第4話 神霊の依り憑く月の姫
原作 上海アリス幻樂団
改変、独自設定その他諸々 小湊拓也
物干し竿のようなものが、キラキラと空中に出現した。
鞘を被った、長大な日本刀だった。
綿月依姫が、それを手に取って抜き放ち、構える。
すらりと長く優美な刀身が、夕刻の陽光を眩しく反射した。
いくらか間合いを取って、博麗霊夢は対峙している。博麗神社の境内で、長い抜き身を構えた月人の少女と。
その構えを見れば、わかる。卓抜した剣士であるのは間違いない。
だが剣技そのものは魂魄妖夢の方が上だ、と霊夢は見て取った。
お祓い棒を構える。紙垂が揺れる。
狛犬像が、台座の上で息を呑んでいる。
台座にもたれて座り込んだ伊吹萃香が、対峙を見物しながらニヤニヤと酔っ払っている。
妖夢の楼観剣よりも長い刀身が、やがてユラリと舞った。
斬撃が来るか、と霊夢が思った瞬間。
依姫は、その剣を地面に、石畳に、突き刺していた。
霊夢は跳躍した。寒気に似たものが、足元から這い上って来たからだ。
何本もの剣が、石畳から生えていた。
刃の檻であった。跳躍が一瞬でも遅れていたら、霊夢は閉じ込められていたであろう。
「なるほど……女神を閉じ込める、祇園様の力ね」
跳躍を飛翔に変え、空中から見下ろしながら、霊夢は言った。
「だけど残念。巫女を閉じ込める事は、出来なかったみたい」
「なるほど……空を飛ぶ能力、ね」
依姫は微笑み、剣を手放し、空中の霊夢に片手を向けた。
「祇園様のお怒りも、空を飛ぶ貴女を捕える事は出来ないかも知れない……ならば!」
形良い五指が、繊手が、優美な細腕そのものが、炎に変わった。そう見えた。
大蛇の如くうねり渦巻く炎が、空中まで伸びて霊夢を襲う。
「愛宕様の火……! だけどっ」
霊夢は、お祓い棒を振るった。紙垂が燃える事なく弧を描き、炎を粉砕する。
火の粉を蹴散らしながら霊夢は急降下を敢行し、依姫の眼前に着地した。
息を飲む依姫の喉元に、お祓い棒を突き付ける。
「祇園様に、愛宕様……ね。つまり、あんたも私と同じ」
「……そう。神々を降ろし、その力を借りる事が出来る」
俯き加減に、依姫は微笑んだ。自嘲の笑みだった。
「……祇園様も愛宕様も、私ごとき無様な巫女に、僅かな力をお情けで賜っただけ。貴女のような歴戦の巫女に、勝てるわけはないわね」
「おいおいおい綿月依姫」
萃香が文句を言った。
「おめえはアレか、月の都を離れちまうと全然ダメかい。あの無双っぷりはどこ行っちまったんだよ」
「……無双なのは神々の力であって、私ではない」
この両名は過去、弾幕戦で殺し合った事があるのだろう、と霊夢は思った。
「月を砕く鬼よ。あの時の私はな、なりふり構わず神々にすがっていたのだ。そうでなければ貴様に殺されていた」
依姫が、暗い目で萃香を睨んだ。
「そんな私を、8000000の神々は見放したもうた……今の私であれば、貴様の馬鹿力でひとたまりもなく殺せるぞ」
「ばっきゃろ、今そんな事したって意味ねえだろが」
萃香は、瓢箪の中身を呷った。
「あん時ゃあな、私らってぇ問答無用の侵略者がいたからなあ。おめえも本気で戦えたってワケか。月の都を守るためによ」
じろりと依姫を睨み返すその目が、あまり酔っ払っていないように霊夢には思えた。
「……月の都で、何があった?」
「……幻想郷、という場所か。ここは」
依姫は言った。
「守りを固めておけ。嫦娥が、ここを攻め滅ぼす」
「ほほう。私らのせいかな」
「あんなものを嫦娥が問題視すると思うのか。全く別の事だ」
「依姫さん、貴女……」
霊夢は、言葉を挟んだ。
「……誰かに、会いに行きたがっていたわよね。そう言えば」
「会わなければならない……だけど私は、あの方にお会いするのが恐い……」
依姫は、萃香からも霊夢からも目をそらせた。
「今の私は、きっと……あの方を、ひどく失望させてしまう……」
「……あんた、私の知ってる奴にそっくり。ちょっと前まで、ここで居候してた奴なんだけど」
霧の湖の方向を、霊夢は見つめた。睨んだ。
「そいつはね、今のあんたみたいに自信無くして、この神社で小動物みたいに過ごしてたんだけど……勝手に立ち直りやがって、まあ頭に来る奴なわけで。無理して立ち直る必要ないと思うわ、ゆっくりしていきなさいよ」
依姫は何も言わない。
言われずとも、わかる事はある。
この綿月依姫という少女は、戦いに敗れたのだ。
レミリア・スカーレットが、妹フランドールによってボロ雑巾の如く扱われたように。
自分・博麗霊夢も、そのフランドール・スカーレットには1度敗れた。西行寺幽々子には、一瞬にして殺された。
1度2度の敗北など気にするな、などと無責任な慰めを口にする事は出来ない。敗北とは、慰めで乗り越えるものではないからだ。
「博麗霊夢……貴女は私に、敗北と向き合うための時間をくれようとしているのね」
依姫が言う。
「……強いわ、貴女。敗北も何もかも、乗り越えて来たのね」
「……乗り越えてない。無様に負けた自分との折り合いなんて、ついちゃいないわ。まだ」
霊夢は、萃香を睨んだ。
「私、そこの酔っ払いにだって勝ててない」
「なあ綿月の妹。わかっただろうが、博麗霊夢はクソ強えぞ」
萃香が褒めてくれた、のだろうか。
「神様なんぞに頼らなくたってな、弾幕と腕っ節だけで鬼ともやり合える。ただまあ、それだけになあ……こいつ巫女のくせに神降ろしがてんでダメなのよ。祇園様や愛宕様なんて触る事だって出来ねえ。そこは自信持っていいぞ綿月の」
「ふん。私の神降ろし、見てみる?」
霊夢はステップを踏み、指を鳴らし、身を捻った。頭の中で音楽を流し、踊った。
2人の少女が、霊夢の左右で同じように踊っている。
「うっぐぐ……こ、この踊りを見せられると、ついつい出て来てしまう……」
秋穣子が、悔しがっている。
「ちょっと博麗の巫女! いい加減にしなさいよ、お祭りでもないのに呼び出して! 私たちはね、春だって夏だって暇じゃないんだから」
「……あら、鬼がいるわね」
秋静葉が気付いた。萃香が、片手を上げる。
「いよう秋神様。こないだの芋焼酎は絶品だったぜい」
こないだ、と言っても自分が生まれる前の話であろう、と霊夢は思った。
依姫が、恭しく一礼した。
「……幻想郷の神様方で、あらせられますか。綿月依姫と申します」
「あ……これはどうも御丁寧に。秋穣子と申します」
「姉の秋静葉です……貴女も、巫女さんね。それも本物」
「ちょっと、どういう意味よ」
文句を言いかけた霊夢に、静葉がちらりと視線を向ける。
「まさかとは思うけれど、神降ろしの腕を競っていたわけではないでしょうね? 私たちを呼ぶのが精一杯の貴女ではね、勝ち目はないわよ」
「そんな事はない……」
依姫の強靭な細腕が、秋姉妹を抱き寄せ抱き締めた。
「博麗霊夢、貴女は凄いわ……こんなに愛らしい、生身の神様方を降ろせるなんて……」
霊夢よりもずっと豊かな胸の膨らみが、姉妹の顔面に押し付けられる。
「私はね、神々の力の一部を身に宿らせるだけ。御姿の幻影で、敵を威嚇する事も出来る……だけど、こんなふうに触れ合える神様を降ろすなんて……ああ可愛らしい、柔らかい、甘くて良い匂い……」
依姫は、涙を流している。霊夢は、萃香と顔を見合わせた。
「月の都で……なあ、本当に何があったんだよ綿月の」
萃香が言った。
「答えにくいなら、まあいい。ただ、よっぽどの事なのは間違いねえな」
「私は……」
秋姉妹をひとまとめに抱擁しながら、依姫は泣きじゃくっている。
「……幻想郷に、迷惑をかけたくない……今、強くそう思った……月から降りて来るのではなかった……」
「降りて来ちゃったものは、しょうがないわね」
霊夢は頭を掻き、萃香は酒を呑んで言った。
「なあ依姫。おめえの場合とにかく神降ろしが不調のまんまじゃ二進も三進もいくめえよ。スキマを使えねえスキマ妖怪みてえなもんだ。今回とりあえず祇園様や愛宕様にゃ休んでもらってだな、幻想郷の神様方に力ぁ貸してもらっちゃどうだ」
「幻想郷の……神に……」
「呼びかけてみな。誰かしら、応えてくれると思うぜ」
依姫は秋姉妹を解放し、天を仰いだ。そして唱える。
「神威は嶽の如く、神恩は海の如し……慈悲深き幻想郷の神のどなたかに我、綿月依姫が希い奉る……この卑小なる身に、降り賜い宿り賜え……」
「だ、駄目」
顔を赤らめ、目を回し、よろめきながら、秋静葉が言った。
「そ、そんな呼びかけに……応えてくれる神様なんて……一柱しか、いないわ……」
もう遅い、と霊夢は感じた。
神が、博麗神社に降りて来た。月人の巫女の呼びかけに応じてだ。
弾幕だった。
赤、青、黄色、紫、緑……様々な色の光弾を、依姫が境内に拡散放射している。
色彩豊かな弾幕に心奪われかけながら、霊夢は全てをかわした。
萃香も、千鳥足で身を揺らしながら全てを回避している。
座り込んで抱き合い怯える秋姉妹を、色とりどりの光弾たちが避けて行く。依姫は、霊夢と萃香だけを狙っていた。
否、綿月依姫ではない。
『ふふ、幻想郷に慈悲深き神など……いるとしたら、そこの秋姉妹だけだ』
依姫の美しい唇から紡ぎ出されるそれは、しかし依姫の声でありながら、依姫の言葉ではなかった。
霊夢に向けられる依姫の瞳は、しかし依姫ではない何者かの眼光を放っている。
『博麗の巫女だな。八雲紫を、よくぞ叩きのめしてくれた』
「誰……」
霊夢は見た。一瞬の幻覚、であろうか。
依姫の背後に扉が出現し、開いた、ように見えたのだ。
扉を開いて出現した何者かが、依姫の肉体に宿り、霊夢と対峙している。
「幻想郷の、神様の誰か……なんでしょうけど、神降ろしの全然駄目な私じゃ誰かわかんない。名乗ってくれないと、どこの何様なのか不明のままよ。敬いようがない」
『博麗の巫女は、それでいいのさ。神に頼らず、自力の弾幕戦で全てに決着をつける……お前の戦いぶり、美味い肴にさせてもらっているよ』
「……あんた、あのスキマ妖怪と同じ臭いがするわね。背後で黒幕気取り、他人を駒にして将棋の名人気取り。気に入らないわ」
「やめて……口を慎みなさい、博麗の巫女……」
静葉が、続いて穣子が言った。
「ちょっと、そこの鬼! 何けしかけてるのよ、とんでもないのが来ちゃったじゃないのっ!」
「いやあ、大物が釣れたねえ」
萃香が、ニヤニヤと牙を剝く。
「しっかし、おめえさんも優しいよな。絶不調な巫女さんのお願い聞いて、後戸の国からわざわざお出ましたぁ」
『お前ならわかるだろう、月を砕く鬼よ。こやつが不調ではなくなった時、何が起こるのか』
言葉と共に依姫は、石畳から剣を引き抜いた。刃の檻が消え失せた。
『お前は……こやつのおかげで、月を砕き損ねた』
「……まあな」
『好機、と見るべきであろう。今こそが』
そんな事を言いながら依姫が、己の首筋に刃を当てる。
とっさに、霊夢は左腕を振るった。白い付け袖から、蛇のようなものが現れ伸びた。
博麗神社の、注連縄である。
それが、長大な抜き身の刀身にビシッと絡み付いた。
刃が、依姫のたおやかな首筋を引き斬る寸前であった。
「……あんた、もしかして自殺を司る神様とか?」
全力で注連縄を手繰り寄せながら、霊夢は言った。
「だとしても。私の目の前で、そんな事はさせない」
『悪い事は言わぬ……博麗の巫女よ、この娘は殺しておけ』
依姫ではない何者かが、依姫の口で言った。
『こやつが幻想郷に降りた時点で、お前は月人どもの権力闘争に巻き込まれている……この綿月依姫とは、いずれ戦う事となるだろう』
「ならその時、戦えばいいじゃない」
『戦う……だと』
得体の知れぬ神が、依姫の両眼で霊夢を睨む。
『おい博麗の巫女。貴様、立ち直った綿月依姫と尋常の勝負をする気でいるのか? 戦える気でいるのか……ものを知らぬ小娘が』
「その子の命が欲しいなら、まずはそこから出て来なさい。そして正々堂々の弾幕戦をやりなさい……まずは、私とね」
『ほう、貴様……神に、弾幕戦を挑もうと……?』
「あんたが一体、何の神様だってのよ……」
霊夢は呻いた。
呻きが、叫びに変わった。
「例えばね、そこの秋神様。紅葉の彩りを演出しながら土を肥やしてくれる、秋の実りをもたらしてくれる! 比べて、あんたは何よ? 幻想郷に住む人たちの役に立ってるわけ!? 人に取り憑いて自殺させるしか能のない役立たずが! いっぱしの神様面してんじゃなぁあああいッ!」
『…………』
霊夢を見据える両眼から、一切の感情が消えた。
依姫の中にいる何者かが、怒り狂っているのか。激怒を通り越し、冷たい殺意を固めてしまっているのか。霊夢にはわからない。
狛犬像が、台座の上から跳躍し、依姫と霊夢の間にしゅたっと着地して跪いた。
「この姿で……お目にかかるのは、初めてですね」
『やあ……』
口調に、優しさが表れた。
『立派な弾幕使いに、なったじゃないか』
「おかげ様を、もちまして……まあ弾幕は全然なんですけどね」
『ふふ、精進したまえ』
高麗野あうんが、霊夢の方を向いた。依姫の中にいる神を、背後に庇う格好である。
「あの、霊夢さん。この方は、おっしゃるような非道い神様じゃないんです。偉大な方なんです。何をしていらっしゃるのかと言いますとですね」
『まあまあ』
口調穏やかに神は、あうんの説明を封じた。
『……ひとつ訊こう博麗の巫女。私と戦ってまで、お前は何故この綿月依姫を守ろうとする?』
「博麗神社の居候は、私が守る。それだけよ」
『なるほど、私情に命を懸けるか』
再び、依姫の背後に扉が生じ、開いた、ように見えた。
『私が何の、いかなる神であるのかは、いずれ見せよう。恐らくは弾幕戦という形でな』
「異変、起こす気満々ってわけ?」
『しないしない。秋姉妹との約束さ』
姿なき神が、依姫の身体を離れ、扉の向こう側へと帰って行く。
『……月の姫巫女よ、博麗の巫女に学ぶが良い。ああでなければならぬ……神とはな、媚びへつらって助力をねだる相手ではない。気迫と霊力で圧倒し、言う事を聞かせるもの。平身低頭し希う、だけでは駄目なのだよ……』
扉が閉じた。扉もろとも、神は消えた。立ち去った。
長大な抜き身が、注連縄に引っ張られるまま石畳に落下した。
得物を手放しながら、依姫は意識を失っていた。その身体を、あうんが抱き止める。
霊夢は言った。
「狛犬の像を、生きた狛犬に変える……程度の能力と。そういうわけね」
「あの方の御力、だけではないですが」
依姫を抱き支えたまま、あうんは応えた。
「生みの親は誰か、と訊かれたら、私はあの方の御名を口にするでしょう……霊夢さんには、あの方とも仲良くして欲しいです」
「最低でも1度は弾幕戦をやって、生きていられたらね。仲良く出来るかもね」
言いつつ、霊夢は見下ろした。
萃香が、傍らから見上げてくる。
「……おめえは凄い奴だよ霊夢。あれに喧嘩売るってのは、ただ事じゃねえぞ」
「あれって何なの? 結局」
「幻想郷のな、いくつかある頭の1つよ」
「なるほど。幻想郷っていうのは、頭がいくつもある化け物なわけね」
「貴女は……」
静葉が、呆然と言った。
「巫女のくせに……幻想郷の神々に関して、何も知らないのね……」
姉妹そろって石畳に座り込み、互いを背もたれにしている。穣子の方は、まるで口から魂が出ているかのようだ。
そんな秋姉妹を、霊夢は助け起こした。
「ほら、しゃんとしなさい神様らしく」
「ああ……私、生きてるのね……」
うわ事のように呟く穣子の頭に、帽子を被せ直してやりながら、霊夢は空を見上げた。
夕刻の空。うっすらと、月が見える。
その月を、萃香が見上げている。睨んでいる。
酒気に乏しい、鋭い眼光だった。
「? どうしたの萃香、素面になっちゃった?」
「いや……あの月……」
口調も、いつになく真剣なものである。
「……何か、変じゃねえか? おかしいぞ、今日の月……」