第61話 Lotus Land Story(4)
原作 上海アリス幻樂団
改変、独自設定その他諸々 小湊拓也
すらりと伸びた左右の美脚が、スカートを蹴り払うように躍動する。
その様を見つめ、一瞬だけ里香は思った。
蹴られたい、踏まれたい、と。
細く締まった胴体が柔らかく捻れ、薔薇の花飾りを咲かせた胸が瑞々しく揺れる。
その様を見つめ、一瞬だけ里香は思った。
触りたい、揉みたい、顔を埋めたい、と。
先程、抱き起こされた時に顔を擦り寄せ、匂いまで吸ったのだが、まだ足りない。あの柔らかさを、甘い香りを、際限なく堪能したい。
(い……今の幻想郷には、こんなに……素敵な人が……いるんですねぇ……)
呆然と、里香は劣情を燃やし続けた。
禁断の思いを少女に抱かせながら、茨華仙は跳躍し、空中を駆け、疾風あるいは旋風と化し、高速の戦闘を繰り広げている。
あまりにも、巨大な相手と。
丘陵が動いている、と思わせるほどの巨体。その全身は獣毛に覆われ、頭部では巨大な2本の角が振り立てられている。
有角の巨獣が、吼えた。
咆哮が、そのまま弾幕と化した。光弾の嵐が、吹き荒れながら茨華仙1人に集中してゆく。
美しい竜巻が、生じていた。
茨華仙の肢体がしなやかに捻転し、白いものを渦巻かせる。
包帯、であった。彼女の右腕に巻かれていた包帯。
それがほどけて茨華仙の全身を螺旋状に取り巻き、光弾を跳ね返してゆく。
包帯の巻かれていない右腕が、どういう状態であるのかは、里香のいる場所からは見えない。
ともかく茨華仙は、右腕の包帯を防御に用いながら、左手を巨獣に向けていた。綺麗な五指に囲まれた掌が、光を発する。その光が固まり、放出される。
大型の光弾が、発射されていた。
それが、巨獣の顔面……分厚い獣毛に守られた、眉間とおぼしき部分を直撃する。
普通の弾幕使いが相手であれば、決着の一撃である。だが巨獣・上白沢慧音に対しては、どれほどの痛手となり得るか。
里香が思った、その時には、茨華仙は次の攻撃を敢行していた。
すらりと綺麗な右脚を、包帯が螺旋状に取り巻いてゆく。
ドリル、の形であった。
包帯のドリルをまとう右足を先端として、茨華仙はミサイルの如く飛翔し、巨獣の眉間に激突する。
穿孔の飛び蹴り。
妖力で硬質化した包帯が、螺旋の刃となって猛回転し、巨獣の頭蓋骨を穿ちにかかっている。
その間。里香は、散乱するイビルアイΩの残骸に細工を施していた。
修理など出来ない。出来る事は、小細工である。
地面に投げ出された、残骸も同然の動力部分。いや、まだ辛うじて残骸ではない。
あと1度だけ、何かをする。
その程度のエネルギーであれば、何とか捻り出す事が出来る。
もうひとつ、あと1度だけ使用可能なものが転がっていた。
ひび割れた、巨大な眼球。
イビルアイΩの単眼。レーザー発射装置である。
散らばる残骸群の中から里香は、辛うじて使えそうなケーブル類を全て集め、束ねた。
そして、動力部と単眼を繋げる。
茨華仙の飛び蹴りは、まだ巨獣の眉間をガリガリと抉り続けている。
鮮血が、飛び散っていた。
慧音が吼える。悲鳴、いや怒りの咆哮。
いくつもの、大型光球が浮かんだ。慧音の、妖力の塊。弾幕の発射装置。
それらが一斉に、光弾を放出した。
全てが、茨華仙を直撃していた。
「茨華仙さん……!」
里香は、巨大な機械眼球を担ぎ上げた。両腕で、両肩で、背中で。
人間である。怪力の、妖怪ではない。火事場の馬鹿力にも限界はある。
里香は、すぐに膝を折った。
単眼のみになったイビルアイΩが、少女の細い身体を押し潰しにかかる。
「……壊しちゃって……ごめんなさい、なのですぅ……」
血を吐きながら里香は、己の作品に詫びた。
茨華仙は墜落し、動かない。倒れ伏し、ボロ雑巾のような様を晒している。
そこへ、慧音の巨大な前肢が迫る。
茨華仙が、踏み潰されようとしている。
「……お願い……力を貸して、イビルアイΩ……」
血を、涙を、里香は流していた。
「今、わかったのです……私が貴方を造ったのは、誰かを……守るため……」
重圧が突然、失せた。
茨華仙に負けず劣らずボロ雑巾に似た、1人の女剣士が、里香から奪い取るようにして機械眼球を担ぎ上げている。
「こうして……手動で、狙いを定めれば良いのだな」
「明羅さん……!」
何故ここへ、などと訊いている場合ではない。
巨獣の前肢は、すでに持ち上がっている。倒れ動かぬ茨華仙を、踏み潰そうとしている。
里香は叫んだ。
「イビルアイおめがっっっふぁいやぁあああああああ!」
動力部に即席で組み込んだ音声認識機能が、その絶叫を拾ってくれた。
火花が生じた。
もはや残骸同然の動力部も、ひび割れた単眼も、両者を繋ぐケーブルの束も、激しく振動しながら焦げ臭い火花を発している。
降り注ぐ火花を浴びながら明羅は歯を喰いしばり、機械眼球を掲げ、狙いを定めた。
茨華仙を襲う、巨大な前肢へと。
光が、走った。
イビルアイΩの最大出力解放時には遠く及ばぬ、貧弱なレーザー光。
明羅の担いだ発射装置から弱々しく迸ったそれが、巨獣の前肢を直撃していた。
一瞬、慧音は怯んだようである。茨華仙を踏み潰す寸前であった前肢が、硬直している。尖ったものをうっかり踏んだ、程度の痛みは感じているのか。
そんな微弱な痛みもろとも、茨華仙を踏み潰す。
慧音がその動きをするか、と思えた瞬間。
貧弱なレーザー光が突然、太さを増した。
ボロ雑巾も同然の女性が、もう1人いる。負傷した細身で、イビルアイΩの動力部分にすがり付いている。
全身をバチバチと火花に灼かれながらだ。
「私……の、力を……」
「エリーさん……!」
里香が青ざめている間、明羅も同じ事をしていた。
「里香殿、離れろ! いつ爆発するかわからぬ!」
同じく火花に灼かれながら、担ぎ上げたレーザー発射装置に力を流し込んでいる。
弾幕使い2名の力を流し込まれたレーザー光が、巨獣の前肢を穿ち続けた。
苛立ちの咆哮が、大気を震わせる。
慧音の注意が、こちらに向けられるのを、里香は肌で感じた。
いくつも浮いている光球が、里香と明羅とエリーに狙いを定めている。弾幕の発生装置である光球。
いや。どうやら慧音が弾幕を放つ必要はない。
イビルアイΩの動力部が、単眼が、もはや爆発と言ってよいほど激しい火花を噴射している。
一瞬後には、火花が爆炎に変わる。里香も明羅もエリーも、灼き砕かれて跡形もなくなる。
……否。火花は、消え失せた。
レーザー光も、消え失せていた。
巨獣の前肢が、地面を踏む。地響きが起こる。茨華仙は、踏み潰されたのか。
いや。
「……もらうわ、貴女たちの力」
エリーの傍らに、茨華仙はいた。
爆発もせず力尽きた、かのようなイビルアイΩの動力部に、左手を触れている。
レーザー光あるいは爆発の火花として迸っていた力を、全て。茨華仙は、左手で吸収していた。
吸収したものを、右手から放出しようとしている。己の妖力を、上乗せしてだ。
「茨華仙さん……」
「ありがとう、里香さん。それに……明羅さんに、エリーさん……古き幻想郷の、勇敢なる弾幕使いたち……」
茨華仙が微笑む。
額からは鮮血が、両目からは涙が、流れ落ちている。
「私を助けてくれて……今の幻想郷を、守ってくれて……本当に、ありがとう……」
茨華仙の右腕では、包帯が暴れていた。
「ああ……幻想郷の賢者たる、この私に……貴女たちのために出来る事が、何一つ見つからない……」
ほどけ、膨れ上がりながら暴れる包帯の塊が、やがて巨大な怪物の顎門を形作る。
大口を開いて牙を剥く、龍の頭部であった。
「忘れられた歴史、ではない……存在する歴史の、表舞台で……思う存分、弾幕戦をさせてあげたい……!」
巨獣・慧音が、咆哮を轟かせた。
いくつもの光球が、一斉に光弾を放つ。
容赦のない弾幕が、降り注いで来る。
「……上白沢慧音! 愚かで哀れな歴史喰らいの魔獣! いい加減に己の使命を思い出しなさい!」
茨華仙が叫び、包帯の龍が吼えた。
その咆哮が、光に変わっていた。
明羅の力、エリーの力、イビルアイΩの最後の力。
それらに茨華仙の力が加わり、轟音を伴う光となって、龍の大口から激しく迸る。
「貴女は、古の幻想郷を守らなければならない! ここにいる彼女たちを、守らなければならない!」
茨華仙の右腕が巨大な龍と化し、光を吐いていた。
慧音の弾幕が、その光に灼き払われ全て消滅する。
「……ひどい役目を押し付けたのは私たち、それは確かよ。貴女にしか、出来ない事だから……」
茨華仙の右腕で、龍がなおも激しく光を吐いた。
その光が、巨獣の全身を包み込む。
「同時に存在する事の出来ない、2つの幻想郷! どちらかを隔離しなければ、ぶつかり合い消滅してしまう……貴女がいなければ上白沢慧音、みんな消えてしまうのよ! だから、お願い……どうか私情に走らないで……」
動く丘陵とも言うべき巨体が、光の中で灼け砕け、崩壊してゆく。
イビルアイΩの、動力部も機械単眼も、完全なる残骸と化して沈黙した。
光は消え、巨獣の姿も完全に崩壊・消失している。
荒ぶる龍の形を成していた包帯が、茨華仙の右肩の先でシュルシュルと細腕の形に戻ってゆく。
よろめく茨華仙の身体を、エリーが抱き支えた。
「……私たちの事は、気にしないで」
「我々は……もう、充分に暴れた」
明羅が、ひび割れた巨大眼球をゆっくりと地面に降ろした。
そして目を閉じ、片掌を立てる。イビルアイΩに黙祷を捧げてくれている。
「私は、博麗の力を奪うために全力で戦い、無様に敗れたのだ。博麗の巫女……最強の相手であった。もはや悔いはない」
「私なんて靈夢と魔理沙、両方にボコボコにされたのよ。もう懲り懲り」
エリーが微笑む。動力部の残骸を、愛おしげに撫でながら。
「……引退ね。生きていられただけ、幸運」
「私の最高傑作、イビルアイΩが……皆さんのおかげで、死に花を咲かせる事が出来たのです」
里香は、頭を下げた。
「私も戦車遊び、引退なのです……」
「貴女たち……」
何か言いかけた茨華仙の表情が、引き締まり緊張した。
人影がひとつ、ゆらりと歩み寄って来る。弱々しい足取り。
血まみれの裸身に長い髪をまとわりつかせた、1人の女性である。
「…………まだ……だ……」
刀剣のような角が2本、天に向かって生え伸びている。
「……妹紅を、連れて行かせはしない……返せ……妹紅を、返してもらうぞ茨華仙……」
「私が、藤原妹紅を貴女から遠ざけたわけではないわ。彼女は自分の意思で旅立ったのよ」
里香を、エリーを、明羅を、茨華仙はまとめて背後に庇った。
「月を見なさい。空を飛ぶ三段の筒……もう、見えないかしらね。受け入れなさい、藤原妹紅は月へ行ってしまったのよ」
「そのような歴史、私は認めない!」
巨獣ではなくなった上白沢慧音が、叫んだ。
「創り出す! 妹紅が穏やかに幸せに生きる歴史を、私が創る! 私が創り、私が認めた歴史だけが! 真実の歴史」
煌びやかな光が、慧音を黙らせた。
光の破片を、血飛沫を、大量に飛び散らせて慧音は倒れ、動かなくなった。
弾幕の、直撃だった。
「慧音先生!」
里香の叫びに、慧音は応えない。
代わりのように、声を発した者がいる。
「その妄執、狂気……悪くはない、悪くはないが」
空中。
満月を背景に、その女性は玉座に腰を下ろしていた。夜空に浮かぶ玉座。
「……幻想郷を安定させる装置としては、もはや使い物になるまい。処分すべきであろうと思うが」
優雅に、片手を掲げている。その手から、光弾を放ったところであった。
「君が……とうの昔に、処分を済ませてくれたと思ったのだがな? 茨木華扇」
「……その名で私を呼ぶな、障碍神」
敵意、に近いものが茨華仙の声に宿る。
里香は、目を凝らした。
障碍神、と呼ばれた女性の周囲に、屍のようなものたちが浮かび漂っている。
満身創痍、壊れた人形のような様を晒す8名の少女。完膚なきまで弾幕戦に敗れた有り様である。
悪魔エリス。妖怪オレンジ、吸血鬼くるみ。それに魔界神・神綺の娘たち。
「死なせたのか……貴様」
「さあな。私は、殺すつもりで戦ったが」
茨華仙の問いかけに、障碍神が笑みを返す。
「恐らく死んではいまい。古き幻想郷の、しぶとい妖怪ども……ふん、生命力だけは大したものよ」
禍々しい眼差しが、里香に、エリーに、明羅に向けられる。
「そこの3名、君たちだけは生かしておいてあげよう。他は滅ぼす……古い幻想郷など、要らぬ」
「させない……!」
「守ろうと言うのか、茨木華扇」
障碍神の笑みが、ニヤリと歪みを増す。
「奸佞邪智の悪鬼が……失くした右腕の代わりに、仏心でも芽生えさせたのか?」
ここから出る事は、出来るのだろうか。
西行寺幽々子は、ふと思った。
この得体の知れぬ場所から脱出するための努力を、自分は全くしていないのではないか。
ここから出たい、離れたい。そんな気持ちが一切、起こらなくなってしまうのだ。この天使と、会話をしていると。
様々な事を、死の天使サリエルとは語り合った。話し込んだ。
時を忘れた。あるいは、ここには時の流れなど存在しないのかも知れない。
「その魂魄妖夢という子は面白いな。是非、会ってみたいものだ」
「そうね、いずれ貴女を紹介したいわ。あの子は私の、大切な」
何なのであろう、と幽々子はふと考えた。
魂魄妖夢は、自分の大切な何なのか。従者か、友達か。妹、のようなものか。
何にせよ、と幽々子は思う。妖夢が仮に幽々子を心配し、八雲紫に力を借りたとしても、こんな場所にまで来る事は出来ないだろう。
自力でここから脱出し、幻想郷に、白玉楼に、帰らなければならない。
不可能ではない、ようには思える。
「だけど気の毒だね。その妖夢嬢は、自分の両親を知らないのか」
サリエルが幽々子を見つめ、微笑んだ。
「うふふ……貴女が、母親のようなものかな」
「失礼ね。まあでも、あの子が娘なら」
未婚の母親も悪くはない、と幽々子は思う。
「……妖夢の両親に関してはね、私も知らないのよ。本当は知っていて、忘れているだけなのかも知れないけれど」
自分は本当に、色々な事を忘れている。
以前は、全く気にならなかった。意識するようになったのは、あの異変で博麗霊夢たちに叩きのめされた後である。
「私の傍にいてくれたのは、妖夢の……両親ではなく、祖父……妖忌……」
そうだ、と幽々子は思った。魂魄妖忌は、長らく自分に仕えてくれた。傍に、いてくれた。
自分が、白玉楼という居場所を得る前から、ずっと。
一瞬、黒いものが見えた。
幽々子の影。闇で構成された、幽々子の姿。
「繋がったな」
サリエルが、謎めいた事を言う。
「西行寺幽々子、貴女が失ったもの……失った、と貴女が思い込んでいたもの。実は、ずっと貴女の傍にあったもの。それが今、貴女と繋がった。すまない、私はそれを狙って貴女に昔話をせがんだのだ。過去の記憶に思いを馳せる、それが貴女を……失われたものとの接触へと、導いてくれる。そう思ったのさ」
「私が……失った、もの……」
自分が何を失ったのかは、よくわからない。
それが、しかし存在する事はわかる。
妖忌の顔を、姿を、声を、思い浮かべる度に、それは確かなものとなってゆく。幽々子の中で。
「……私の……どろどろ、したもの……」