第44話 永遠の夜が明ける
原作 上海アリス幻樂団
改変、独自設定 小湊拓也
ドレミー・スイートの仕業か、と八意永琳は思った。
幼い頃の蓬莱山輝夜が、目の前にいる。いくらか丸みのある可憐な美貌と、さらさらと艶やかな黒髪。
倒れた永琳を、心配そうに見つめている。
月の都にいた頃の夢を、自分は見ている。
ドレミーが輝夜に化けて、またしても何か伝えようとしている。
そんな事を思いながら永琳は、ぼんやりと夢の世界を見回した。
可愛らしい調度品の置かれた、あまり広くはない部屋の中。
いくらか窮屈な寝台の上に、自分は横たえられている。
身体には、包帯が巻かれているようだ。
「目が覚めたのね。大丈夫? どこか痛い?」
幼い輝夜が、声をかけてくる。
否、輝夜ではなかった。夢の中でもない。
片手で頭を押さえながら、永琳は上体を起こした。
「……ここは?」
「私たちの家。貴女、森の中に倒れていたのよ」
輝夜に少し似ている、小さな少女。背中から、透明な翅を広げている。
妖精であった。
「すっごい大怪我してたんだから」
「……手当てを、してくれたのね」
怪我をしていた、という事は、自分は死ななかったという事だ。死ねば、無傷の状態で復活する。妖精のように。
「なおかつ……どうやら貴女のベッドを、占領してしまっているのね私」
「くじ引きでね、私の部屋に決まっちゃったのよ」
「ありがとう。いずれ本格的なお礼をさせてもらうわ」
永琳は軽く、片手をかざした。
窓から、眩しい陽光が射し込んで来る。
「……夜が、明けたのね」
「そうなのよ。まったく、何だったのかしらね」
輝夜に似た妖精の少女が、憤慨している。
「ずっと夜だし、月から変なものが攻めて来るし。私たち、ひどい目に遭ったんだから」
「そう……月人の軍勢が、貴女たちにも攻撃を加えたのね」
「……貴女、あれと何か関係があるの? だったら話してもらうわよ色々と」
「ふふ……私は、貴女たちの捕虜のようなもの。尋問は、受けるべきよね」
永琳は、ちらりと視線を動かした。
「貴女たちも。訊きたい事があるならどうぞ、何でも答えるわよ」
ぎくり、と音が聞こえたような気がした。
「私に、何か悪戯をする。その効果的な方法を知りたいなら教えてあげるわ……姿を消すだけでは、駄目ね」
「ちょっとサニー、見つかっちゃったじゃないのっ」
「あわわわ、そ、そそそそんなはずは」
慌てふためきながら、妖精の少女がもう2人、姿を現していた。
「どっどうして、何でバレちゃったのか、まずそれを訊きたいな……」
「光の屈折を利用した、ごく初歩的な光学偽装。見ればわかるわ」
永琳は、微笑みかけた。
「とは言え……道具も無しに、そんな能力を使いこなす。面白いわね、私も貴女たちに色々と訊いてみたいわ」
「お前、派手に血反吐ぶちまけてたよなあ。大丈夫か?」
紅美鈴が、訊いてくる。
「手伝ってくれるのは助かるけど、あんまり無理しないようにな」
「私は大丈夫……あの薬を飲むと、ああなるらしい」
言いつつ魂魄妖夢は、お茶を啜った。
因幡てゐが、淹れてくれたのだ。
「体内の破損箇所を無理矢理に修復しながら、汚れた血液を口から体外に放出する……地獄のような不味さに、苛まれながらな」
永遠亭の、縁側である。
今は、休憩時間だ。
「だが見ての通り、薬効は素晴らしい。死にかけていた私が、あっという間に、肉体労働が出来るほどまで回復した」
死の天使たちの攻撃で、妖夢は重傷を負った。
死にかけながら妖夢は、さらに死にそうな思いをして、あの薬を飲んだ。
その間に、紅魔館の軍勢が永遠亭に現れ、死の天使の群れを撃滅してくれた。
その戦いで、永遠亭の一部が破壊された。
紅美鈴が修繕工事を始めたので、妖夢は今それを手伝っている。
「それにしても紅美鈴……お前、恐ろしく手際が良いのだな。あれほど壊れていたのに、もうあらかた元通りだ」
「お前が手伝ってくれるからな、魂魄妖夢」
美鈴は菓子を食らい、お茶を飲み、笑った。
「いやあ、うちの紅魔館がさ。割と頻繁にぶっ壊れるんだよ」
「直すのは大抵、お前か……白玉楼も同じだ。力仕事をする者が、私しかいない」
西行寺幽々子が、姿を消した。
それに関しては、出来る事が何もない。
「力仕事……ね。ふうむ」
美鈴が、ちらりと妖夢を観察する。
「……お前、なかなかやるね。刃物の扱いは、うちの咲夜さんとほぼ互角。剣の勝負だけなら、妹様よりも上と見た」
「フランドール・スカーレット、と言うのだな。あの吸血鬼の剣士……冥界で、大いに暴れてくれた」
博麗霊夢と同じく、潜在能力の塊とも言うべき怪物だった。
「それに、あの十六夜咲夜……パチュリー・ノーレッジ……そして」
フランドール・スカーレットの、姉。
妹共々、外の世界から八雲紫が引き入れた怪物であるという。
八雲紫がそれをしなければ、外の世界は恐らく滅びていただろう。
レミリア・スカーレットとは、見ただけで妖夢にそう確信させる存在であった。
「……紅魔館というのは、化け物の巣窟か?」
「私1人だけが、雑魚さ」
「……どうかな、それは」
今、この場で斬りかかったとして。
紅美鈴が、容易く斬り殺されてくれる相手だとは、妖夢には思えなかった。
美鈴が、湯飲みを置いた。
「なあ魂魄妖夢……あいつが、いたよな。藤原妹紅」
「知っているのか?」
「あいつと戦って、負けた事がある。ボコボコにされたよ」
藤原妹紅は、気がついたら、いなくなっていた。
「だからな、あいつが何かこう……腑抜けた感じになってると、私はあんまり気分が良くない。まったく、ぼんやりしやがって。一体何があったのか、訊いてもいいか?」
「……少しばかり因縁のある相手を、失ってしまったようだ」
藤原妹紅にとっての蓬莱山輝夜は、自分にとっての西行寺幽々子か。
自分もまた、いつ妹紅のようになってもおかしくはないのか。
死の天使たちの、本体とも言うべきものによって、幽々子は月へと連れ去られた。
ならば自分も月に行くとして、その手段はどこにあるのか。
幻想郷にあって、最も月に縁深い場所……ここ永遠亭で、何かを掴むしかないのか。
妖夢は、縁側から立ち上がった。
「……作業を、終わらせてしまおう」
「大丈夫か? お前……何か、無理をしてないか」
「……お前こそ、無理をしているのではないのか」
美鈴の衣服の下には、包帯が巻かれているはずであった。
「あのフランドールに、腹を抉られていたようだが」
「あんなのは紅魔館じゃ日常茶飯事でね」
美鈴が、己の鳩尾の辺りを愛おしげに撫でている。
「妹様の……あの可愛いお手々がさあ、私のはらわたをクチュクチュまさぐってくれるんだぞ……咲夜さんのナイフとどっちがってぇくらい、たまんない御褒美だってのよぉおおお」
「……貴様も、面白い奴だな」
それだけを、妖夢は言った。
小悪魔が、うっすらと目を覚ました。
ぼんやりとした、その瞳を、パチュリー・ノーレッジは見据えた。
「……パチュリー……さま……?」
「おはよう小悪魔。良い夢は見られたかしら?」
永遠亭の、一室である。
小悪魔の寝ている布団の傍らで、パチュリーは正座をしている。
「……あ……も、申し訳ございません……今、薬湯の御用意を……」
「寝ていなさい。貴女、記憶が混乱しているわね」
起き上がろうとする小悪魔を、パチュリーは繊手でやんわりと押しとどめた。
「のんびり休みながらでいいから、自分のした事を思い出して御覧なさい。言っておくけれど、あれは夢ではないわよ」
「……私……生きている……んですね……」
「死なれてたまるものですか。貴女にはね、言わなければならない事が山ほどあるのよ」
山ほどの説教が、胸の中で渦巻いている。なのに口から上手く出て来ない。
パチュリーは、溜め息をついた。
「……まず1つ。私はね、貴女の所有物ではないのよ」
「……パチュリー様が……私の、所有物だったら……いいのに……」
布団の中で、小悪魔は泣き出していた。
「そうなら……私、パチュリー様に危険な事なんて絶対にさせない……あんな吸血鬼のために、お命を削るような事なんて……」
「……私、貴女に随分と心配をさせてしまったのね。それは謝っておくわ」
「そんな……パチュリー様……」
「ただ。貴女が、してはならない事をしたのは事実よ」
「……懲罰を……下さい……」
小悪魔の涙目が、じんわりと熱を帯びた。
「パチュリー様の……お仕置きを、どうか……」
「貴女には働いて償ってもらうわ。わかっているのでしょうね? 小悪魔」
パチュリーは言った。
「貴女も私も……永遠亭のために、命を懸けなければならない立場よ」
「……輝夜様は……囚われた、のですよね? 殺された、のではなく……」
切り刻まれた蓬莱山輝夜の屍は、迷いの竹林に埋葬された。
因幡てゐの話によると、竹林の中には輝夜の墓がいくつかあるらしい。
「……輝夜様を……取り戻しに、行かれるのですね? 月まで……」
「そうしなければ私……八意先生に、顔向けが出来ない」
八意永琳も、行方知れずになってしまった。無論、捜す。
輝夜の魂は、綿月豊姫によって月の都へと持ち去られた。こちらは所在がはっきりとしている。
「ですがパチュリー様……月まで、どのようにして……」
「月に関して、八意先生に教えていただいた事がいくつかあるわ」
目覚めてから今までの、短い間。八意永琳はパチュリーにとって、命の恩人であると同時に師匠であった。
「その1つが、地上から月へと向かう手段」
「あるのですか、そのようなものが……」
途方もない手段である。それを、しかし今からでも自分たちのものにしなければならない。
「……三段の、筒よ」
勝ち負けを言えば、自分の勝ちなのであろう。
藤原妹紅は呆然と、そんな事を思ってみた。
永遠亭を守るための、不変の結界の維持。
その片手間に妹紅と戦っていた蓬莱山輝夜が、本気で戦わざるを得なくなった。
妹紅が、そこまで追い込んだのだ。
結果、輝夜は、不変の結界を維持する事が出来なくなり、綿月豊姫という凶敵の侵入をもたらした。
そして、輝夜は殺された。
妹紅が、豊姫を上手く利用して輝夜を斃した、とも言えるか。
「…………言える……わけ、ないだろ……」
妹紅はよろめき、竹にもたれかかった。
「違う……違うよ輝夜……こんなの、勝ちじゃあない……負け、ですらない……」
同じ思考を、ずっと繰り返している。迷いの竹林を、彷徨いながらだ。
夜が明けた。
そんな事は関係なかった。妹紅の心は、闇夜の竹林に閉じ込められたままである。
竹林の案内人は、廃業するしかない。
自分が今、迷いの竹林のどの辺りにいるのか、妹紅はまるで把握していなかった。案内人など、もはや務まらない。
永遠亭からは、随分と離れたはずである。
「…………輝夜……」
語りかけてみる。
当然、応えなど返って来ない。
「……私の……せい……で……」
あの時、妹紅のするべき事は1つしかなかったのだ。
綿月豊姫を倒し、輝夜の魂を取り戻す。
不可能であった。
幻想郷の弾幕使いたちが束になっても、あの綿月豊姫には傷ひとつ負わせる事が出来なかったのだ。
そのような強大極まる災禍を招き入れてしまったのは、自分・藤原妹紅である。
「…………ごめん……」
竹にもたれかかったまま、妹紅は地面に座り込んでいた。
「……輝夜、ごめん……ごめんよう……」
「許さないわよ」
声がした。
ゆったりと揺れる衣服の袖と、艶やかな黒髪の揺らめきが見えた。
「貴女に謝られたって、許せるわけないでしょう。まあ、どうして謝っているのかは知らないけれど」
「…………かぐ……や……?」
「正直に言いなさい妹紅。貴女、私に謝らなきゃいけないような何をやらかしたの?」
笑顔も、見えた。
夜が明けた、なのに月が見える。妹紅は、そう思った。
真昼であっても輝きを失わない、満月。そんな笑顔だった。
「……別に。ちょっと、いじめ過ぎたかなって思うだけだ」
「ほほう」
蓬莱山輝夜が、その笑みをにっこりと歪めてゆく。
「私が、いつ? 弱くてかわいそうな妹紅にいじめられたのかしら」
「いつも、いつも……さ。ぶちのめしたり、焼いたりして」
妹紅は、輝夜の頭を撫でた。
「……ごめんな? お前、弱っちいのに私、大人げなく本気出しちまってさ」
「あらあら。本気を出して、あんなもの?」
輝夜は、妹紅の頬を撫でてきた。
綺麗な指で、妹紅の涙をすくい取ってくれた。
「……今日は、やめておきましょう」
「そうだな……せっかく、夜も明けたし……な……」
妹紅は、涙を隠していられなかった。
「……長い、夜だったよなぁ……嫌な夢、見ちまったよ……」
月から来た者たちは撃退され、幻想郷は平和を、日常を、取り戻した。
上白沢慧音は、人里を解放した。
何かあれば、また閉じた歴史の中へと封鎖する。今のところ、その必要はない。
ひとつ、後悔がある。
藤原妹紅を、人里から出してしまった事だ。
そのせいで、妹紅は傷を負った。不死の肉体をもってしても癒す事の出来ない、心の傷。
それも、少しずつではあるが塞がりつつあるのか。
迷いの竹林。
妹紅は、涙を流しながら笑っている。幸せそうに、誰かと話している。
たった1人で、そこにはいない誰かと。
妹紅にとっては、確かにそこにいる誰かと。
「……いいんだよ、妹紅。君は、それでいい」
竹の陰から慧音は今、そんな妹紅を見守っている。
「困難に立ち向かう。苦しみながら戦い、強くなってゆく。より強い自分を求めて、さらなる苦しみに立ち向かい続ける……そんな呪いの歴史から、君はもう解放されなければいけない」
言葉は、今の妹紅には届かない。
妹紅には今、慧音の声など聞こえていない。慧音の姿も見えない。
今の妹紅にとって、自身以外に存在しているのは蓬莱山輝夜だけなのだ。
「それでいい、妹紅……君の望む、君だけの歴史を、私はいくらでも作り出してあげるよ」
「……逃げ込むための、歴史?」
誰かが、話しかけてきた。
妹紅が輝夜を見ているように、慧音にも、慧音自身にしか認識の出来ない会話相手がいるのだ。
「それで……本当に、いいの?」
「……永遠に逃げ回る。私は、それで一向に構わないと思っている」
慧音は言った。
「人も、妖怪も、それ以外の者たちも……戦い続ける歴史から、もう解放されなければならない」
「……戦わなかったら……みんなから、忘れられちゃうよ?」
少女が、悲しげな声を発する。
「逃げてたら……隠れてたら……誰にも、見てもらえないんだよ? 覚えてもらえない……忘れられちゃう……」
「……君は、忘れられるのは……嫌か?」
「私……みんなに、見て欲しい。私の戦い、私の弾幕……」
悲しそうな瞳で少女は、幸せそうな妹紅を見つめている。
「……私、忘れられたくない……あの人だって……きっと、そう」
「妹紅の事は、私が覚えている。私だけの歴史の中に、妹紅はずっと存在し続けるんだ……あんなふうに、幸せなまま」
「……本当に……幸せそう……」
涙ぐむ少女の頭を、慧音はそっと撫でた。
「君の言いたい事も、わかる……戦う事しか、ないものな。私たちには……」
「……私たち……弾幕使い、なんだよ……?」
「弾幕……」
魂を縛る言葉だ、と慧音は思った。
幻想郷に生きる人妖は……否。この少女のように、幻想郷と関わりなき者でさえも。弾幕からは、逃れられない。
「……弾幕使いの宿命……まさしく、呪いの歴史だ」
慧音は呟く。
妹紅はいつまでも、存在しない輝夜と話し続けていた。
楽しそうに。この上なく、幸せそうに。