第42話 魔王
原作 上海アリス幻樂団
改変、独自設定その他諸々 小湊拓也
「やめなさい」
西行寺幽々子が命ずると、死の天使は微笑んだ。冷たく、不敵に。
「……私が、何をしたと?」
「幻想郷に……今、何かしら攻撃を仕掛けたでしょう?」
ここがどこであるのかは、わからない。見回しても、風景と呼べるものが見当たらない。謎めいた空間である。
月のどこか、である事は朧げに感じられる。
幻想郷は、遠い。
遥か彼方の幻想郷に対し、あまり好ましくない何事かが行われた。
幽々子の目の前に佇む、この優美にして荘厳なる者によってだ。
「見ての通り、私は封印されている。どこかへ攻撃など、出来るわけがない」
6枚の翼が、ふわりと広がる。
それだけで自分の心、いや存在そのものが萎縮しかけるのを、幽々子は感じた。
「ただ……少しばかり、懐かしい気配を感じたのでね。挨拶がわりの事をしてみた」
「……その結果、妖夢が何か酷い目に遭ったのだとしたら」
冥界の管理者などとは、あまりにも格の違う相手。
それでも幽々子としては、言っておかなければならない事がある。
「私は……貴女を許さないわよ、死の天使」
「すまない」
死の天使は翼を畳み、片膝をついて頭を垂れた。
「貴女の意思を確認する事もなく、お呼び立てをしてしまった……それのみでも心苦しいのに、重ねて貴女を怒らせるような事をしでかしたとなれば。この命を差し出せば、お許しいただけるだろうか」
「……さて。私の力で、貴女の命を奪う事が出来るかしら」
幽々子は、顎に片手を当てた。
「貴女は……途方もない存在よ。その命に、私の力が及ぶとは思えない」
「……御自分の事を、全くご存じないのだな」
死の天使が、ふわりと立ち上がった。
「西行寺幽々子……貴女は、全宇宙そのものを死に至らしめ得る存在だ」
「冗談……」
「死の天使、などと私は呼ばれているが、死を操る能力において私など貴女の足元にも及ばない」
「私は、あの綿月豊姫にも勝てなかった。貴女からの召喚に、逆らう事すら出来なかったのよ?」
「召喚したわけではない。私が……ただ、貴女に会いたいと思ってしまっただけだよ」
死の天使の冷たい笑顔が、いくらか和らいだのか。
「私が貴女に、同胞のような意識を勝手に抱いてしまった。この寂しい封印の中……遠く離れた地上に、自分と同質の存在を感じてしまったのだ。会いたくもなってしまうさ」
「……懐かしいものを感じてしまったのは、私も同じだけど」
「貴女がその気になれば、私の命など容易く奪う事が出来るだろう。綿月姉妹など問題にならない……蓬莱人すら、死に至るかも知れない」
眼差しが、じっと向けられてくる。
「無論……貴女が、失われたものを取り戻した後の話だが」
「……私が、何を失ったと?」
「いや、失われてはいないか。それは貴女の、すぐ近くにある。貴女は躊躇っているが……取り戻すべきだ、と私は思う。取り戻して欲しいと、切に願う。取り戻してさえくれれば」
幽々子の、全てを見透かすような眼差しだった。
「……たとえ地獄の女神の命であろうと、貴女のその美しい掌に収まってしまうだろう」
世の終末をもたらす、4人の騎士。
外の世界の、神話である。
それが幻想郷に出現したのだ、と八雲藍は思った。まさしく終末を思わせる光景であった。
天使たちが、レーザー光の豪雨を降らせる。光弾の嵐を吹かせる。
その全てを、蹴散らすように回避しながら、4体の禍々しいものたちが永遠亭上空を飛翔する。
光の剣を振るい閃かせながら。槍のような時計の針のような奇怪なる武器を、可憐な細腕で猛然と振り回しながら。色とりどりの弾幕を撒布しながら。小さな身体で、宝石の翼をはためかせながら。
天使たちが、ことごとく殺戮されていった。
燃え盛る光の斬撃が、優美なフェムトファイバー甲冑を中身もろとも斬り砕く。
一体化しつつ歪んだ時分針のような武器が、猛回転しながら天使たちの弾幕を跳ね返す。
色彩豊かな、飴玉にも似た光弾たちが、天使の群れを片っ端から粉砕してゆく。甲冑も中身も、一緒くたに破片となって飛散・消滅する。
愛らしい繊手が、フェムトファイバー装甲を引き裂いて中身を掴み出す。掴み出されたものが、可憐な五指に圧迫されて破裂する。
4人のフランドール・スカーレットが荒れ狂う、破壊と殺戮の光景。
その中央で夜空に佇む、1人の少女。まるで破壊と殺戮を操っているかのようである。4つの災いを従えて夜に君臨する、真紅の令嬢。
「……見違えたわよ、パチェ」
可愛らしい片手を優雅にかざしながら、レミリア・スカーレットは微笑んだ。
その手が、破壊をばら撒いた。藍には、そう見えた。
赤い、宝珠のような大型光弾が無数、夜空に生じていた。
「随分と元気になったものね。まるで、清らかな乙女の生き血でも浴びたかのよう」
死の天使たちが、4人のフランドールを迂回しつつレミリアを狙撃する。レーザーと光弾を速射する。
その全てが、赤い宝珠に粉砕された。レーザー光も、光弾も、その発生源たる天使の群れも、全てがだ。
「お見舞いに来てあげた方が良かったかしら? 貴女の意識が戻らないうちから、もっと頻繁に」
「迷惑だわ」
即答しつつパチュリー・ノーレッジが、紅美鈴の腕の中から呆然と見上げている。
真紅の宝珠が、死の天使たちを片っ端から殲滅してゆく、その様を。
「見違えたのは、お互い様よ……貴女、本当にレミィなの?」
「パチュリー様は、そう言えばご存じないですよね」
美鈴が言った。
「私と咲夜さんでね、見届けました。お嬢様方の豪快な姉妹喧嘩……見事なもんでしたよ」
「レミィが……フランに勝った、とでも言うの?」
「別に、勝負をしたわけではないわ」
綺麗になった夜空の中央で、レミリアは笑う。
死の天使は、もはや1体も残っていない。
「私はね、フランと仲直りをした……ただ、それだけの事よ」
フランドールは1人に戻り、じっと地上を見下ろしている。
血まみれの八雲紫を、同じく血まみれの裸身で抱き支える藍の姿に、真紅の瞳を向けている。
人形のような美貌は、相変わらず無表情だ。だが。
「……苛立っているわね、あの子」
紫が、苦しげに微笑んだ。
「ねえ藍……育ての親にも等しい貴女が、ひどく無様な姿を晒しているから……私を、庇ったせいで……」
「……確かに、およそ五百年近く……フランドール・スカーレットに、弾幕戦の手ほどきをしたのは私ですが……」
紅魔館の最奥部に境界を設定し、フランドールを封印したのは紫である。
その封印の中に足繁く立ち入り、フランドールの面倒を様々に見てきたのは藍である。
「まさか……これほどの怪物に、育つとは……紫様の、思し召し通りという事でありましょうか」
「私の想定以上よ……スカーレット姉妹は、ふふふ……想定以上の戦力に、育ってくれたわ」
笑いながら、紫は血を吐いた。
「勝てる……彼女たちが、いてくれれば……幻想郷は、月に勝てる……」
「あんたのね、そういうところが駄目だって言うの」
そんな事を言いながら博麗霊夢が、紫の口に小瓶を突っ込んだ。
「そのために何、人んちの姉妹喧嘩に介入して? レミリアを凹ませて立ち直らせて、急成長でもさせたつもりなわけ? で、月の連中と戦わせる。このスキマ妖怪は、まったく誰かを利用する事ばっかり考えて」
「んッ……む……っ! ……ぐぅ……ッ!」
小瓶の中身が、紫の体内に容赦なく流し込まれる。
「……まあね、自分の身を危険に晒してまで結界を張り続けたのは褒めてあげる。幻想郷を守るために自分で頑張るって事、やろうと思えば出来るじゃないのよ」
「うっぐ……げほっ……」
紫は倒れ、美しい唇を血反吐で汚し、弱々しく転げ回った。優美な肢体が芋虫の如く這いずりながら、メキメキと凄惨な音を立てる。破損した体内各所が修復されてゆく、回復の響き。
「ああいう事が出来る奴、私の知る限りあんただけだからね。死なれちゃ困るわ」
「い……たぁい……まずぅい……」
「我慢なされませ紫様。私も霊夢も、耐えたのでございます」
「あんたも。死ぬ前に、飲んでおきなさいよ」
霊夢が、中身のある小瓶を手渡してくる。
そうしながら、お祓い棒を振るう。
一見、無造作なその動きが、落雷の如き攻撃を受け流していた。
フランドールが、空中から斬りかかったところである。
受け流された光の剣を、吸血鬼の少女は即座に構え直す。
霊夢を睨む真紅の瞳は、激しく燃え上がっていた。可憐な美貌は憤怒に歪み、可愛らしい牙を剥き出しにしている。
フランドール・スカーレットが、博麗霊夢に対してだけ見せる表情。
「ふふん……相変わらず、いい顔するじゃないの」
襲い来る光の斬撃を、霊夢はユラリとかわした。
なおも斬りかかろうとするフランドールを、
「やめなさい、フラン」
静かな声が、止めた。
それだけで、フランドールは止まってしまった。猛犬が、目に見えない首輪と鎖を付けられたかのように。
十六夜咲夜が無言のまま、さりげなく、フランドールと霊夢の間に入った。
一瞬だけ咲夜と視線をぶつけ合った後、霊夢は夜空を見上げた。
「……化け物な妹を、ちゃんと飼い馴らしてるみたいね。立派なお姉ちゃんになったじゃないの、小動物のくせに」
「フランには、教えなければいけない事が山ほどあるわ」
レミリアが、霊夢の眼差しを受け止める。睨み合う形になった。
「……お久しぶりね、霊夢」
「いつでもね、博麗神社へ逃げ込んで来ていいのよ? また飼ってあげる」
「かけがえのない日々、だったわね……」
レミリアが、にっこりと牙を見せる。白く美しい牙。月光を受け、不吉に煌めいている。
偽物の月は、消え失せた。
今、夜空にあって月光の発生源となっているのは、殺風景な隕石孔を浮かべた本物の月である。妖怪に活力をもたらす、死の天体。
その月も、間もなく沈む。綿月豊姫が言っていた。夜が明ける、と。
吸血鬼の姉妹を避難させるために、とりあえず紫にスキマを開いてもらうしかないか、と藍は思った。
「お前ら紅魔館の面子」
霧雨魔理沙が、歩み寄って来た。
「全員、揃ってパチュリーを迎えに来たと。そういう事で、いいのかな」
「私がパチェの魔力を感じたのよ。紅魔館に居ながら、ね」
レミリアが言った。
「百年以上も体調不良で死にかけていたパチュリー・ノーレッジが、久方ぶりに健康を取り戻した……そう確信できる魔力だったわ」
「……健康を取り戻した、わけではないわ。間違いなく、命は延びたけれど」
美鈴の支えを、パチュリーはやんわりと振りほどいた。
「……永遠亭の方々の、おかげよ」
「紅魔館としては、充分な謝礼をしなければならないわね」
言いつつレミリアは、ふわりと地上に降り立った。
「挨拶をしたいわ。パチェを助けてくれた事、まずは感謝を伝えなければ……永遠亭の責任者に、誰か取り次いでくれないかしら?」
「はいはい、責任者代理って事でひとつ」
進み出て来たのは、因幡てゐである。
「申し訳ないんだけどね、永遠亭の最高権力者はちょっとまだ雲の上から戻ってないんだよ。ま、代理の私からでも言える事はある……あんた方、パチュリーさんを連れて行こうってのかね」
「もちろん無理強いはしないわ。パチェ、どうするの?」
「長らく留守にしていた居候を、また受け入れてくれると言うのなら……紅魔館に帰るわ、私。けれど、その前に」
「ああ、いや、お前さんの自由意思は問題じゃないんだよ」
てゐが、頭を掻いた。
「……あの子、どうするんだね? パチュリーさん」
意識は、とうの昔に戻っていた。
軽めの過労である。寝ていれば、嫌でも体調は戻ってしまう。
「私が眠っている間に……誰か、殺してくれれば……良かったのに……」
襖に背中を押し付けたまま、小悪魔は震えた。
パチュリーの傍に居られる。その甘美な夢を見ながら、死ぬ事が出来たのだ。誰かが、殺してくれたなら。
パチュリーが、連れ去られてしまう。その悪夢を見ながら、自分はここに取り残される。誰も殺してくれなかったせいで。
いや。本当に死にたいのなら、出て行けば良かったのだ。永遠亭の庭園、戦いの場に。
あの光の糸も、天使たちの弾幕も、小悪魔を容易く殺してくれただろう。
蓬莱山輝夜は、切り刻まれた。八意永琳は、天高く昇ったまま戻って来ない。
怯えながら、小悪魔は盗み見ているしかなかった。こうして永遠亭の一室から、邸外の戦場を。
何も、出来なかった。
何も出来ずにいる間、最も恐れていた事が起こった。最悪の悪夢が、現実の事態となった。
レミリア・スカーレットが、現れたのだ。
フランドール・スカーレットという恐怖を克服した悪魔が、永遠亭に押し入り、パチュリーを強奪せんとしている。
永琳も輝夜もいない。誰も、パチュリーを守ってはくれない。
「……私が……守る、の? パチュリー様を……あの、悪魔から……」
頭を抱えたまま、小悪魔は笑った。引きつる顔面を無理矢理、笑顔の形にした。
上手くいかなかった。
「……わたしが……まもる……? パチュリーさまを……レミリア・スカーレットから……」
何度、口にしてみても世迷い言にしかならない。
頭の中が、混沌としている。様々なものが、おぞましく渦巻いている。
その中から、たった1つの現実が浮かび上がって来る。
自分は今、パチュリー・ノーレッジを奪われようとしている。
それ以外の一切が、小悪魔の頭の中から消え失せた。
いや、最初からそれしか無かったのかも知れない。混沌としているようで、見つめるべきもの、立ち向かうべきものは、1つしか無かったのだ。
「…………ふ……ふふっ…………何を、恐がってるの? 私ったら……」
今度は、笑う事が出来た。
「パチュリー様を、失う……それ以外に恐いものなんて、あるはずないのに……」
自分は一瞬にして、レミリア・スカーレットに殺されるだろう。それは、しかし幸福である。
パチュリーのいない場所で延々と生き続ける事に比べたら、遥かに。
小悪魔は立ち上がった。レミリアのそれと比べて貧弱な翼を精一杯、広げた。
「……レミリア・スカーレット……私は、お前を殺す……」
世迷い言を、小悪魔は口にした。
そして襖を粉砕し、部屋を飛び出した。庭園へと向かってだ。
パチュリーがいる。レミリアがいる。他の大勢など、今や小悪魔の視界には入らなかった。
「世迷い言、上等……私は悪魔だ、世迷い言を現実に変えてやる! レミリア・スカーレット、お前を殺す!」
小悪魔の叫びに、何者かが応えた。
世界が、震えた。
あらゆるものを揺るがしながら、何者かが語りかけてきた。
『……休戦の約定は、期限を迎えた……小賢しきかな綿月豊姫、随分とくだらぬ時稼ぎをしてくれたもの……』
これほど恐ろしい声を、小悪魔は聞いた事がなかった。
『今より私は、月の都を攻める……だが、その前に。とても小さな、とても気になる声を聞いてしまった……』
巨大な指先が自分の身体を押し潰す様を、小悪魔は幻視した。
『強くは、ない……むしろ弱い、あまりにも哀れ……』
自分の事を言われているのだ、と小悪魔は思った。
あまりにも巨大な何者かが、あまりにも矮小なる自分に、興味を持ってしまった。
その興味だけで、自分など何万匹いようと押し潰される。
『だが、純粋……他には何も残らぬほどの純粋さが、鋭いほどに悲痛な叫びとなって私の心に突き刺さる……ああ、痛い。痛いよ……この痛みが、懐かしい……』
涙が見えた。
闇の中、涙の雫が雨のように滴り落ちる様を、小悪魔は確かに見た。
『…………誰かえ、そこにいるのは……』
「……私は、名無しの小悪魔」
小悪魔は、跪いていた。
姿の見えぬ何者かが、感心してくれたようである。
『そう、名前が無いのか……素晴らしい。名前という枷に囚われる前の、最も純粋な状態……お前ほど純粋なる力を、私は見た事がない』
「純粋……そんなはずはない。パチュリー様を奪われたくない……それは私の、おぞましき我欲」
『……奪われたく、ないのだね。守りたいのだね……』
何者かが、涙を流しながら微笑んでいる。
見えはしない。だが、わかるのだ。
これほど美しく、おぞましく、慈愛に満ちていながら残忍な笑顔は、恐らく宇宙に存在しない。
『その純粋なる思い……それ以外のものを、お前は今から全て失う』
力が、湧いてくる。
いや。自分が、力そのものに変わってゆく。
そんな事を、小悪魔は感じた。
『……純化である』
何故、という問いかけを小悪魔は飲み込んだ。
何でも構わない。レミリア・スカーレットをこの世から消去する力が、手に入るのなら。
『さあ戦うがいい、名無しの小悪魔。大切な誰かを、守り抜いてごらん。だが武運つたなく、その誰かを失ってしまったら……必ず、仇を討っておやり。私は、そのためならいくらでも力を貸してあげるからね』
優しい。おぞましいほどに、優しい。
このおぞましさが、悪魔にはふさわしい。
『だけど、出来れば守り抜いておくれ……私が永遠に失ってしまったもの、お前には大切にして欲しいよ……』