第48話 パンデモニウムより見つめる者
原作 上海アリス幻樂団
改変、独自設定その他諸々 小湊拓也
美しく豊かな胸を揺らし、綺麗な腹筋を柔らかく捻り、形良い太股と白桃のような尻を躍動させて、綿月依姫はあの時、舞い踊った。
束ねた髪を振り乱す、裸身の美しさ。
レイセンの脳裏で、心で、目蓋の裏で、いつでも再生出来る。
戦闘訓練中に依姫が、うっかり天宇受売命を拾ってしまったのだ。
玉兎たちは慌てふためき、右往左往した。
やがてイーグルラヴィの2人が楽器を持ち込み、雰囲気たっぷりの楽曲を奏でた。それに合わせて、依姫は裸で踊り続けた。
玉兎たちは熱狂し、レイセンは鼻血が止まらなかった。
あの時と同じだ。依姫は、またしても神を拾ってしまったのだ。
神霊の依り憑く月の姫であるから、それは仕方がない。
「出て行け」
依姫を睨み、レイセンは言い放った。
そこにいるのは、確かに依姫である。綿月依姫の美しい肉体が、確かにそこにある。きちんと服も着ている。
その衣服に、禍々しい呪いの言葉が浮かび上がっていた。美しく膨らんだ胸で不吉に発光する、謎めいた文字。
口にした者を地獄へ落とす、悪しき呪文に違いない。
そんな事を思いながら、レイセンは言った。
「……依姫様から、出て行け」
『今、私が出て行ったらねえ。この子、生ける屍にしかならないわよん?』
依姫の美しい唇から、依姫の美しい声が流れ出す。
だがそれは、依姫の言葉ではない。
天宇受売命とは異なる、禍々しく不吉極まる何者かが、依姫の神聖なる声帯を奪っているのだ。
『もう疲れちゃったのよね、きっと。月はあんな有り様だし。休ませてあげなさいな、一万年くらい……その間、私がこの子の身体をしっかりケアしてあげる。もっともっと綺麗にしてあげる』
「ふざけるな! 依姫様を返せぇえええっ!」
レイセンは叫ぶ。
依姫の中にいる何者かが、静かに言う。
『……返せ、と私に言うのね。玉兎が……綿月依姫を』
昂ぶっていたレイセンの心が、一気に冷えた。
『貴女たち玉兎が……この子に一体、何をしてあげられるの?』
「わ……私は……」
『……ちっぽけな玉兎よ、答えなさい』
依姫の両眼が、レイセンの肉体を穿って心に突き刺さる。
『私との問答に、だんまりは許しません』
依姫の瞳から放たれているのは、依姫の眼光ではなかった。
何者かが、依姫の中からレイセンを見据えている。
その眼光が、レイセンの心を抉り砕きにかかる。
砕かれる寸前、レイセンは宙に浮いた。抱き上げられていた。
獣人の少女の、剛力でだ。
「貴女ね……命知らずは、かっこいい事じゃないのよ?」
今泉影狼が、レイセンを背負い、駆けていた。迷いの竹林の中を、凄まじい速度で。
依姫の姿は、もはや見えない。
「ああいうのが出たらね、一目散に逃げる。他に選択肢なんて無いんだから」
「私……」
影狼の背中にすがり、なびく黒髪に顔を撫でられながら、レイセンは呆然と呟いた。
「……言われなくても、わかってる……私なんて、依姫様のお役に……全然、立ってない……」
自分は何か。綿月依姫にとってレイセンとは、いかなる存在なのか。
それを、依姫自身の口から問いかけられた。
依姫に憑いている、得体の知れぬ神の言葉なのか。
いや。依姫の心の奥底にあるものが、あの神によって引き出されたのではないのか。
お前は、どのように私の役に立つと言うのだ。この無能な兎が……と。
「お前は役立たずだ、って……私、依姫様に言われた……」
「私、依姫様って人の事は知らないけど。言ってもない事、本当に思ってるかどうかもわかんない事、捏造しちゃ駄目だと思うわよ」
レイセンを背負って走りながら影狼が言い、吼えた。
光が、影狼とレイセンを包み込んでいた。
巨大な狼の形をした光。影狼の妖力が、溢れ出し形を成したものだ。
竹林を駆ける光の狼の中に、影狼とレイセンはいる。
「この竹林って……うかつに動き回ると、迷うのよね」
レイセンは訊いた。
「こんなふうに走って、大丈夫なの?」
「大丈夫なわけ無いわ。道なんか、とっくにわかんなくなってる。私、自分の家に帰れない」
影狼は、苦笑した。
「それでもね、あれの目の前に居続けるより、ずっとまし。ねえレイセンさん、私よくわからないけど……あの人って依姫様、じゃないのよね?」
「……何かが、依姫様に取り憑いている。あの御方はね、そういう体質なの」
「それは難儀」
言いつつ影狼は、ゆっくりと速度を落とし、立ち止まった。
「……ここまで逃げれば大丈夫でしょう。迷いの竹林だもの、どんな妖怪だって神様だって、私たちを見つけられないわ」
確かに、依姫が追って来る気配はない。
逃げおおせた結果、しかし自分たちは迷ってしまった。太陽の位置で、方角くらいは把握出来ないものか。
レイセンは、影狼の背中から下りて空を見上げた。
空は、赤かった。太陽が見当たらない。
「え……何これ、また紅い霧……?」
影狼が、そんな事を言っている。
レイセンは、言葉を発する事も出来なかった。
赤い空。それは巨大な、赤い瞳であった。
太陽よりも巨大な瞳に、呆然と見上げるレイセンと影狼の顔が映っている。
幻想郷、全ての人妖が映っている。
この惑星に棲まう、全ての生命が映っている。
惑星の全てを、この赤い瞳は見つめている。
レイセンも影狼も、抱き合うようにして、その場にへなへなと座り込んでいた。
赤い瞳の何者かが、片手に持った惑星を注視している。
惑星上の全てを見て把握しながら、特に幻想郷……迷いの竹林に、容赦のない眼差しを注いでいるのだ。
睫毛が1本、舞い落ちて来ただけで、幻想郷は潰れて滅ぶ。自分たちなど、跡形も無くなる。
レイセンは、そう思った。
「貴女にはね、また臨時のメイド長をしてもらう事になるわ。しばらくの間」
「迷惑なんですけど……」
そんな事を言いながらも、大妖精は働いてくれる。妖精メイドの群れを、動かしてくれる。
小悪魔も、パチュリー・ノーレッジの命令に対し一層、粉骨砕身するようになった。
紅美鈴に魂魄妖夢という、有能な肉体労働者もいる。
結果。紅魔館の地下図書館内に、巨大なものが出現した。
十六夜咲夜は見上げ、呟いた。
「これが……三段の、筒」
歪んだ塔。一言で表現すれば、そうなる。
小さめの住宅ほどもある、円筒形の建造物が3つ、重なってはいるが食い違っており、まるで崩れかけた達磨落としのようでもある。
紅魔館という巨大城郭の内部に、もう1つの館あるいは砦とも言えるものが建造されたところであった。
「大ちゃん、大ちゃん! すごいぞ、これ『ロケット』っていうんだって!」
はしゃぐチルノを、ぬいぐるみのように保持したまま、フランドール・スカーレットが空中から降りて来る。
「これで空飛んで、月まで行くんだって! フランのお姉ちゃんは、妖精でも思い付かない事を考えるんだ。すごいよ!」
「……私、褒められたのかしらね。それとも馬鹿にされたのかしら」
苦笑しつつレミリア・スカーレットが、近くのテーブルで優雅に紅茶を飲んでいる。
太陽の光で灼かれた身体は、とうの昔に完治した。可憐な美貌が、建造されたばかりのロケットを見上げる。
「月に行く……馬鹿にされて当然の話、ではあるけれど」
「馬鹿にしてない。あたいも行きたい。フランだって、行きたいよなー?」
可愛らしい細腕でチルノをがっちりと確保したまま、フランドールは相変わらず何も言わない。
ロケット建造の総括者であるパチュリー・ノーレッジが、しずしずと歩み寄って来た。
「感謝するわ、氷精チルノ。ロケット各部の冷却システムは、貴女のおかげで完成したと言って過言ではない」
「ふふふ。あたいの最強ぶりが、ここでも活きたか」
「……だけど、月に行くのはやめた方がいいわ。貴女たち妖精が不死身でいられるのは、幻想郷の自然があっての事だから」
「物は考えようだ、パチュリー・ノーレッジ」
魂魄妖夢が、ふわりと傍らに降り立った。
「私はこのチルノが、月の兵士の大軍を相手に単身で凌ぎきったところを見た。月に住まう者たちは……恐らく、幻想郷の妖精と相性が悪い。自然や生命というものを弱点としているように思えた。妖精を、月に連れて行けば」
「幻想郷の自然が、月に及ぶ」
レミリアが、興味深げに言った。
「月を侵略するという意味では、良いかも知れないわね」
「……月を侵略、か」
妖夢が、遠くを見つめたようだ。
「スカーレット姉妹の馬鹿げた戦闘能力は大いに認めざるを得ない。が……お前たちは、あの綿月豊姫を知らない」
「霊夢や魔理沙が束になっても勝てなかったという相手。会うのが楽しみね」
レミリアが、空になったティーカップを置いた。
「……先の異変の首謀者とも、会ってみたかったところよ魂魄妖夢。お前の主人が月の都に囚われたというのは、本当?」
「……私は、幽々子様を助けに行きたい」
俯き加減に、妖夢が答える。
「紅魔館が総出で取り組む、この計画に……どうか私も、便乗させて欲しい。兵卒として、いくらでも働く」
「人妖たちの様々な想いを乗せて、このロケットは月を目指すのね」
「……あの、レミリアお嬢様」
美鈴が、レミリアの傍らで長身を屈める。
「この戦いに、何としても参加させたい奴が1人いるんです。私の、個人的な思いなんですけど」
「個人的なお友達が妖精以外にも出来たのねえ美鈴。誰の事なのか、何となく思い当たるわ」
思い当たる者が、咲夜にも1人いる。
その者は美鈴を打ち負かし、レミリアと互角の戦いを繰り広げ、フランドールに殺された。
殺されたはずだが、生きている。いや、今は死んでいるに等しい状態にある。
「どうなの? パチェ。搭乗予定の人員が、この先も増えてゆく事が予想されるけど……このロケット、問題なく飛ぶのかしら」
「動力機関を務める巫女、次第ね」
パチュリーは言った。
「……正直、霊夢では不安よ。神降ろしの得意な巫女に心当たりがある、とは言っていたけれど」
「霊夢は……ふふっ。弾幕戦はともかく、神降ろしが駄目なのねえ」
「……あやつは、自力で戦う才能の塊だ。神に頼る、という事が出来ない」
妖夢が呟く。
「幽々子様を助けるため、には戦ってくれないかも知れん。だが幻想郷を守るためなら……うん? どうした、パチュリー・ノーレッジ」
パチュリーが、帽子の上から頭を抱え、膝をついていた。
その細身を、美鈴が抱き支える。
「パチュリー様!? ちょっと、まさか体調が! また!」
「……違うわ。永遠亭の方々が、私に施してくれた処置は……完璧よ」
パチュリーが顔を上げ、ロケットを見つめる。
いや。この場にはない巨大な何かを、見上げているようでもある。
「…………いらっしゃる、のですね……幻想郷に……」
声が、震えている。
「御不興、でございましょうか……地球を司る御方、異界を司る御方……月を、司る御方よ……御身の聖域を穢す行い……事が済んだ後、この愚かしきパチュリー・ノーレッジが御裁きを、神罰を、賜ります。今は……どうか、お見逃しを……御容赦を、御寛恕を……全宇宙の、魔法の長よ……どうか……」
博麗霊夢が、仕事をしている。
幻想郷を守る、博麗の巫女としての仕事をだ。
「何と言うか……あれなんだよなあ」
帽子の上から、霧雨魔理沙は頭を掻いた。
「霊夢はさ、神社でダラダラ過ごしてるのが……幻想郷が平和だっていう証なんだよな。あいつが忙しく動き回るっていうのは、ヤバいって事だ」
「あの綿月豊姫は、確かに危険な相手よ」
アリス・マーガトロイドが言った。上海人形を、高麗野あうんの頭上でぴょこぴょこ踊らせながら。
「月には……彼女と同等以上の戦力が複数、存在しているかも知れない。それらが幻想郷に一斉攻撃を仕掛けて来る、となれば」
「ひたすら守りを固めるか……こっちから攻め込んで、徹底的に叩く。いや両方、同時進行でやる必要があるか」
「あの、魔理沙さん」
あうんが言った。上海人形が、角の頂点で爪先立ちをしている。
「……月へ行くって、本当なんですね」
「信じられないよな? 私もそうだぜ。紅魔館で造ってるやつ、見に行ったけどさ。レミリアもパチュリーも、本気なんだよな……本気でアレを、月まで飛ばそうと考えてる」
「……不可能、ではないと思うわ」
あうんの頭上、上海人形にバランスを取らせながら、アリスが言った。
「あれは、神を宿らせるための器よ。航海を司る神……上手く、召喚する事が出来れば」
「……なるほど。月まで行くのは航海、か」
幻想郷に、海は存在しない。
だが海という単語を、多くの人々が知っている。
「神様を降ろせる巫女さんがいます。霊夢さんは、その人を捜しに行きました」
「ああ。一生懸命、捜し回ってるみたいだな」
魔理沙は苦笑した。
「自分で神様を降ろそうって発想は根本からないんだよな。まったく、あいつ弾幕戦は馬鹿みたいに強いけど神降ろしは全然」
あうんの頭上から、上海人形が転げ落ちた。
「……アリスさん?」
転げ落ちた人形を、あうんが抱き上げる。
アリスは、人形を操るどころではなくなっていた。
「……誰? 貴女は……っ」
軽く頭を押さえ、呻いている。
「またしても、私たちにっ……一体、何だと言うの? 貴女は、私たちにとって……」
アリスが誰に問いかけているのか、魔理沙にはわかった。
自分も今、その何者かの存在を感じたのだ。
全ての魔法使いにとって、太陽神であり地母神。パチュリーは、そう言っていた。
「……またっ……あんたか……ッッ!」
空を、睨む。青く晴れた空。
その青空が一瞬、赤く染まった。
巨大な、赤い瞳。一瞬の幻影である。
だが、と魔理沙は確信していた。
とてつもない高みから幻想郷を見下ろす、あまりにも巨大な何者かは、幻影ではなく確かに存在している。
枯れた植物が、少女の全身から崩れ落ちる。
ぷにぷにと張りのある幼い肌が、露わになった。
その可憐な裸身に闇がまとわり付き、白黒の衣服となった。
「わははははは、ふっかぁーつ」
「おおー」
矢田寺成美が手を叩く。
「よくもまあ、あの状態から完治したものねえ。妖怪のしぶとい生命力、大いに参考にさせてもらったわ」
「幽香のおかげだよ。ありがとう、花の幽香!」
「そのうちね、何かの捨て駒として役に立ってもらうわ。宵闇の」
ルーミアの頭を、風見幽香は撫でた。
「貴女の生命操作の魔法も、参考にさせてもらったわ矢田寺さん。私の再生回復力が、大幅に強化された……それがなかったら、少し危ない戦いだったのよね」
「はあ、何と戦ってきたのかは知らないけど」
成美が空を見上げた。
晴天である。太陽の畑に、温かな日の光が降り注ぐ。
「……本当に、夜が明けたわね。外道破廉恥妖怪が、幻想郷の役に立ったじゃないの」
「まだよ。私はね、もっともっと幻想郷の役に立つの」
陽光を全て奪い取るが如く咲き誇る向日葵たちを、幽香は見渡した。
「幻想郷、全域にね……綺麗なお花を、咲かせて見せる。人妖の屍を養分に色とりどり咲き乱れる、花の異変よ」
「……貴女と刺し違える手段を、何とか考えておくべきかしら」
「馬鹿な事は考えないで、幽香の機嫌を取りながら幸せに暮らそうじゃないか。お地蔵さん」
ルーミアが、成美の肩をぽんと叩く。
ちらりと、成美が睨む。
「……私はね、貴女みたいなお気楽妖怪とは違うのよ。魔法使いなんだから」
石となって微動だにせず、長い期間を過ごす。上手くやれば魔力の鍛錬になるかも知れない、と幽香は思う。
「魔理沙と同じ……魔法使い、なんだから。幻想郷のためになる事を、考えなきゃ」
そこで成美は、息を呑んだ。
「ん? お地蔵さん、どうしたのかなー」
ルーミアが首を傾げて、成美の顔を覗き込む。
幽香は空を見上げた。
青い空に、異状は見られない。
遥か上空から、天空の彼方から、何者かが見下ろしている。そんな気がしたのだ。
その何者かを、成美は幽香よりも強烈に感じ取ったようである。
「……誰……一体、誰なの。貴女は……」
「……さあ、誰なのかしらね」
幽香は言った。成美に、ではなく……箱庭を覗き込むが如く幻想郷を見下ろしている、何者かに向かって。
「誰かは知らないけれど……私ね、高みから見下ろされるのは好きじゃないのよ」
「やめて……」
成美の声はかすれ、顔は青ざめている。
「……よく、わからない……でも何となく、わかるの。あれは絶対……喧嘩を売っちゃいけない相手……」
「……ふん。安い喧嘩には、ならないわね」
微笑もうとして笑顔を作れずにいる自分に、幽香は呆然と気付いていた。