第52話 白楼剣は妄執を断つ
原作 上海アリス幻樂団
改変、独自設定その他諸々 小湊拓也
ルーミアと矢田寺成美が、畑仕事をしている。あるいは、させられている。
両名とも作業服を着せられ、まあまあ手際良く農具を使っていた。
その様子を眺めながら、アリス・マーガトロイドは問いかけた。
「……強制労働? 虐めているのでは、ないでしょうね」
「そんな非効率的な事はしないわ。2人とも自分の意思で、素晴らしい仕事をしてくれているところよ」
テーブルの向こうで、風見幽香が微笑んでいる。
「幻想郷の妖怪は皆、義理堅い子ばかりで助かるわ」
「……貴女に借りを作る。これほど恐ろしい事は、ないものね」
振る舞われた紅茶を、アリスは静かに啜った。
「死に物狂いで働いて返してしまおう、とは思うでしょうね……美味しいわ、このお茶」
「無警戒ね。毒が入っている、とは考えないの?」
「貴女が? 私に毒を?」
アリスは笑って見せた。
「そんな回りくどい事をしなくても……貴女がその気になれば私なんて、どうとでも出来るでしょうに」
「そうね。私の思うがままにされる覚悟があって、貴女はここへ来た。そう判断させてもらうわよ」
幽香の笑顔が、いくらか剣呑な翳りを帯びた。
太陽の畑。風見幽香の自宅。
その庭で、アリスは茶の饗応を受けていた。
「……なけなしの勇気を振り絞った事は褒めてあげる。よく来たわねアリス・マーガトロイド。私に何の用?」
「まずは、お礼を言わせてもらうわ」
楽しげに畑仕事をしている2人を、アリスは見やった。
「ルーミアと矢田寺さんを……私を、魔理沙を、助けてくれた事。本当にありがとう」
「その4名、全員の運が良かったというだけの話よ」
幽香も、紅茶を飲んだ。
「……特にアリス。貴女はね、私に殺されていてもおかしくはなかった。魔理沙たちに助けられたのは確かだろうけれど、その幸運を貴女は自力で掴み寄せたのよ」
「幸運……そうよね。私は運が良かった。それが、いつまで続くものか……」
アリスは、空を見上げた。
「……いい、お天気よね。永い夜がようやく明けて、太陽が張り切っているように見えるわ。一体、誰が……あの夜を、終わらせてくれたのかしら」
「夜は、いずれは明けるものよ」
「あれは、自然に明けるような夜ではなかったわ」
アリスは、じっと幽香を見つめた。
「私たちが迷いの竹林で、結局は何も得られずにいた間……誰かが、独自に動いてくれたのね」
「誰かが好き勝手に動いた結果、別の誰かが得をしたり損をしたりする。珍しい事でもなし」
「貴女にはね、私たちが大いに得をするよう動いて欲しいわ」
アリスは言った。
「風見幽香……私たちに、力を貸してくれないかしら」
「私に借りを作るのは恐いと、貴女言ったばかりよ?」
「後で、どれほど恐い目に遭ったとしても。今、切り抜けなければならない危機が迫っているのよ」
綿月豊姫との戦い、だけては済まないだろう。
あの『死の天使』のような戦力を、彼女が他にどれほど保有しているものか、現時点では皆目見当も付かない。
ともかく豊姫は宣言したのだ。幻想郷を滅ぼす、と。
脅しで済ませてくれるような相手ではない。それだけは、あの戦いで理解出来た。
「……そうねアリス。今、貴女に危機が迫っているわ」
幽香が、いつの間にか傍らにいた。
綺麗な指が、アリスの端整な顎に優しく絡み付く。まるで蔓草のように。
「私に頼み事をする……それが一体どういう事なのか、教えてあげるのもいいわね」
微笑む美貌が、アリスを見下ろす。
呆然とする自分の間抜け顔を、アリスは幽香の瞳に見た。
「私が、どんな見返りを要求しても……貴女、拒む事は出来ないのよ」
美しい唇が、そんな言葉を紡ぎながら迫って来る。
アリスの唇へと。
幽香のたおやかな片手を、アリスは振りほどく事が出来なかった。
「……貴女は一体、どんなお花を咲かせてくれるのかしらね。アリス・マーガトロイド」
「こら」
声がした。
「こらこらこらこらこら」
「こらー」
成美とルーミアが、歩み寄って来たところである。
「外道破廉恥妖怪が、また破廉恥な事をしようとしている。駄目よ」
「神綺様、じゃなかったアリス。久しぶりー」
ルーミアの脳天気な笑顔を見るのも、確かに久方ぶりではある。
アリスの顎から、幽香の片手が離れて行く。果たして冗談であったのかどうかは、わからない。
ともかく、アリスは言った。
「……帰っていらっしゃい、ルーミア。こんな所にいたら、命がいくつあっても足りないわよ」
「残念。この子はちょっと、手放せないわね」
言いつつ幽香が、ルーミアを抱き寄せる。
優美な細腕と豊麗な胸にしっかりと拘束されたまま、ルーミアは微笑み、引きつり、青ざめている。
成美が、話しかけてきた。
「貴女が無事という事は、魔理沙も無事ね」
「無事というほど無事ではなかったけど、まあ生きているわ。私も、魔理沙も」
アリスは立ち上がった。
「……貴女のおかげよ、矢田寺さん。本当に」
「成美でいいわよ、アリス」
頭を下げようとするアリスを、成美は片手を上げて制した。
「何だか忙しく動き回ってるみたいね、貴女も魔理沙も」
ルーミアをいじり回している幽香に一瞬の視線を向けながら、成美は声を潜めた。
「……あの外道妖怪もね、まあ忙しくしてはいたのよ。貴女の見立て通り、夜を終わらせたのは幽香。具体的に何をしたのか私は知らないけど」
「そう、やっぱり……」
もう1度、アリスは空を見つめた。
当然、月など見えはしない。
代わりに、見えたものがある。
何者かが、空を飛んでいる。いや、落ちて来る。
どこからか、吹っ飛ばされて来たようだ。
このままでは、太陽の畑に墜落する。風見幽香の目の前でだ。
恐ろしい事になる。
幽香が、そちらを見上げた。
彼女の妖力が、空中で花開いた。
巨大な、向日葵であった。
盾の形に咲いた向日葵に、吹っ飛んで来た何者かが激突して跳ね返る。
そして畑の中ではなく、アリスの傍に墜落して地面に埋まった。
「うっぐぐ……いてててて」
人間の形をしているが明らかに妖怪とわかる娘が、土の中から身を起こした。
「何だ……助けてくれたんじゃ、ないのか……」
「助けたわよ。向日葵をね」
事もなげに、幽香は言った。
「……空中で貴女を、原子の霧に変えてあげても良かったのよ?」
「何だおい……うちのお嬢様に負けず劣らず、やばそうなのがいるな」
苦笑しながら、その牝妖怪が土を払い落とす。
アリスと、面識はある相手である。
「貴女……紅魔館の、肉体労働者」
「紅美鈴という。お前さん、確か霧雨と友達の」
「アリス・マーガトロイドよ。貴女は一体……いえ、説明は要らないわ。状況は、何となく把握出来た」
空中で、弾幕戦が繰り広げられていた。
弾幕戦そのものが、どこからか太陽の畑の上空へと流れて来たのだ。
「あっ、アリス! すまん、助けてくれ!」
霧雨魔理沙が、こちらに気付いた。声を発しながら魔法の箒を操縦し、回避に忙殺されている。
1人の少女が魔理沙を、逃走にも等しい回避に追い込んでいた。
「うふ、うっふふふふ……弾幕使いが、いっぱいいる」
青と白を基調とした衣服は、アリスが人形たちに好んで着せるものと感じが似ている。いくつものフリルが、軽やかにはためく。
可憐な人形が、そのまま人間と化したような美少女。だが人間ではない。
魔理沙が魔法の箒にまたがっているように、その少女は、飛翔する道路標識に腰掛けている。
そして、無数の光弾をばら撒いている。
「みんな、やっつけなきゃ……私、また忘れられちゃう」
その少女は、吹き荒れる弾幕の嵐の発生源であった。
幽香が見上げ、微笑む。
「みんな、やっつける……そこには私も含まれるのかしら? ねえ、可愛いお嬢さん」
「もちろん! みんなで、弾幕戦やろう!」
「おい馬鹿やめろ、手を出していい相手とダメな相手の区別もつかないのか」
魔理沙が、悲鳴に近い声を上げる。
魔理沙だけではなかった。謎めいた少女の巻き起こす弾幕の嵐に、他にも何人かの弾幕使いが巻き込まれている。
魂魄妖夢もいた。
襲い来る光弾の雨を、大小の抜き身でことごとく斬り砕き、鮮やかな防御の二刀流を披露している。防戦一方である、とも言える。
そして。
「カナ・アナベラル! 余計な事をするな!」
怒声を発しているのは、寺子屋の女教師・上白沢慧音である。
「戦う以外に何もない、ただ血生臭く焦げ臭いだけの弾幕使いの歴史に! 妹紅を引きずり戻そうと言うのか貴様も!」
自身も大量の光弾を放出しながら、慧音は1人の少女を背後に庇っている。
藤原妹紅、に見える。
おかしい、とアリスは感じた。
藤原妹紅は、こんなふうに庇われる事を肯んじる弾幕使いであったろうか。
「やめて……輝夜も慧音も、もう……やめてくれよう……」
慧音の背中にすがりつき、泣きそうな声を発する妹紅。
その様を見て、アリスは全てを理解した。
「そう……以前の私と同じ所へ、貴女も流れ着いてしまったのね。藤原妹紅……」
悪霊だ、と魂魄妖夢は思った。
無論、悪意と呼べるようなものを持っているわけではない。
ただ、その力がひたすら強大。存在するだけで、人間に災いをもたらす。
人間にしてみれば、悪霊と呼ぶしかない。
西行寺幽々子と、同種の存在。それが、この少女だ。
「……カナ・アナベラル、というのだな。お前」
吹きすさぶ弾幕の嵐を双刀で切り裂きながら、妖夢は語りかけた。
「見ただけで、わかるぞ。お前は、ただひたすら戦いを……弾幕戦を、求めている。己の存在を確立する手段として」
「……弾幕戦をしない弾幕使いって、何?」
カナ・アナベラルは言った。
「飛べない鳥と、おんなじ……ううん。鳥は、飛べなくたって走る事が出来るわ。駝鳥さんディアトリマちゃんみたいに。でも弾幕使いは、弾幕戦やらなかったら……何が出来るの? 何にも出来ない。誰にも、覚えてもらえないよ」
「……その考え方、その心……まさに」
妖夢は見据えた。
上白沢慧音の背中にすがりつき、震えている、藤原妹紅の姿を。
「今の、あやつに……最も必要なもの、なのかも知れん」
「そういうものから、私は妹紅を解放する」
慧音が、妖夢の眼差しから妹紅を庇う。
「妹紅を、もはや戦わせるものか。立ち向かわせるものか、立ち直らせるものか!」
「上白沢慧音。お前は藤原妹紅を、ある場所からは確かに解放しようとしているのだろう。そして、もっと狭い場所に閉じ込めようとしている」
カナと慧音、両者の弾幕がぶつかり合い、砕け、混ざり合いながら押し寄せて来る。
それを妖夢は、右手の楼観剣で斬り砕いた。
そうしながら、左手の白楼剣を慧音に向ける。
「捨て置けぬ、その妄執……この白楼剣で、断ち切ってくれよう」
「狭い場所で一向に構わん。広がりのない、どこへも繋がらぬ、閉じた歴史で一向に構うまい。どこに問題がある!」
慧音の両眼が、ぎらりと不吉な輝きを孕む。睨み据える妖夢の視線を、跳ね返し粉砕する眼光。
「魂魄妖夢、お前にもあるはずだ。お前だけの歴史。お前にとってのみ都合の良い歴史が……な。隠す事はない、恥じる事もない」
太陽の畑の、上空。
その風景が、溶けてゆく。妖夢は見渡し、見回した。
慧音の姿は見えない。ただ、声は聞こえる。
「そこから出て来る必要もない……出て戦えと、困難に立ち向かわねばならぬと、誰が決めた? 誰が命じたのだ? そんな声に流されてはいけない。帰りたまえ魂魄妖夢……君だけの、歴史へと」
桜吹雪が、見えた。
空中に佇んでいたはずの妖夢であるが、いつの間にか着地している。
太陽の畑……では、なかった。
咲き乱れているのは、向日葵ではなく桜である。
妖夢は、見上げた。
巨大な骸骨、のようなものが見えた。
桜の風景を睥睨する、裸の巨木。花も葉もない枝が、天空のあらゆる方向に伸びている。
「……散って、しまったわね。妖夢がせっかく、あそこまで咲かせてくれたのに」
声をかけられた。
懐かしい声、懐かしい気配。
懐かしい、白玉楼の庭園に今、妖夢はいた。
「ごめんなさいね妖夢……貴女の頑張りを、無駄にしてしまった」
「……私は、何も」
白玉楼の主が、隣に佇んでいる。
当然である。ここは白玉楼なのだから。
「あれは……結局、咲かせてはならない桜だったのでしょう」
「私には、まだ未練があるわ」
西行寺幽々子が、寂しげに微笑んだ。
「貴女が断ち切ってくれたはずのものを、私……手放せずにいる……」
「幽々子様……」
何度でも、断ち切って差し上げます。そう応えるべきなのか。
「……妖夢、助けて」
幽々子が、震えている。
「このままでは私……西行妖の操り人形に、戻ってしまう……」
「未練……良いと、思いますよ」
妖夢は、そっと幽々子に身を寄せた。
「手放し難い思い……いくらでも、お抱き下さい。大丈夫、妖夢がおります。幽々子様を、何かの操り人形になどさせません」
「妖夢……」
「私がお側におります限り、貴女は幽々子様でいらっしゃいます。死せる桜の操り人形でなど、あるものですか」
妖夢が腕を広げると、幽々子はふわりと倒れ込んで来た。
抱き締める。
幽々子の方からも、たおやかな細腕を回してきた。豊かな胸を、押し付けてきた。
「妖夢……ぅ……っ」
涙の煌めきが、飛散しながら蝶々に変わり、白玉楼主従を取り巻いて舞う。
「どうか……ご安心下さいませ……」
妖夢は、幽々子をしっかりと抱き締めた。
主の耳元に、語りかけた。
「必ず……お助けいたします、幽々子様……」
「よ…………うむ…………」
幽々子の声が、身体が、もう1度、震えた。
手応えを、妖夢は左手で握り締めた。
白楼剣。
幽々子の胸に、深々と突き刺さっている。
「すぐに、参ります……」
言葉と共に、妖夢は抉った。
幽々子の身体から、力が失せてゆく。
呆然と見つめてくる美貌を、妖夢は見つめ返した。
「しばしの、お別れ……月で、お会いしましょう。幽々子様……」
白楼剣を、妖夢は引き抜いた。
幽々子が、砕け散っていた。幻影の飛沫が、キラキラと飛散して消滅する。
白玉楼庭園の風景も、消滅していた。
「馬鹿な…………」
上白沢慧音が、呻いている。
太陽の畑・上空。弾幕戦の真っただ中に、妖夢は帰還していた。
「何故だ、魂魄妖夢……お前の、お前だけの歴史を……何故、拒絶する? 望まぬ歴史に何故、立ち向かおうとする……」
「……口を開くな。言葉を吐くな。黙って死ね」
どす黒いものが、妖夢の中で燃え上がる。
その炎が溢れ出し、楼観・白楼の二刀に宿る。
「白楼剣で妄執を断つ……のは、やめておく。貴様はこちらの楼観剣で叩き斬る。腐り果てた脳髄を、撒き散らすがいい」
燃え盛る2つの刃を、妖夢は振るい構えた。炎の弧が、2つ生じた。
「私も今まで、それなりに戦いを経験してきた……これほど虫唾の走る弾幕使いは、見た事がない」
半霊が燃え上がり、妖夢を取り巻いて飛翔しながら火の玉と化した。
「上白沢慧音……貴様を、生かしてはおけぬ」