第66話 戦の海に月が浮かぶ
原作 上海アリス幻樂団
改変、独自設定その他諸々 小湊拓也
「お疲れ様」
声をかけられた。
この宇宙に、これほど優しい声があるのか。
どれほど慈悲深い心を持っていれば、これほど優しい声を発する事が出来るのか。
鈴仙は、そう思った。
涙を拭い、鼻水を無理矢理に啜り上げて1滴残らず飲み込んだ。そして顔を上げる。
いや、それだけでは駄目だ。立ち上がり背筋を伸ばし、直立不動の姿勢を取らなければ。
こんなふうに、膝を抱えて座り込むなど、この女性の視界の中では許されない。
「ああ、そのままでいいのよ。貴女、疲れているのでしょう?」
静かの海。
この宇宙で最も高貴なる、輝ける御姿が、事もあろうに玉兎の傍で膝を曲げ、砂浜に座した。
「……私だって、疲れてしまうわ。色々と、ね」
「…………は…………ぁ…………」
そんな声を発するのが、鈴仙は精一杯だった。
静かの海の砂浜に今、2つの人影がある。この宇宙で最も貴き存在と、最も無様なる存在。
並んで膝を抱え、海面を見つめている。
「……依姫を、どうか許してあげて欲しいわ」
「…………はい……あ、いえ! そのような、そのような」
直答が許される相手ではない。
それでも鈴仙は、そんな声を発していた。
「私が悪いのです。私が、未熟なのです……無様なのです……依姫様の御期待に応えられない、私が……どうしようもなく、駄目なんですぅ……」
拭い取ったはずの涙が、とめどなく溢れ出して来る。
「どうして……私って、こんなに駄目なんだろうって……」
「それならね、依姫だって同じくらい駄目な子よ」
優しい、そして高貴なる声。
「あの子が、貴女たち玉兎に優しく出来ないのはね、期待しているから厳しくするとか、そんな立派な理由ではないわ。ただ、あの子自身が未熟なだけ……困ったものよね。神様を依らせて憑かせる能力者が、ああも心に余裕を持てないのでは。神様たちだって、依って来てはくれないわ」
「依姫様を悪く言わないで下さい!」
直答の許されぬ相手に向かって、鈴仙は叫んでいた。
自分は死んだ、と思った。
それでも、言わねばならない事はある。
「依姫様は優しい御方です! 素敵な人です! それは時々、変な神様を拾っておかしくなっちゃう事ありますけど、そういうの含めて可愛いと思います! だから」
「ありがとう」
微笑みかけられた。
ちっぽけな玉兎など、きらきらと光に変わって消えてしまう。そんな笑顔だった。
「依姫を好きでいてくれて、本当にありがとう。あの子が、貴女たち玉兎に愛されている……それだけで私はね、あと何億年かは心穏やかでいられるわ」
永劫の時を生きる。死ぬ事が出来ない。
それがどういう事であるのか、自分ごときでは片鱗すら掴めるものではないだろうと鈴仙は思う。
永劫を見つめる眼差しが、海面に向けられる。
「生命の棲まわぬ、静かの海……月の都も今、同じような有り様よ」
愁いを含んだ、優しい声。
「月人は今や、自力では何も出来ない生命体になってしまった。貴女たち玉兎が持つような穢れを、蔑み排除してきた結果……であるとしたら……ああ、私は一体どこで間違えてしまったのかしら……」
独り言、であろう。
この女性の相談相手など、玉兎に務まるわけがない。
「月の民は、長きに渡る戦乱を教訓として、穢れを捨てる道を選んだ。私は喜んだわ。戦乱に苦しんできた月の民が、己の意志で歩み始めた道だから……そこへ私は、どこかで介入をするべきだったの? 穢れを受け入れよ、と。もっと穢れよ、と」
そのような話をされたところで、ちっぽけな玉兎の1匹が出来る事など、あるわけがなかった。
「……1人、私には親友がいた。とても穢れていたわ」
永劫を見つめる瞳が、今は遥けき過去に向けられているようだ。
「思えば、あれが最後の分岐点……彼女が月の都にいれば、月人という種族は穢れを取り戻す事が出来る。結果、月はまたしても戦乱の時代を迎えるかも知れない……私は、それが恐かった……だから……」
手を、触れていた。
相談に乗る事など出来ない。出来る事など、あるわけがなかった。
ただ鈴仙は、この宇宙で最も高貴なる女性の背中に、そっと片手を触れていた。
豪奢な衣服の下に、たおやかな肉体の感触があった。
慰めよう、などと鈴仙は思ったわけではない。そこまで身の程知らずではない。
ただ、触れたいと思っただけだ。
結果、不敬を咎められ誅殺されたとしても、それは仕方がない。
本気で、そう思わせる女性なのだ。
優しさと柔らかさが突然、鈴仙の細身を包み込んだ。高貴なる香りが、ふんわりと満ちた。
「ありがとう……」
鈴仙は、抱き締められていた。
「貴女の、その優しさも……ああ、私は穢れと断じ……月から取り除いてしまった……」
宇宙空間を、兎が跳ね回っている。
狩りの対象であった。
月を背景とする宙域を埋め尽くす、狩人の群れ。
ただ1匹の可憐な兎に狙いを定め、容赦なく弾幕をぶちまけている。
金属製の女人像、とも言える姿の、死の天使たち。細腕と翼を広げ、無数の光弾をばら撒きながらレーザーを放つ。
人型の、植物の塊。全身に咲いた花々から花粉の如く光弾を噴射する。近い距離では腕を振るい、蔓草と根と荊の鞭を伸ばす。
弾幕の海を、鈴仙・優曇華院・イナバは懸命に泳ぎ抜けた。
しなやかな肢体の曲線が柔軟にうねり、無数の光弾にかすめられる。
形良く引き締まった左右の太股が、絡まろうとする植物の鞭をかわしながら躍動する。
回避の躍動を披露し続ける玉兎の少女に、レーザー光の豪雨が降り注いだ。
降り注ぐものを、鈴仙は睨んだ。
真紅の眼光が、レーザーの雨を薙ぎ払い、粉砕した。
それと同時に鈴仙の動きが、回避の遊泳から、攻撃の旋回へと移行してゆく。
両の細腕が、弧を描く。
左右の愛らしい指先が、真紅の光弾を速射していた。
鋭利な、光の弾丸の嵐。鈴仙の周囲に吹き荒れ、狩人たちを直撃する。
死の天使たちが、ひび割れて揺らぐ。人型植物の群れが、草花の破片を散らす。
1発や2発の被弾で戦闘不能に陥るような、生易しい敵ではない。1体に対して、10発20発と撃ち込むしかない。
「これが……今の、月の軍勢……」
真紅の集中射撃が、鈴仙の周囲あらゆる敵に対し、行われていた。
鋭利な弾幕の嵐が、ひび割れた死の天使たちを、再生中の人型植物たちを、完全に粉砕し消し飛ばす。
鈴仙は思う。本来ここで自分たちを迎撃するのは、月の都の艦隊であったはずだ。
その艦隊は、しかし八意永琳によって殲滅された。
ならば代わりに、玉兎の兵士たちが防衛戦力として駆り出されていても、おかしくはなかったのだ。
「それを、せずにいて下さった事……感謝いたします。ありがとう、ございます……嫦娥様……」
涙が溢れた。あの時のように。
自分はもう、嫦娥のもとへ戻る事は出来ない。
涙を弾き飛ばすように、真紅の眼光が迸った。
それが極太の光条となって、死の天使を、植物の塊を、数体まとめて撃ち砕く。
「この軍勢が、幻想郷を攻めるのであれば……私の部下たちを、殺すのであれば……どうか、お許し下さい。いえ、お許しいただけなくて構いません嫦娥様……鈴仙は、貴女様に背きます」
様々なものが飛び散った。フェムトファイバー装甲の破片。枯れ砕けゆく植物の破片。
そうではないものも、見えた。舞い散り、羽ばたいている。
小鳥の群れ、であった。
「貴女は……妹紅さんとは、違うのね」
宇宙空間に浮かび横たわる、道路標識。
そこに、1人の少女が軽やかに腰掛けている。周囲に小鳥たちを従えて。
「鳥籠の中じゃないと、生きていけない……新しい鳥籠を、探しているのね」
嫦娥のもとへ、戻る事は出来ない。
そして、もはや永遠亭にも居場所はない。
自分はこの戦いで死ぬしかないのだ、と鈴仙は思った。
植物の鞭が、あらゆる方向から超高速で伸びて来る。
「どけ!」
魂魄妖夢は、楼観・白楼の二刀を抜き放ち、全てを切り払った。
切断された鞭を、人型植物の一体がニョロニョロと再生させる。
そこへ、もう1人の妖夢が斬り掛かっていた。楼観剣と白楼剣が、交差する形に一閃する。
人型の植物の塊が、十文字に裂けた。
その裂け目が塞がる前に、2人の妖夢が、容赦のない滅多斬りを遂行する。2本の楼観剣と2本の白楼剣、計4つの刃が乱舞して、植物の塊を切り刻んでいた。
草葉が、花々が、根が、跡形もなく飛散して枯れ砕ける。
2人の妖夢の片方が、少女剣士の姿を崩し、人魂状の半霊に戻りながら旋回し、光弾を散布した。
攻撃の構えに入っていた死の天使が数体、半霊の弾幕を喰らってよろめき、ひび割れつつも、光弾とレーザーを放とうとする。
そこへ、妖夢は斬り掛かっていた。
長大な楼観剣が、燃え上がる妖気の揺らめきを帯び、さらに巨大な刃となって一閃する。
その斬撃が、死の天使たちを粉砕していた。ひび割れた装甲も、中身も、もろともにだ。
死の天使。
この者たちの本体と言うべき存在が、月にいる。
月に居ながら、西行寺幽々子を連れ去ったのだ。
妖夢は見据えた。
戦場の背景を成す、可能性空間移動船。
そのさらに後方で威容を誇示する、隕石孔だらけの天体。
月は、間近にある。そう見える。
「幽々子様……参ります!」
妖夢は飛翔した。
月。それ以外のものは一切、見えなくなった。
気が付いた時には、取り囲まれていた。
植物の塊、死の天使。
妖夢の周囲で群れを成し、光弾を放つ。レーザーを射出する。光の花粉を、噴射する。
それら全方向からの弾幕が、妖夢を直撃する寸前、消え失せた。
空間が、裂けている。
その裂け目に、弾幕は全て吸い込まれていた。
裂け目が閉じた。
別の場所で、空間が裂けていた。
光弾とレーザーの豪雨が、花粉光弾の嵐が、その裂け目から噴出し、死の天使たちを襲う。植物の塊の群れを、直撃する。
何体もの優美な甲冑が粉砕され、その中身が潰れ飛び散った。いくつもの人型を成していた植物が、ちぎれ砕けて枯れ崩れ、消滅する。
「貴女1人を、月に送り込んであげたいところだけど」
妖夢の傍らに、八雲紫が佇んでいた。
「月の都への直通経路は、さすがにまだ封鎖されている。焦らず急がず、私たちと一緒に行きましょう。地道に敵を撃破しながら、ね」
「…………すまない、助かった」
気に入らぬ相手であろうと、助けられたのは事実であった。
可能性空間移動船を拠点とする軍勢は、まだまだ減ったようには見えない。
死の天使も、植物の塊も、宇宙空間を埋め尽くすが如く大量に布陣し、弾幕を放って来る。
「凄まじい火力……それが、そのまま私たちの武器となる」
紫が、優雅に繊手をかざす。
空間の裂け目がいくつも開き、押し寄せる弾幕を全て呑み込んでしまう。
……否。呑み込む前に、それら裂け目は全て閉ざされていた。
紫の美貌が、微かに青ざめる。
空間の裂け目は、全て縫い合わされていた。煌めく、光の糸で。
「綿月豊姫……!」
妖夢が呻いている間にも、弾幕は押し寄せて来る。呑み込まれる事のなかった、光弾の嵐。レーザー光の雨。
穢らしいものが、大量に飛散した。
痛ましくなるほど醜悪なものたちが、大量に飛び込んで来て紫の盾となり、妖夢の盾となった。
そして、弾幕を喰らったのだ。
「貴方たち……!」
紫が息を呑む。
醜悪なものたちが、弾幕に粉砕されてゆく。
「何も言わないでくれ、紫……」
「俺たちは、ただ……これだけの存在……」
粉砕され、飛び散ったものが、光に変わった。
光弾だった。
命そのものの弾幕が、紫と妖夢の周囲を吹き荒れた。
死の天使を直撃し、よろめかせる。植物の塊を直撃し、微量の草葉を引きちぎる。
そこへ紫が、猛然と突っ込んで行った。
一見たおやかな両手が、日傘を開いて猛回転させる。
その回転が、卍型の光の刃を生んだ。
斬撃が、死の天使たちを打ち砕き、植物の塊たちをズタズタに切り刻む。
紫の顔は見えない。
だが妖夢は思った。八雲紫が激昂している、と。
先程とは逆。今は紫の方が冷静さを欠いている、と。
「取り澄ませた面の皮が1枚剥がれたな。悪くはないぞ自称賢者、だが少し待て……」
妖夢は踏み込んだ。
綿月豊姫の、姿は見えない。
遠隔攻撃。光の糸を、遠く離れた場所へと及ばせる事が出来る……のであるとしたら。
空間の裂け目を縫い合わせる、だけで済むはずがなかった。
「八雲紫、かわせぇえええっ!」
妖夢は叫ぶ。が、遅い。
斬撃が来た。
煌めき揺らめく、一瞬の光。
フェムトファイバー、と呼ばれた光の糸である。
それが、妖夢と紫を撫でていった。
宇宙空間に、大量の鮮血が飛散した。
自分の身体が輪切りにされていない事を、まず妖夢は確認した。
腕も繋がっている。動く。ならば、するべき事は1つだ。
懐から小瓶を取り出し、中身を呷った。
とてつもない不味さが、体内で暴れ回る。
血を吐きながら、妖夢は辛うじて声を発した。
「八雲、紫……ッ! 例の薬、持っているのだろう! 早く飲め……っ!」
紫の細身も、原型はとどめている。だが血まみれだ。裂傷は、臓物にまで及んでいるかも知れない。
妖怪が、その程度で絶命するはずがなかった。
だが。死の天使と人型植物の軍勢が、周囲に満ちている。弾幕の狙いを、妖夢と紫に定めている。
死を覚悟する暇すらない、と思われた、その時。
自分を含む、世界の全てが、停止した。妖夢には、それがわかった。
軍勢を成す死の天使が、植物の塊たちが、弾幕を放つ体勢のまま硬直している。
彼らの全身に、細かな光が突き刺さっていた。
無数の、ナイフであった。
「この世で、最も無様な生き物に……」
十六夜咲夜が、いつの間にか妖夢の傍にいる。時の止まったナイフの上に、綺麗な爪先を載せている。
「……少しばかり、良い格好をされてしまったわね。気に入らないわ」
鋭利な美貌の眼前に、咲夜はナイフを立てた。何か念じたようである。
死の天使たちが、装甲も中身も一緒くたに破裂した。人型植物たちが、枯れて崩れて消え失せた。
突き刺さっていた無数のナイフに、咲夜の念が伝播したのだ。
「……退魔の……念……」
血を吐きながら、紫が呻く。小瓶の中身を、飲み干したところである。
「……外の世界で、猛威を振るった妖怪退治人が……幻想郷で、ますます腕を上げているのね……ふふっ、時間を止めて修行をしているのかしら?」
「八雲紫。私たち紅魔館を、貴女が幻想郷へと引き入れたのは……このような戦いに備えての事なのね」
咲夜は言い、見上げた。
幻想郷の弾幕使い3名を見下ろす、赤い人影を。
「……今は、貴女の思惑に乗っておきましょう。幻想郷を守るために」
「守るため、か。それを言い始めるとな、戦争というものは止まらなくなる」
こちらを見下ろし、言葉を発しているのは、赤一色の少女である。
まるで苺だ、と妖夢は思った。
苺の生菓子を頬張る幽々子の、幸せそうな笑顔が、脳裏に浮かぶ。
「我が盟友・綿月豊姫はな、幻想郷を滅ぼす事が即ち月の都を守る事であると、心の底から信じている。愚か、とは言えない。私から見ても君たちは危険だ」
「何者……」
咲夜が呻く。
「魔力も、妖力も霊力も……まるで感じられない。それでいて……この、不穏な何かは一体……」
「魔力、妖力、霊力。いいね、実に良い。欲しいよ」
苺のような少女が、微笑んだ。
どろどろしたもの、ぎらぎらしたものを恋しがる、幽々子の笑顔に似ていた。
「君たちを倒せば……今度こそ、手に入るのだろうか?」