第56話 月の姉妹
原作 上海アリス幻樂団
改変、独自設定その他諸々 小湊拓也
太陽の畑に、すっきりと綺麗な青空が戻って来た。
空中全域におぞましく繁茂していた有害植物が、一瞬にして全て刈り取られ、焼却処分されたのだ。
たった1人の、少女剣士によって。
構えた抜き身は、楼観剣を超える長物である。
その一閃で、この少女は全てを片付けて見せた。
比べれば自分の二刀流など、子供が棒切れを振り回しているようなものだ、と魂魄妖夢は思う。
剣士として、格が違う。違い過ぎる。嫉妬すら湧き上がって来ない。
「…………凄い……」
呆然と声を漏らしているのは、霧雨魔理沙である。
「凄い、すごいぜ……あんた一体、何者なんだ?」
「うちの新しい居候、綿月依姫さんよ」
答えたのは、いつの間にか魔理沙の傍に浮遊していた博麗霊夢である。
八雲紫もいた。空中に裂け目を開き、そこから優雅に身を乗り出している。
「私の想定した事態のうち……特に危険なものの1つが、現実化してしまったわね」
口調は、それほど深刻な物ではない。
「……綿月依姫が、力を取り戻す。これは恐ろしい事なのよ、霊夢に魔理沙」
「私の力ではない。八百万の、神々の力だ」
綿月依姫、と呼ばれた少女剣士が言った。
「私は、神霊を依り憑かせる器でしかない。この綿月依姫自身には、何の力もないのだよ。そうだろう? 我が姉上」
どこからか空中に投影されている綿月豊姫の幻像に、依姫は語りかけている。
「貴女には、自身で様々に事を成し遂げる力がある。月の都の政を司り、今や宇宙で最も脆弱な生命体と成り果てた月人という種を強固に守る体制・機構を作り上げ、フェムトファイバーを発明開発したのみならず、これを振るって自ら戦う。私のように、八百万の神々に助力を乞う必要もなく……綿月豊姫よ。幼き日より私がどれほど貴女に憧れ、貴女を尊敬し、貴女を羨み、貴女を妬み嫉んできたものか、いくらかは理解していただけるだろうか」
『……儘ならないもの、よね』
豊姫が、光の繭を愛おしげに抱き締める。
『私は私で、貴女を羨んでいたのよ? 玉兎たちに好かれ、輝夜とも仲良しな貴女が……私、本当に妬ましかったわ』
「……それは、輝夜か?」
『地上の穢れ、幻想郷の穢れから、解き放ってあげたのよ。可愛い輝夜、清らかな輝夜、私たちのよく知る輝夜が、もうすぐ帰って来てくれるわ』
光の繭に、豊姫の美貌が擦り寄せられる。
『ねえ依姫。私たち、お互いに嫉妬をし合っていたのね。けれどそれは、私たちが仲違いをするべき理由にはならないはずよ。戻っていらっしゃい? 姉妹3人、また仲良く幸せに暮らしましょう』
「出来ると思うのか、そのような事」
依姫の口調が、変わってゆく。
「我らの母……嫦娥がな、輝夜の命を狙っているのだぞ。蓬莱人は殺せぬにしても、例えば赤ん坊の状態で永遠に殺し続ける。その程度の事、躊躇う嫦娥ではない」
『渡しはしないわ。母上には、この子を』
豊姫が、光の繭を撫でる。
『私、母上を尊敬している……けれど輝夜に関してだけは、あの方の思い通りにはさせない。輝夜は私が守る。依姫、貴女もよ。母上には私から取りなしてあげる。月の都へ帰っておいでなさい』
「そうですよ依姫様! こんなお馬鹿な戦い、もうやめましょう!」
何者かが、ふわりと空に浮かんで来た。
兎の少女。
鈴仙・優曇華院・イナバ、ではない。
「豊姫様だって、ああおっしゃってます。輝夜様が御無事なら、依姫様にだって戦う理由なんか」
「……おい兎。お前の目は、節穴か?」
藤原妹紅が、言葉を発した。
口調も表情も、穏やかである。だが背中では、炎の翼が激しく燃え盛っている。
「輝夜の、どこが無事だって?」
兎の少女が息を呑み、青ざめる。
依姫が、彼女を背後に庇った。
「……レイセン、もういい。お前は何も言うな」
「……よりひめ……さま……」
「お前たちには本当に、どれほど謝罪をしても詫び足りぬ。事が収束した暁には、私はお前たち玉兎のためにのみ生きよう。だが、その前に……これだけは、済ませなければならない」
切っ先を、依姫は豊姫に向けた。
「幻想郷を滅ぼす……そのような事、私がさせない。お望み通り、月の都へ帰還するとしよう。綿月豊姫、貴様を倒すためにな」
『止めなさい』
豊姫は、命じた。
『綿月依姫の愚行を、命に代えても阻止しなさい。月の都の丞相として命じます……即時、遂行するように』
「……月の都は、私の帰る場所ではなくなってしまいました」
応えたのは、鈴仙・優曇華院・イナバである。
「月の都に、私への命令権を持つ者は存在しないという事です」
『……私たちの下から、巣立ってしまうのね?』
「そう取り計らって下さったのは、貴女ですよ豊姫様」
地上から見上げるリグル・ナイトバグとミスティア・ローレライに、鈴仙は一瞬だけ視線を向けた。
「私の部下を切り刻んだ……貴女は今や私にとって、最大級の敵性体です。許しはしません」
『穢れにまみれて、生きてゆこうと言うのね。その愛らしさで私たち姉妹を大いに癒してくれた、貴女が』
「……レイセン、などと名付けてしまわれたのですね。その玉兎を」
依姫の背中に、控え目にすがり付いて泣きじゃくる兎の少女を、鈴仙はちらりと見やった。
「可愛がってあげて欲しい、と思います……私は今や地上の兎、幻想郷の兎。幻想郷を脅かすものとは、戦います。そして、輝夜様を返していただきます」
『輝夜は、私の妹よ。地上の者どもの好きにはさせない』
豊姫が言った。
『穢れなき輝夜、清らかな輝夜を、私の手で育て上げて見せるわ』
「……お前いい加減にしろ。輝夜はな、お前の玩具じゃないんだよ」
妹紅の翼が、尾羽が、さらに燃え上がった。
「輝夜は……私の、玩具だ。大事な大事な遊び道具、とっとと返してもらうからな」
『……この宇宙で、最もおぞましいものを見つけてしまった』
豊姫の眼光も、燃え上がる。
『無尽蔵の穢れを燃料に、永遠の命の炎を燃やす……地上の、蓬莱人。今すぐ切り刻んであげる。その正視しがたい醜悪な魂、永遠に封印してあげるわ』
『……待て』
もう1人の、幻像の少女が言った。
西行寺幽々子の数多ある好物の1つ、苺を思わせる赤ずくめの少女。
『貴女が向こうへ攻め入るよりも……こちらで迎え撃った方が良い、と私は思う』
『……そう、ね』
豊姫の眼差しが、いくらか穏やかなものになった。
『いいわ、幻想郷の弾幕使いたちよ。月の防衛宙域で、貴女がたを歓待してあげます』
『その宙域で我々は、とある敵と戦ったばかりでな』
苺のような少女が、笑う。
『あれに比べたら……貴様らがどれほど厄介な相手であろうと、容易い戦いだ』
「大きく出たわね、岡崎教授」
風見幽香が言った。
「容易い戦い。それが一体どういうものか……お偉い教授様に、私が教え授けてあげなきゃいけないのかしらね」
『風見幽香、貴様の分身体はまだいくらでもいる。この度の戦闘で良いデータも採れた。それに』
岡崎教授と呼ばれた少女が、この場にいる弾幕使いの1人に眼差しを向けた。
『……カナ・アナベラル。お前は、我らと共に来るのだろう?』
「うん、行くよ夢美ちゃん」
騒霊の少女が、幻像2体と並んだ。
「見つけちゃった。もうひとつ、鳥籠……そこに閉じ込められた、かわいそうな小鳥さん」
自分の事か、と妖夢は思った。
先程この少女は、妖夢に向かって、そんな事を言っていた。
いや。カナの視線は今、博麗霊夢に向けられている。
「気付いてるのかな? ねえ博麗靈夢。この幻想郷っていう場所そのものがね、貴女を閉じ込める鳥籠」
「……黙りなさい、騒霊」
八雲紫の口調が、いくらか剣呑な響きを帯びる。
「霊夢に、おかしな妄言を吹き込まないように」
「妄言ねえ」
霊夢は、苦笑しているようだ。
「あんたが私に何か隠し事してるのはね、薄々気付いているわけよ。ねえスキマ妖怪」
「……妄言の最たるものね。博麗の巫女が、そんな事を言ってどうするの」
「まあいいわ。私、今のダラダラした生活が気に入ってるから昔の事なんか興味ないし」
霊夢がお祓い棒を揺らした。紙垂が、生き物の如くうねった。
「だからね、今の幻想郷を脅かすのは許さない」
『……許さなければ、どうするの?』
「それを教えに行ってあげる」
お祓い棒を、霊夢は豊姫に向けた。
「幻想郷を滅ぼす……その言葉に、変わりはない? 地べたに這いつくばって、吐いた唾を舐め取るなら今のうちよ」
『幻想郷は滅ぶ。これは決定事項』
豊姫は即答した。
『……依姫。貴女の力で、そこにいる者どもを私のもとへ届けて御覧なさい』
『届いた先には私もいる。心しておくのだな』
岡崎夢美が言った。
『……ちゆり、撤退しろ』
「了解っす……悔しいな、何にも出来なかった」
北白河ちゆりが、ふわりと高度を上げてゆく。
「せめて……そこのバケモノと、刺し違えるくらいの事は」
「やめておきなさい。貴女は、生きなければ駄目よ。せっかく生き延びたんだから」
バケモノ、と呼ばれた風見幽香が、応える。
「……岡崎教授を、悲しませないでね」
「バケモノが……人間みたいな口の利き方、しやがって」
この北白河ちゆりという少女は、本気で風見幽香を嫌っている。
一体何をされたのだ、と妖夢は思わなくもなかった。
それはともかく。岡崎夢美が、霊夢と魔理沙を見つめている。
どこからか幻像を投影しているだけ、でありながら、こちらを視認する事が出来る。会話も出来る。
『博麗靈夢、霧雨魔理沙。私は、お前たちの力に……まだ未練がある』
幻像の岡崎夢美と綿月豊姫が、消えた。
北白河ちゆりとカナ・アナベラルも、消え失せていた。
アリス・マーガトロイドが、息をつく。
「ひとまず、この場は終わり……かしらね」
「……そいつは、どうかな」
魔理沙の言う通りであった。
幽香が、依姫と対峙している。
「促成栽培の粗悪品、とは言え……私の分身たちを、随分あっさり片付けてくれたものね」
「魂のない、単なる有機物の塊。今の私なら、あれらの1つ1つに八百万の神々を宿らせる事が出来る」
依姫が、興味深げに幽香を見つめる。
「そんな事をしても……貴女1人に、勝てないでしょうね」
「私に、勝ってみる?」
微笑む幽香の面前に、レイセンが立った。両腕を広げ、依姫を背後に庇っている。
青ざめ、震えている。涙目で、幽香を見据えている。
「あら……貴女、生きていたのね」
幽香の笑みが、にこりと歪みを増した。
「悪くない生命力……太陽の畑の肥やしくらいには、なるかしらね」
レイセンは応えない。震える歯を、かちかちと鳴らすだけである。
依姫が、レイセンを掴み戻しながら前に出た。
「私の部下に、手を出す事は許さない……」
口調を変え、間近から幽香を睨み据える。
「私と戦いたいなら、戦ってやる。貴様のような穢れの塊、生かしておくにはあまりにも危険……そこは私も、姉と同意見でな」
「そう……それなら、排除してみてはどう?」
「動かないで」
鈴仙・優曇華院・イナバが、幽香に人差し指を突き付けていた。
「依姫様への無礼、玉兎への暴虐……共に、許さない」
「鈴仙……」
依姫の声に、懐かしさが滲んだ。
「……久しいな。私は、お前が本当に……逃亡したもの、と思っていた」
「逃亡兵を装って永遠亭に入り込み、八意永琳を暗殺する……今思えば馬鹿げた作戦ですけど、あの時の私は成功させる気満々でしたから」
鈴仙が苦笑する。
「輝夜様を守るために……依姫様は、嫦娥様に叛旗を翻してしまわれた」
「私も、成功させる気は満々だった」
「……私がいれば、命に代えても成功させていましたよ。その叛乱」
鈴仙は微笑み、その笑顔をすぐに引き締めた。
「結局、何ひとつ成功はしなかったにしても。こうして再び依姫様にお会い出来た以上、私が為すべき事は1つ……風見幽香、だったわね。依姫様から離れなさい。玉兎を傷付ける事も許さない」
「あああああああああああもう、何やってるかなこの隊長は」
ミスティア・ローレライとリグル・ナイトバグが、飛んで来た。
「そーいうとこが駄目だって言ってんの。ほんとは気が弱いくせに意地張って、喧嘩売っちゃいけない相手にまで突っかかっちゃう。命いくつあっても足りないよ? そんなんじゃ」
「ごめんなさい幽香さん、どうか鈴仙少尉を許してあげて下さい」
リグルが、頭を下げている。
「この人、色々な事があり過ぎて今ちょっと冷静さを無くしているんです。かわいそうな鈴仙隊長のする事、どうか大目に見てあげて下さい」
「かわいそうって言うなぁあ!」
激昂する鈴仙を、ミスティアが掴んで引きずり、幽香から遠ざける。
依姫が、溜め息をついた。
「風見幽香、貴様は……自分が最強でなければ、気が済まんのか」
「妖怪は、そういうものよ。ねえ? 蟲のリグル・ナイトバグ」
幽香の容赦ない細腕が、リグルを無理矢理に抱き寄せる。
「ひぃ…………」
か細い悲鳴を漏らすリグルの耳元で、幽香は囁く。
「貴女だって、最強の弾幕使いを目指しているのよね? いずれは霊夢にも魔理沙にも勝つのよね? 藤原妹紅も、紅魔館の吸血鬼をも倒して、もちろん私なんか一撃で蹴散らして、ついには幻想郷に君臨する。最強の妖怪として……その野望、ずっと温めているのよね? この可愛らしい胸の中で。妖怪は、そうでなければいけないわ」
青ざめ震えるリグルを助けるように、依姫が言う。
「くだらんな。ただ自己顕示欲を満たすためだけの戦いに明け暮れる、それが幻想郷の人妖どもの愚かしきところ……だが、我ら月人には」
俯き、微かに唇を噛んでいる。
「そのようなものが……必要、だったのかも知れん……」
「どうするんだ、綿月依姫」
魔理沙が問いかける。
「私らが今からやらかす、くだらない戦いに……あんたは、力を貸してくれるのかな」
「……やらせてもらう」
依姫は答えた。
「住吉三神を降ろせば良いのだな? 今の私なら、出来る」
「そう……貴女がそれをしてくれれば私たちは、あのロケットで月に向かう事が出来る」
八雲紫が言った。口調が、いささか重い。
「航行中、貴女には住吉様への祈祷に専念してもらわなければならない。つまり」
「今の連中が迎撃に出て来た場合、依姫さんは戦いに参加出来ないと。そういうわけね」
霊夢が言った。
「さすが……考えてるわね、綿月豊姫」
「花の風見幽香、貴女はどうなのかしら?」
紫が、幽香を見据えた。
「貴女が私たちに同行してくれれば、大いに助かるのだけど」
「……私は私で、勝手にやらせてもらうわ。あまり期待はしないように」
リグルの細身を弄り回しながら、幽香は言った。
「境界の八雲紫……そろそろ本気を出しなさい。私なんて必要ないほどの力、貴女にはあるはずよ」
「……私に対するいじめが、続行中というわけね」
「確かに……風見幽香には、勝手に動いてもらった方がいいかも知れないわね」
アリスが言い、そして幽香から妹紅へと視線を移した。
「……貴女はどう? 私たちと一緒に来てくれる、という事でいいのかしら」
「行くさ。ただ……」
落ち着きなく、妹紅は見回している。誰かを捜しているようだ。
「慧音……おーい、慧音! どこへ行ったんだ……」
「立ち去ったわ。プリズムリバー姉妹に運ばれて、ね……駄目よ、追いかけては」
妺紅の腕を、アリスは掴んだ。
「藤原妹紅、貴女では……上白沢先生を、どこかへ閉じ込める事しか出来ないわ。それも、美しい事だとは思うけれど……」