第30話 穢れゆく永遠亭
原作 上海アリス幻樂団
改変、独自設定その他諸々 小湊拓也
魂魄妖夢は、ずぶ濡れになった。
「な……んだ、これは……」
水、ではない液体を、頭から浴びていた。
全身から、不思議な匂いが立ち昇って来る。謎めいた芳香を発する液体が、ぐっしょりと衣服に染み込んでいる。
酒、であった。
凄まじい量の酒が、雨となって永遠亭の庭園に降り注ぎ、ぶちまけられている。
酔っ払いそうになりつつも妖夢は踏みとどまり、酒まみれの顔面を片手で拭った。
視界は、回復している。ミスティア・ローレライの歌が、聞こえなくなったからだ。
ミスティアも、歌うどころではなくなっているのだろう。姿は見えないが、逃げ惑っているに違いない。リグル・ナイトバグもだ。
妖夢は身構え、見上げた。視界に収まらぬものが、そこにいた。
大量の酒を両眼から噴射する、巨大な怪物。永遠亭の一部を粉砕しながら、暴れている。
伊吹萃香だった。
「……貴様の体液、全て酒か?」
妖夢は呟いた。
そんなものが聞こえているはずもなく萃香は、酒の涙を流しながら吼えている。慟哭あるいは怒号。その響きが、地面を揺るがす。
1人、空から落ちて来た。
「く……ッ!」
藤原妹紅だった。地面に激突する寸前くるりと着地し、上空を睨む。
美し過ぎる満月を背景に、1人の天女が夜空に佇んでいた。光の果実を生らせた枝を片手に、こちらを見下ろしている。
「永琳の言う通り……確かに、新しい段階に達したのは認めてあげるわ。妹紅」
天女、としか表現し得ぬ少女であった。尊大な口調で地上に語りかける、その姿が威圧的に美しい。
「けれど、それは虫が脱皮したようなもの。だらだらと長生きをして、やっと皮一枚! 貴女はねえ、不死鳥の真似をする滑稽な羽虫のままよ。私から見れば、ずっとそう」
蓬莱山輝夜。永遠亭の主。
弾幕使いとしての力量は、西行寺幽々子に匹敵しうるのではないか、と妖夢は見た。
「……いいわ。羽虫は羽虫なりに精一杯、飛んでごらんなさい。私はここよ、届くかしら?」
笑う輝夜の左右に、それぞれ1人ずつ、弾幕使いが控えている。
右側にパチュリー・ノーレッジ。左側に博麗霊夢。両側から、輝夜を護衛している。
パチュリーと弾幕戦を繰り広げていたアリス・マーガトロイドが、妹紅の傍らにふわりと着地した。
「輝夜さん、だったわね。貴女のお名前、聞いているわよ。月から来た兎さんが言っていたわ」
「ふふん、玉兎が来ているのね」
「月の兵隊を引き連れて……貴女を、捕えにね。私、訊かれたわ。蓬莱山輝夜をどこに匿っているのか、と」
「そう……月の軍勢が、いよいよ私を捕えに」
輝夜の美貌から、笑みが消えた。
「……どうするの? 私を引き渡す?」
「魔理沙は……そんな事を、しない」
アリスは言った。
「誰かの身柄を、差し出すなんて……」
「私を、守ってくれるとでも?」
「貴女の事なんて、どうでもいいわ。他人を犠牲に保身を図るなんて、魔理沙なら絶対にしない。だから私もしない。それだけよ」
「……貴女には、自分というものが無いの? まるで月人のように」
輝夜が、問いかけを降らせてくる。
「自分自身が存在しない、だからその魔理沙さんとやらの真似しか出来ない。そう見えてしまうわ」
「自分自身が……無かったら、いいわね。楽よね」
アリスが微笑む。自嘲、のようだ。
「あの、空っぽの兵隊さんたちのように……私も、なりたいわ。中途半端に自分自身なんてものが残っていたせいで」
人形を1体、アリスは傍らに浮かべている。
「私……本当にね、大変な思いをしてきたのよ。月から来た人に、わかってもらえるかどうかはあれだけど」
「わかるわ……」
輝夜の口調に、妙な熱が籠もった。
「貴女の、それは……駄目、絶対に捨ててはいけないものよ。それを捨てて月人のようになりたい、なんて……駄目、絶対に」
「月の軍勢が、幻想郷に攻めて来る」
アリスは言った。
「その原因が貴女にあるのだとしても……ねえ輝夜さん、何故かしら。貴女の身柄を差し出しただけで、その脅威が永遠に去ってくれるとは私には思えないのよ。何か脅威が迫る度に、誰かを人身御供にする。それでは最終的に、何も守れなくなる。どこかで抗って、戦わなければ……何も守れない敗者のまま、私のように……ああ、それはそれで楽かも知れないけれど……」
「……いいわ、貴女。穢れている」
輝夜の美貌に、笑みが戻った。
「それを、どうか捨てないで。お願いよ」
「お願い、だと……お前が他人に、お願いだと」
妹紅が言った。
「大した人間的成長じゃないか。だらだらと長生きをして、やっと一皮むけたのはお前も同じだなぁ輝夜……次は、敗北を経て成長してみろ。私がお前をぶちのめす。月になんか帰らせない」
「私は、藤原妹紅に協力する。蓬莱山輝夜、お前に恨みがあるわけではないが」
両手で、妖夢は楼観剣を構えた。白楼剣は、リグル・ナイトバグに蹴り飛ばされたまま行方不明である。
「藤原妹紅には……頼み事を、しなければならない」
そのリグルは、ミスティア・ローレライと共に、鈴仙・優曇華院・イナバの傍らにいた。
3名とも、主君たる蓬莱山輝夜とは微妙に距離を置いている、ように見えた。いつでも逃げ出せる位置。妖夢には、そう思えた。
だが、鈴仙は逃げようとしない。鋭く輝く真紅の瞳は、何かを見極めようとしている。見逃すまいとしている。
恐らくは、機会を。
(何を……狙っている? 鈴仙、貴様……)
博麗霊夢を、永遠亭に引き込む。鈴仙がそれを行った事によって、何が起こったか。
戦いが、激化した。それに尽きる、と妖夢は思う。
(激化した戦いに、永遠亭そのものを巻き込む……それが目的か? 貴様……永遠亭を、裏切るのか?)
「返せ……」
萃香が呻き、吼えた。
「霊夢をよォ、返しやがれオイごるぁああああああああああッッ!」
地面、だけでなく空間が、震えた。空を飛ぶ者たちをも揺るがす震動。
空中でよろめくパチュリーをそっと抱き支えながら輝夜は、
「いいわ、貴女たち……とっても、素敵よ」
本当に、幸せそうにしている。
「各々、自分だけの穢れを持っている……穢れを燃えたぎらせて、私に戦いを挑んでいる」
「違う……私は、貴女と戦いたいわけではないわ」
アリスが訴えかける。
「月の軍勢と戦うために……貴女たちと、協力を」
「力を見せて。もっと、貴女たちの力を……貴女たちの、穢れを」
永遠亭が、消えた。迷いの竹林も、消え失せた。妖夢には、そう見えた。
「月の民が、失ってしまったもの……地上には、こんなに……たくさん……」
宇宙だった。月が、浮かんでいる。隕石孔で彩られた、荒涼たる天体。
それを背にして天女の如く浮遊しながら、
「私……地上に降りて来て、幻想郷に流れ着いて……本当に、良かった……」
輝夜は、泣いていた。
宇宙に飛散する涙の煌めきが、そのまま弾幕に変わった。
「ああ、燃える……燃えるわ、私! 今! 宇宙で一番、幸せよ!」
色とりどりの光弾の雨が、降り注ぐ。
宇宙も月も、一瞬の幻覚だった。妖夢の周囲には、迷いの竹林の夜景があった。輝夜の弾幕が、永遠亭の庭園を穿つ。
妖夢は小刻みに跳び、かわした。アリスは、人形たちに盾を掲げさせ、光弾の雨を防いだ。
回避も防御もせずに、萃香が跳躍する。地面が粉砕され、砂利や土が大量に舞い上がる。
巨大な全身あちこちに、輝夜の光弾をぱちぱちと喰らいながら、萃香は拳を突き上げた。
巨岩の如き拳を、輝夜が、パチュリーが、霊夢が、それぞれ別方向にふわりと回避する。
他2名を無視して、萃香は霊夢と向き合っていた。跳躍がそのまま飛翔に変わり、鬼の巨体が空中にとどまる。
「霊夢……なあ、おい霊夢ぅ……」
酒の涙を地上に降らせながら、萃香は呻く。
「おめえよ、悪い酒でも飲んで……悪い酔っ払い方でも、してんのかよぉ……」
「凶悪敵性体、排除する……」
霊夢の両眼が、鈴仙と同じく真紅の光を放っている。
「鈴仙隊長のために……輝夜様の、御ために……月に御座す、高貴で永遠の御方のために」
「違う! 違うだろ霊夢。おめえが守んなきゃいけねえのは、そんなもんじゃねえ! 幻想郷だ!」
口の周りでチロチロと吐息を発火させながら、萃香は叫ぶ。
「私ゃあのくそったれスキマ妖怪たぁ違うからな、私情に走るなとは言わねえよ。個人的にムカついたから誰かぶちのめす、気に入った奴1人か2人を助ける、そのついでに幻想郷を守る。おめえはそれでいいんだよ霊夢! てめえでもワケわかってねえモンのためになんざぁ、戦ってんじゃねええええッッ!」
巨大な拳で手加減なく、霊夢に殴りかかって行く萃香。人と小動物ほどの体格差がある。直撃すれば、霊夢は原形を失うのではないか、と妖夢は思う。
そんな事にはならない、と萃香は信じて疑っていない様子である。
巨大隕石のような拳は、しかし霊夢には届かなかった。霊夢が回避した、わけではない。
萃香の巨体が、硬直していた。
巨大な鞠の中に、萃香は閉じ込められている。そう見える。
光で出来た、鞠。
無数の光弾が、複雑に渦を巻きながら、巨大な球形を成しているのだ。
色彩豊かな鞠状の弾幕が、萃香を閉じ込めていた。
光の鞠が、急速に縮んでゆく。
光弾の嵐が、球状に渦巻きながら、萃香の巨大な全身あちこちを直撃していた。まるで巨体を削り取るかのように。
「ぐっ……てめ……」
血飛沫を散らせながら、萃香は見上げた。高空を睨んだ。
「月を砕く鬼……貴女の相手は、私よ」
八意永琳が、そこにいた。左手で長弓を携えたまま、右掌を萃香に向けて球形弾幕を操っている。
「私に勝てたら、博麗霊夢を正気に戻してあげる。さあ、ついて来なさい」
「へっ……鬼相手の口約束をよォ、破ったらどうなるか! わかってンだろーなぁああああああああ!」
永琳が上昇して行く。萃香が、それを追う。弾幕の鞠を巨体で蹴散らし、飛翔する。
輝夜が叫んだ。
「ちょっと永琳! 私の遊び相手を1人、勝手に持って行かないで!」
「遊んでいる場合ではないのよ輝夜。不変の結界を、守りなさい」
永琳の声が、姿が、上空へと遠ざかって行く。追撃する萃香と共にだ。
見上げ見送りながら輝夜が、
「ふん……言われなくたって、わかってるわよ」
光の果実を生らせた木の枝を、ふわりと手放した。
手放された枝が、ふわふわと降下しながら淡く発光し、その光を永遠亭の敷地全域に降らせてゆく。
「まさか、私の結界を……殴って叩き割るような子がいるなんて。あれが月を砕く鬼、ね」
萃香が叩き割った、らしい結界が、その光によって修復・補強されてゆくのを妖夢は感じた。
「その蓬莱の玉の枝にはね、私の力のかなりの部分を宿してある。それは不変の結界の維持に使わなければならない……言っている意味が、わかるかしら?」
「自分は本気で戦えない、とでも……!?」
妹紅が、飛び蹴りで突っ込んで行く。
「負けた時の言い訳か、見下げ果てた奴!」
「本気を出させてごらんなさいと、そう言っているのよ」
飛び蹴り、前蹴り、回し蹴り、踵落とし。妹紅の長い脚が、様々な形に躍動する。
全てをかわしながら、輝夜は笑う。ひらひらと舞う広い袖で、妹紅の蹴りをことごとく受け流しているようでもある。
「結界を維持する余裕を、私から奪う事が出来るかしら? ねえ妹紅。貴女、私から何か奪う事が出来るの?」
「魂魄妖夢、頼む!」
跳躍しようとした妖夢の挙動を、妹紅は感じ取ったようである。
「私に協力してくれようってのは嬉しい。が……頼む。こいつとは、私1人でやらせてくれ」
「……わかった」
入り込んではならぬものを、妖夢は感じずにはいられなかった。
少し離れた所では、アリスとパチュリーが空中戦に入っている。
「わかっているのでしょう、アリス・マーガトロイド……貴女が協力を求めた相手はね、とてつもない存在なのよ」
パチュリーが、周囲にいくつもの魔法陣を出現させていた。
「永遠亭側が、貴女たちと協力する事に一体どんな利点を見出してくれるのかしらね」
「力を……私たちが、力を見せるしかないという事?」
それら魔法陣から噴出する光弾や光線を、かわし、あるいは人形たちに盾で防御させながら、アリスは言った。
「戦いたくない、のに戦うしかない……」
「戦わなければ駄目。貴女も私も、あの方の御声を聞いてしまったのだから」
こちらにも入り込めない、と妖夢は思った。魔法使い同士でしか、わかり合えない何かがある。
「つまり……」
妖夢は見上げた。
霊夢が、真紅の瞳で見下ろしてくる。
「私が……最も難儀な仕事を、割り当てられてしまったと。そういう事かな」
「敵性体……排除する……」
右手にお祓い棒、左手には呪符の束。左右には、ぼんやりと発光しつつ浮遊する2つの陰陽玉。
博麗の巫女は今、完全なる妖怪退治の姿勢で、妖夢と睨み合っているのだ。
「……あの時と、同じようなものか」
楼観剣を構え、半霊を周囲にうねらせ、妖夢は呟いた。
「潜在能力の塊が、最も純度の高い状態にある……だが貴様は死んでいるわけではないから、この半霊で操る事も出来ない。まさしく難儀」
「敵性体……排除する……」
「わかっているのか博麗霊夢。貴様は今、死んでいるようなものだぞ……良いのか、それで」
妖夢の言葉に、何者かが応えた。
「……良くは、ないわね」
先程、萃香が破壊した場所とは別の一角。
そこで、1人の女が縁側に腰を下ろし、優雅にお茶を飲んでいる。
「無理に元に戻そうとしたら、霊夢を殺してしまうかも知れない……私はそう思っていたけれど。そんな気遣いを、している場合ではなさそうね」
「お茶を飲んでる場合でもないと思うんだけどね、見た感じ」
傍らに1人、兎の少女がいる。確か、因幡てゐと呼ばれていた個体だ。
「まったく誰だい、お前さんは。勝手に人んちの縁側に座り込んで。あんまり自然に堂々とのんびりしてるもんだから、ついついお茶なんか出しちゃったよ。ぬらりひょんだね、まるで。アレの正体って、実はあんたじゃないのかね」
「さあ、どうかしら」
妖夢は息を呑んだ。
「八雲紫……! 貴様、何故このような所に」
「ようやく永遠亭の敷地内にスキマを開く事が出来たわ。不変の結界が、一瞬だけ弱まったから……いい仕事をしたわね、萃香。まさか、この結界を破壊するだけの力を獲得してくれるとは」
夜の上空へと遠ざかって行く萃香の巨体を、八雲紫はちらりと見上げた。
「不変の結界を守るため、八意永琳は萃香を永遠亭から遠ざけた。今この場には両名とも不在……さあ、それが果たして吉と出るか凶と出るか」
「相変わらずの悪巧みと暗躍気取りかスキマ妖怪。私はな、貴様のそういうところが」
言いかけた妖夢に、傍から刃物が突き付けられた。
白楼剣だった。
「落し物だ。気を付けろ」
「…………すまん、感謝する」
いくらか気に入らずとも、そう言うしかないまま妖夢は、八雲藍の手から白楼剣を受け取った。
九尾の妖獣と、二刀の剣士。並んで、博麗の巫女を見上げる格好となった。
「私も紫様も、博麗霊夢を死なせたくはない。死なせるわけにはいかん」
藍は言った。
「が、どうやらそれは思い上がりであるようだ。この場にいる全員が束になったところで……今の博麗霊夢を殺してしまう心配など、微塵もない。だから叩きのめして正気に戻す。力を貸せ、魂魄妖夢」