様も豊姫様も、貴女様を……懐かしんで、いらっしゃいます。八意……永琳様に、会いたがっておられます」
「そう…………」
「何故……貴女様は、地上になど……綿月のお2人を何故、お見捨てあそばせたのですか? あまつさえ逆賊・蓬莱山輝夜を擁立し、嫦娥様に叛旗を」
「そんなお話に、なってしまったのね」
永琳は苦笑した。
「私の望みはね、この永遠亭で輝夜たちと一緒に、ひっそりと穏やかに暮らす事よ。今更、月の都の権力に興味はないわ」
「……そのよう、ですね」
レイセンが呻く。
「月の都は……貴女様に、見放されてしまったのですね……」
「……そう、とも言えるのかしら」
見えるはずのない真昼の月を、永琳も見上げたようだ。
「私がいた頃と比べても、月の民は……何も出来ない生き物に、なってしまったのでしょうね」
「あの連中の生命維持システムを管理するのが、私たち玉兎の仕事です。ルーチンワークの機械いじりです。やってて意味あるのかなって思います。本当は、いけないんでしょうけど」
「いえ、正常な感覚だと思うわ」
永琳の口調は、重い。
「月の都は今、幻想郷などよりも……ずっと、平和なのでしょうね。私に出来る事は、何もないわ」
「……では私たち魔界の軍勢が、月の都を攻めてみようかしら」
神綺が言った。
「賢者・八意永琳。月の都を守るために、私と戦ってみる?」
「魔界神・神綺……貴女にとって、決着を付けなければいけない相手がいるのよね。月の都の、地底深くに」
「やめて……」
レイセンが言った。
「月の都で弾幕戦が起こったら……月人なんて皆、ひとたまりもなく死んでしまうわ……それは今だって、生きてるのかどうかもわからない連中だけど」
「そんな連中でも、守りたいんだね。あんたは」
てゐが微笑みかけると、レイセンは再び俯いた。何も、言わなくなった。
てゐは、頭の後ろで両手を組んだ。
「それにしても、レイセンとはね……どうかな先生。うちの奴は、れいせん1号とでも呼ぶべきかね」
「ウドンゲでいいのよ、あの子は」
優曇華院。
あの少女に、その名を与えたのは永琳である。
「月の都に帰る事は出来ない、永遠亭にも居場所はない……なんて考えているに違いないわ。あの子ったら」
「野良兎になって、たくましく1匹で生き抜く、なぁんて事も出来ないよ。あいつは」
見えぬ月に向かって、てゐは叫んだ。
「おおーい、とっとと帰っておいで優曇華院。お前はさぁ、飼われてないと生きられないんだから。永遠亭の飼われ兎! それだけが、お前の生きる道さ。だから早く帰って来ぉーい」
無数の小鳥が飛び交う宇宙空間に、ただ1匹だけ兎がいる。
長らく飼い馴らされて今更、野生に戻る事は出来ない、それでいて飼い主に甘え続ける道も絶たれた兎。
ここで、死ぬしかない。
その思いを鈴仙・優曇華院・イナバは、光弾に籠めた。
両手の人差し指が銃口となり、思念波動で出来た真紅の弾丸を速射し続ける。
その弾幕が、襲い来る小鳥の群れを粉砕した。
小鳥たちの破片が、そのまま光弾に変わった。あらゆる方向から、鈴仙に向かって降り注ぐ。
思念波動を、鈴仙は己の周囲に張り巡らせた。
不可視の障壁が、発生していた。
そこへ光弾の嵐が激突する。鈴仙の周囲で、空間に波紋が浮かぶ。
「くっ……」
光弾1つ1つの破壊力は、微小である。ただ、ひたすら数が多い。際限がない。
波紋状に歪み続ける空間の中で、鈴仙は動けずにいた。
そこへ、流星のようなものが激しくぶつかって来る。
充分な破壊力を有する、大型光弾。
複数のそれらが、螺旋状に渦巻きながら、不可視の障壁を直撃する。
空間の波紋が、亀裂に変わった。
そう見えた時には、障壁が砕け散っていた。
破壊力の微小な光弾が無数、鈴仙の細い全身に全方向から激突する。
折れた肋骨が、体内のどこかを傷付けた。
それを感じた瞬間、鈴仙は懐から小瓶を取り出し、中身を飲み干していた。
形容不可能な不味さが、体内で荒れ狂う。
無数の光弾は鈴仙の全身各所を傷付けるが、それらが即座に癒えてゆく。
薬を飲み干した、その一瞬だけ、鈴仙の肉体は妖精あるいは蓬莱人の如き再生力を保有していた。
「うっぶ……ぐえぇぇ……」
即席治療の激痛に震えながら、鈴仙は宇宙空間に血反吐を吐き散らした。
痙攣する己の身体を抱き締めつつ、鈴仙は気付いた。
輝ける優美なものたちが、自分を取り囲んでいる。
女人像のような、フェムトファイバー製の全身甲冑。
死の天使の群れが、発光する翼を広げ、全方向から鈴仙に弾幕の狙いを定めていた。
薬は、もう無い。今、服用したものが最後の一瓶である。
死の天使たちが、翼を輝かせた。
無数の光弾とレーザーが、光の豪雨となって鈴仙を襲う。
とっさに張り巡らせた障壁は、発生と同時に砕け散った。
次の瞬間、自分は死ぬ。鈴仙は、それだけを思った。
弾幕の豪雨は、しかし止んでいた。
死の天使たちが、痙攣している。動きを硬直させている。
優美なフェムトファイバー装甲の全身に、無数の小鳥が止まっていた。まとわり付いていた。
「……邪魔、しないで」
横たわる道路標識に可憐な尻を載せ、宇宙空間に浮かぶ1人の少女。
パタパタと舞う小鳥たちを周囲に従えたまま、死の天使の群れに語りかける。と言うより、命令をしている。
「この兎さんは今、私と遊んでるの。横取りは駄目……弾幕使いはね、そういう事をしちゃいけないのよ。そうでしょ?」
「君は勝てるのか? カナ・アナベラルよ」
死の天使たちの本体。
宇宙空間を包み込むように6枚、翼を開いた大いなるものが、小さな紅いものと対峙しながら言った。
「その玉兎、今はまだ心が万全ではないようだが……立ち直れば、手強い相手となるだろう。今のうち、手段を選ばずに始末しておくべきではないかな」
「…………何を、言うの……」
鈴仙は呟いた。
「私の、心が……万全ではない、なんて……そんなわけ、ないでしょう?」
自分には、すでに迷いはない。
この戦場を、死に場所と思い定めているのだ。
帰る場所も、ない。
「月の都にも、永遠亭にも、帰れない……私は、ここで戦い……死ぬしか、ない……ぶれてなんか、いないわ……」
立ち直れば強くなる。そうではない。
自分は今が、生涯最強の状態なのだ。
「余裕を見せている、つもりかしら? ねえ、死の天使よ」
大いなるものと対峙する、紅き小さな姿が、言葉を発した。
真紅の光をまとう、レミリア・スカーレットであった。
「お前には今、目の前の! 集中しなければならない弾幕戦が、あるはずよ!」
光の長槍を先端として、レミリアは真紅の流星となり、死の天使サリエルに激突して行く。
結果、何が起こったのかを、鈴仙は確認する事が出来なかった。
小鳥たちが、周囲を飛び回っているからだ。
小鳥たちしか、見えなくなった。
無数の小鳥で出来た、檻。そう思えた。
「ここで死ぬ、なんて……そんな事、言わないで?」
カナ・アナベラルが、傍にいた。身を寄せて来る。
「私が、貴女の……鳥籠に、なってあげるから。ね?」
「世迷言を……」
ぼんやりと、鈴仙は思った。
自分が、リグル・ナイトバグやミスティア・ローレライ、博麗霊夢にした事と、同じであると。
心の隙に、カナの優しい囁き声が入り込んで来る。
「わかるわ兎さん。貴女はね、帰るべき鳥籠がないと……飛べない子……いいじゃない? それは、それで。鳥籠を砕くような翼が無くても……鳥籠の中で、可愛いお歌を歌うだけの小鳥さんだって私、好きよ」
月の都にも、永遠亭にも、自分の居場所はない。
戻るべき場所はない。
ここで、戦って死ぬ。否、自分は実はもう死んでいるのではないか。
歌声が聞こえた。
カナの愛らしい唇から、鈴仙の心へと優しく流れ込んで来る。
「か……ごめ、かごめ……か、ごのなぁかの、うーさぎは……」
違う、と鈴仙は思った。
自分がリグルとミスティアと霊夢を操ったのは、戦力として利用するためである。
「……いつになっても、出られない……」
このカナ・アナベラルという少女には、そのような打算がない。
彼女は本気で、この惨めな兎を気遣ってくれている。
「後ろにも、正面にもね、私しかいないよ? うふふ……」
そっと、手を握られた。弱々しい、優しい力。
だが鈴仙は、振り払う事が出来ない。
そのまま、手を引かれた。
横たわる道路標識に、鈴仙はカナと並んで腰を下ろしていた。
少女2人を乗せた道路標識が、そのまま霧雨魔理沙の箒の如く飛翔する。
小鳥の大群を周囲に従えて、カナと鈴仙は宇宙空間を飛んだ。
「何だ、捕虜を連れて来たのか」
声を、かけられた。
赤一色の装いをした、どこか苺を思わせる少女。確か、岡崎教授と呼ばれていた。
カナが、可憐な唇を少しだけ尖らせる。
「捕虜じゃないわ、私のお友達よ。鳥籠に入れて大事にしてあげるの」
「それは友達なのかな。まあ私も」
岡崎教授が、ちらりと振り返る。
「捕虜か、友達か、愛玩動物か実験動物か……様々に扱える子たちを、手に入れたところさ。皆で仲良くしようか」
十字架が3つ、宇宙空間に打ち立てられている。
魂魄妖夢が、八雲紫が、十六夜咲夜が。
血を流し、意識を失い、磔にされていた。