第45話 鈴仙軍団、内紛
原作 上海アリス幻樂団
改変、独自設定その他諸々 小湊拓也
夜が明けた。
幻想郷に生きる誰もが待ち望んだはずの、朝が来たのだ。
自分の心は、しかし闇夜のままだ、と鈴仙・優曇華院・イナバは思う。
「……任務……完了です、嫦娥様……」
呟きながら、迷いの竹林を彷徨い歩いている。
永遠亭からは、まだ、そう離れていないはずである。
帰れなくなってしまいたい。竹林の奥で、迷い果ててしまいたい。鈴仙は、そうも思った。
八意永琳の暗殺。それが、最初の任務であった。
鈴仙が逃亡兵を装い、永遠亭への潜入を果たした時には、しかし永琳はすでに蓬莱人だった。
任務は、変更された。
永遠亭を守る、不変の結界の排除。それが鈴仙の、新たなる任務であった。
全ては、果たされた。鈴仙の働きによるもの、ではないにしてもだ。
八意永琳は、死んではいないにせよ永遠亭から消え失せた。不変の結界も消滅した。
蓬莱山輝夜という、この宇宙で嫦娥を最も脅かす者も、打倒されたのだ。
「嫦娥様……任務、完了です……鈴仙は……月の都へと、帰還……」
帰還、出来ないから何だと言うのか。
嫦娥にとって最良の状態が、もたらされたのである。忠実なる玉兎の戦士としては、慶ぶべきなのだ。寿ぐべきなのだ。
無能な玉兎が1匹、地上に取り残されたというだけの話である。
「…………私は……」
鈴仙は、少し大きめの竹にぶつかった。その竹に、もたれかかった。
「……どう……すれば、良いのですか? 嫦娥様……」
「まったく……情けないったらないわね、私」
声がした。
何者かが足取り強く、竹を鳴らし、歩み寄って来る。
「こんな、自分ってものを欠片も持ってない奴に……あんな、いいように操られるなんて」
揺れる紙垂が見えた。
紅白の衣装と、黒髪。死の色合わせだ、と鈴仙は思った。
「あんたにね、死ねって命令されたら……普通に、死ぬ。私……ずっと、そんな状態だったのよね」
にっこりと、博麗霊夢が微笑みかけてくる。
死の笑顔だ、と鈴仙は思った。自分は、今から殺される。
「私……あんたに、何回も殺されてたのよね」
言いつつ霊夢が、歩み寄って来る。
鈴仙は、後退りも出来なかった。竹にすがりついた身体が、硬直している。
この紅白の巫女が、お祓い棒を一振りするだけで、自分は竹もろとも折れて砕ける。
「……うん、勝ち負けで言えば私の負け。あんたの勝ち、お見事よ鈴仙少尉殿」
右手でお祓い棒を構えたまま、霊夢は左手で呪符の束を広げた。
「博麗の巫女が妖怪に負けっ放しだとね、幻想郷のためにも良くないわけよ。だから私、今からあんたに勝たなきゃいけないんだけど……そうねえ。何回くらい殺したらいいのかしら」
霊夢が、じっと見つめてくる。睨んでくる。
その瞳に、1匹の見すぼらしい兎が映っていた。両眼が赤く弱々しく発光しているだけの、非力な玉兎。
無理だ。
今の鈴仙に、この赤い眼光を相手の心に植え付ける事は出来ない。
ただ赤いだけの弱々しい眼光が、霊夢の燃え盛る眼差しに焼き砕かれてしまう。
硬直していた鈴仙の身体が、いつの間にか地面に座り込んでいた。
「嫦娥様……」
そんな声が、漏れてしまう。
この宇宙で最も貴き存在に、自分は助けを求めているのか。
無能な玉兎など、嫦娥に見放されて当然なのである。
また1歩、霊夢がゆらりと迫って来る。
楽になれる、と鈴仙は思った。このまま殺されれば、この惨めな思いから解放される。
隕石が、降って来た。
小規模な隕石が、斜めに宙を裂いて霊夢を直撃する。
いや、霊夢は後方にふわりと回避していた。隕石が地面を穿ち、大量の土を舞い上げる。
土煙の中、うずくまっているのは隕石ではなかった。ピンと触角を立てた、1人の少女である。
「……ったく、何ボーッとしてんのよ鈴仙隊長!」
「リグル……」
身を起こし、霊夢と対峙するリグル・ナイトバグの背中を、鈴仙は呆然と見上げた。
リグルだけでは、なかった。
「ああもう、夜なら鳥目にしてやれたのに!」
猛禽の如く飛来したミスティア・ローレライが、霊夢に向かって光弾の雨を降らせている。
「ほら早く逃げて、鈴仙少尉!」
「貴女たち……」
逃げろと言われても、身体が動かない。声は出せる。
「……私の……洗脳……」
「そんなの、とっくに解けてるわよ。まさか気付いてないとは思わなかったけど」
リグルが無理矢理、鈴仙を助け起こした。
傍に、ミスティアが着地する。
「博麗の巫女! うちの隊長をいじめるのは許さないよっ!」
「……あんたたちもね、そのダメ兎を甘やかしてんじゃないわよ」
ミスティアの光弾を霊夢は全て、お祓い棒で叩き砕いていた。
部下2名に、守られている。庇われている。
呆然と、それを実感しながら、鈴仙は訊いた。
「…………いつ……?」
「一緒にお風呂入ったじゃない。その時には、もうね」
「私たちを抱き締めて、泣いていたわね鈴仙隊長……博麗の巫女、あんたはどうだったの?」
「……私は普通に、まだ洗脳されてる最中だったわ」
リグルの問いに、霊夢は悔しげに答えた。
「そう。あんたたち2匹とも、あの時には正気に戻ってたわけね」
「……何故……何で、どうして……」
鈴仙の、声が震えた。
「……私の……洗脳催眠に、かかった……ふりなんて……」
「それは、まあ……うーん」
ミスティアとリグルが、少し困ったように顔を見合わせた。
「…………かわいそう、だったから」
「……………………うわぁあああああああああああん」
鈴仙は、泣き出していた。
「ひどい……ひどいわ、みんな……お師匠様も姫様も、てゐも貴女たちも……みんなで私を哀れんで、私をバカにして……私を泳がせて、バカっぷりを楽しんでいたのね! ひどい……ひどいよう……」
「そんな事言わないで、隊長」
リグルが、鈴仙の頭を撫でた。
「ねえ、かわいそうな鈴仙少尉。貴女がね、私たちに色々良くしてくれたの……ちゃんと、覚えているわよ」
「重ねて言うけど博麗の巫女! かわいそうな鈴仙隊長をいじめるのは、私たちが許さないよっ!」
「かわいそうって言うなああああああああああ!」
逃げるべきなのだろうが、鈴仙は涙が止まらなかった。
永遠亭の、最も奥まった区画。最も、日の当たらぬ部屋。
そこを因幡てゐは、スカーレット姉妹に宛てがってくれた。
「あの薬を飲んだ方が、早く治るんじゃないのかね。まあ別に、とっとと出て行けと言ってるわけじゃあないんだが」
「……ありがとう。それなら、ここで少しのんびりさせて下さるかしら」
レミリア・スカーレットは、笑ったようだ。
可憐な美貌は痛々しく包帯に覆い隠され、表情が見えない。
小さな全身を包帯で巻き包んだ、悲痛極まる姿で、レミリアは布団の上に座り込んでいる。
「あの薬は……効き過ぎて、恐いわ」
「それは同感。ま、あんたは夜になって月の光でも浴びれば治るだろうしね」
てゐは立ち上がった。
「昼間は、ゆっくり寝てるといい。周りの連中、あんまり騒ぐんじゃないよ。怪我人なんだから」
「感謝するわ。パチェの事と言い、貴女がたには面倒をかけ通しね」
「寝床を貸しているだけさ。悪いけど今から私、ちょいと忙しくなるから。お構い出来なくなると思う」
「……薬屋の仕事が、立て込んでるのか」
霧雨魔理沙が言った。
「大変だよな……」
「何、私も八意先生には色々と叩き込まれているからね。簡単な薬の調合くらいは出来るさ」
「調合なら私、出来るかも知れない。何か、手伝えないかな」
「時間ある時に、腕前を見せてもらうよ」
てゐが言葉を残し、部屋を出て行った。
少し残念そうにしている魔理沙に、十六夜咲夜は言葉をかけた。
「……殊勝な事を言うのね、随分と」
「八意先生っていうのは……あの薬を作った、お医者さんだろ」
魔理沙は言った。
「会ってみたいと思っていたんだ。私らと入れ違いに、何か行方不明になっちまったらしいけど……それはそれとして、この永遠亭とは関係を保っておきたい」
「月の勢力との戦いが、まだ続く」
魔理沙の傍らで行儀良く正座をしたまま、アリス・マーガトロイドが言った。
「……魔理沙は、そう思っているのね」
「幻想郷を滅ぼす。あの綿月豊姫はな、そう言ったんだぜ」
魔理沙が、腕組みをした。
「言葉の脅しで済ませる奴じゃあないと、私は思う。何かゴタゴタがあって引き上げたみたいだけど、そのゴタゴタが片付いたら間違いなく、また攻めて来るぞ」
「やはり……幻想郷の守り手にふさわしいのは、霊夢ではなく貴女の方ね魔理沙」
包帯の隙間で、レミリアの赤い両眼が興味深げに輝く。
「霊夢は……ふふっ。私たちの側、だものね」
「……もちろん、あいつも大概だが。ちょっと見ない間に、お前も一層バケモノになったなレミリア」
魔理沙が、眼差しと言葉を返した。
「強くなった、って言うよりも……お前が、その妹に怯えるあまり、元々持ってたものを萎縮させてただけか」
「どうかしら、ね」
隣の布団で愛らしく寝息を発しているフランドール・スカーレットの頭を、レミリアはそっと撫でた。
「……霊夢は今、どこに?」
「永遠亭の中を、うろついてました。何やら、獲物を求める肉食獣みたいに」
レミリアの問いに答えたのは、紅美鈴である。
「誰か探してますね、あれは。それも、ちょっと不穏な理由で」
「鈴仙優曇華、だろうな」
魔理沙が言った。
「何しろ霊夢の奴、あいつのせいで大変な不覚を取った。ちょっとな、ひと段落ついたから仲良しこよしってわけにはいかないと思うぜ」
「……止めた方が、いいのかしら」
アリスが、鈴仙を気遣っている。
「あの鈴仙、生きる気力を無くしかけているように見えたわ。霊夢に攻撃されたら、無抵抗で殺されてしまうかも」
「……自力で生き延びてもらう、しかないと思うぜ。アリス、お前が立ち直ったみたいに」
レミリアも、フランドールと戦う事で立ち直った。
いや、魔王としての目覚めを得た。それを、立ち直ったと呼べるのだろうか。
レミリアにとって幸せな事であったのかどうか、咲夜はまだわからずにいる。博麗神社で、霊夢の庇護を受けながら平穏無事に、魔王ではなく1人の少女として生きる道も、確かにあったはずなのだ。
魔理沙が、なおも言う。
「月の連中と戦うのに、鈴仙は欠かせない戦力だぜ。生きる気力を無くしたまんまで、いて欲しくない」
「月の連中と戦う……本気なんだな、霧雨」
「紅美鈴、お前の力だって必要になるぜ」
「そいつらが攻めて来るなら、もちろん出来る事はする。だけど……私なんかよりずっと戦力になる、そのくせ元気を無くしちまってる奴が1人いるんだ。そいつを、何とか立ち直らせたい」
美鈴がここまで言うのは一体、誰の事なのか。自分も知っている何者かの事か、と咲夜が思った、その時。
「月の勢力と戦う……それが貴女の本気、という事でいいのね、魔理沙」
声がした。
パチュリー・ノーレッジが、いつの間にか、そこに座っていた。
「……それなら、攻めて来るのを待っていては駄目。こちらから、月に攻め込むのよ」
「……月へ行く手立てが、何かあるのか?」
「あるわ」
パチュリーの眼差しが、魔理沙からレミリアに移った。
レミリアはしかし、パチュリーの傍らで正座をしている少女に、微笑みを向けている。
「元気になったのね、小悪魔」
「……元気ではありません。私、存在そのものが消滅しかけておりましたから。自分の姿形をこうして維持するのが、今のところは精一杯です」
小悪魔の声には、感情が無かった。
「私を、消滅から救って下さった事……感謝いたします、レミリアお嬢様。ですが私……まだ、貴女を許す事が出来ません」
「いいのよ、貴女はそれで」
レミリアは言った。
「これは何度でも命じておくわ小悪魔。私とパチェが仲違いをした場合、貴女は常にパチェの味方をなさい。明らかにパチェに非がある場合でも。いいわね?」
「……言われるまでも、ありません」
感情が無い、わけではなかった。小悪魔は、感情を押し殺している。
「……いい加減になさい、2人とも」
パチュリーが言った。
「レミィと仲違いなんて、そんな命知らずな事を私するわけがないでしょう? それよりも……皆に、聞いて欲しい事があるの」
月に、征く。
パチュリーは今、その事に命を燃やそうとしている。紅魔館で尽きかけ永遠亭で拾った、儚い命をだ。
「私……この永遠亭に、とてつもない借りを作ってしまったわ。八意先生も輝夜さんもいない、こんな状況を放置したままでは……紅魔館で、偉そうに居候をし続ける事も出来ない……だから……」
パチュリーが、レミリアを見つめた。
レミリアは無言で、パチュリーに続きを促している。
「だから……お願いよ、レミィ……」
パチュリーが被り物を脱いだ。頭を下げようとしている。
レミリアが、片手を上げた。
痛々しく包帯の巻かれた、小さな手。
一見弱々しい、その動きが、パチュリーを止めた。パチュリーの平伏を、制止していた。
「私に……して欲しい事だけを言いなさい、パチェ」
リグルとミスティアが、倒れ重なっている。
両名の身体をまとめて片足で踏み付けながら、博麗霊夢は笑って見せた。
「思ったより、やるわねえ2匹とも。少なくとも、そこのダメダメ兎よりはずっとマシ。どうよ、本格的に退治されてみる?」
「うっぐぐ……な、何やってるのよ鈴仙隊長……」
リグルが、続いてミスティアが、霊夢の足の下で呻く。
「早く……逃げろってば……!」
「お黙り……」
空気が震えるほど、低い声だった。
「隊長に……命令するんじゃないわよ……」
「……ふん? 少しは隊長らしい事、やってみようって気になったわけ」
霊夢の挑発に、鈴仙は言葉では応えない。
ただ、泣いている。涙を流している。
大量の涙が蒸発してしまいそうなほど、眼光を燃やしている。
赤く燃え輝く瞳が、霊夢を睨む。
それは、霊夢が1度は不覚を取った、催眠洗脳の眼光ではなかった。
物理的破壊力を有する、真紅の殺人光線。
鈴仙の目から激しく迸ったそれを、霊夢はかわした。空中へと。
跳躍が、そのまま飛行になった。
頭を抱えて地面にへばり付くリグルとミスティア、両名の頭上を真紅の破壊光線が通過する。
鈴仙が、上空を睨んだ。
空中から、霊夢は睨み返した。
「立ち直ろうとする奴って、本当……気に入らないっ!」
呪符の束を、投げ付ける。
直進し、あるいは弧を描き、上方の様々な角度から降り注ぐ呪符の豪雨を、鈴仙は両手の人差し指で迎え撃った。
鋭利な指先が銃口となり、真紅の光弾を速射・乱射する。
乱射に見えて、狙いは恐ろしいほどに正確だった。
呪符は、全て撃ち砕かれていた。
その時には、霊夢はしかし着地していた。
着地した足で地面を蹴り、お祓い棒を振りかざす。鈴仙に、殴りかかる。
回避も防御もせずに、鈴仙が人差し指を向けて来る。
その指先から、光弾が発射される事はなかった。
霊夢も、お祓い棒を叩き込む事が出来なくなった。
喉の辺りに、剣先が突き付けられているからだ。
鈴仙の細い喉元でも、鋭い刃が静止している。
「双方、そこまで……!」
白楼剣を霊夢に、楼観剣を鈴仙に、それぞれ突き付けたまま魂魄妖夢は言った。
「……おかしな試しはやめておけ、霊夢」
「試し……」
鈴仙が呟く。
「何を……私の、何を……試すの……?」
「あんたを捨てた御主人……あの綿月豊姫とね、戦えるかどうか」
霊夢は言った。
「駄目ならね、大人しく幻想郷で待ってなさい。誰も責めないから」
「戦う……豊姫様と……」
鈴仙は、まるで理解していない。
「何を……言っているの……?」
「幻想郷を滅ぼす、なんて言ってる奴をね、放っておけるわけないでしょうが」
理解出来なくて当然だ、と霊夢は思う。あまりにも常軌を逸した事を、自分たちは行おうとしているのだ。
「パチュリー・ノーレッジが言っていた。幻想郷から月へと向かう、算段がつく……かも知れん、とな」
呆然としたままの鈴仙の肩を、妖夢は掴んだ。
「私たちと共に戦え、鈴仙……貴様も、私も、戦うしかないのだ」