第3話 宇宙の光
原作 上海アリス幻樂団
改変、独自設定その他諸々 小湊拓也
パチュリー・ノーレッジが太ってきた。
などと言ったら、意識を取り戻したパチュリーに殺されてしまうかも知れない。幸いにと言うべきか、パチュリーはまだ眠っている。危険な昏睡状態ではなく、ただ眠っているだけだ。
白い、着流しの寝間着を着せられ、清潔な布団を被せられている。
穏やかな寝顔は血色が良く、太ったと言うよりも、パチュリー本来のふくよかさを完全に取り戻したようである。
「そう遠くないうちに、目が覚めるとは思うけれど……」
何やら医療品の入った小箱をパタンと閉じながら、八意永琳は言った。
「念のため。無理矢理に起こすような事をしては駄目よ」
「は、はい。わかりました」
畳の上で正座をしたまま、小悪魔は応えた。
永遠亭の、一室である。
障子は開け放たれており、庭園が見える。竹林が見える。
小悪魔とパチュリーが、今泉影狼に連れられて迷いの竹林を訪れたのは、夜間であった。
月夜と竹林。その完璧なる調和に、小悪魔は圧倒されたものである。迷いの竹林の、朝昼の風景というものを、まるで想像出来ないほどに。
そして今。迷いの竹林の、真昼の風景が、小悪魔の視界内に広がっている。
完璧なる調和が、ここにもあった。
吸血鬼にとっての太陽ほど致命的ではないにせよ、悪魔族にとっても、陽の光とは決して心地良いものではない。
不快な日光が、高々と生い茂る竹の枝葉に濾過される事で、悪魔にとっても涼やかで心地良いものとして地上に、室内に、降り注いで来る。
小悪魔は、そう感じた。
この涼やかで清浄な光と空気こそが、今のパチュリー・ノーレッジには必要なのだ、とも。
「あの、八意先生……」
小悪魔は正座をしたまま、畳に両手をついた。
「パチュリー様を、助けていただいて……本当に、ありがとうございます」
「私の個人的感情よ。この子はね、ちょっと放っておけないわ」
永琳の優美な両手が、パチュリーの弱々しくたおやかな片手を包み込む。
「魔法を究める……ただ、それだけのために生きてきたのねパチュリー・ノーレッジ。病弱な己の身体を、顧みる事もなく……無理な延命を重ねて、命を伸ばしながら命を削り、命を燃やし……ただ、魔法を究めるために……この弱々しい身体で……」
永琳の声が、微かに震えている、ようである。
「…………何て、痛ましい……」
永琳が目を閉じた。
綺麗な頰を、一筋だけ涙がつたう。
この八意永琳という女性は、パチュリーのために涙を流してくれた。
スカーレット姉妹にも、十六夜咲夜にも紅美鈴にも見捨てられた、パチュリー・ノーレッジのために。
「……ごめんなさいね。歳のせいかしら、このところ涙腺が……ね」
涙を拭いながら、永琳は微笑んだ。彼女の年齢など、見ただけではわからない。
意識のないパチュリーに、八意永琳は様々な薬を投与し、栄養を注入してくれた。
小悪魔に出来た事など、何もなかった。動けぬパチュリーの身体を、洗い清めただけである。
「小悪魔さん。書類の整理を手伝ってくれて、ありがとうね」
永琳が言った。昨夜、そんな事を確かにした。
「完璧だったわよ。貴女、なかなか手際がいいのね」
「そ、そうでしょうか……」
「何と言うか、人間の召使いとして働く事に慣れているわね。悪魔って、そういう種族なのかしら?」
「……弱い悪魔は、そうして生きるしかないんです。力ある魔法使いに使役されて……だけど、私を使って下さるのはパチュリー様ですから」
俯き加減に、小悪魔は言った。
「……私、幸せです」
「忘れないでね小悪魔さん。この子に最も必要な存在は、私たちではなく貴女よ」
小悪魔にとって、あまりにも重いお世辞であった。
「先の事なんて、わからないでしょうけど。短くとも、この子が普通に外を出歩けるようになるまでは……この永遠亭で、私たちの仕事を手伝ってくれると助かるわ」
「……大した事は、出来ませんが」
「貴女なら、あの子たちとも上手くやっていける」
庭で、兎が跳ねた。いや、兎ではなく少女か。白い、ふわふわとした装いの少女たち。
紅魔館の妖精メイドと、同じような存在である。永遠亭にのみ存在する妖精たち。
「まあ何と言うか……ちょっと面倒な子が1人いるけれど、貴女なら大丈夫」
「……因幡てゐ、さん。ですか?」
「あれは、ただ並外れて打算的なだけよ。それさえ把握していれば、あんなに扱いやすい子もいないわ」
苦笑、に近い表情を永琳は浮かべた。
「あのイナバの長とは別に、ね……まあ、いずれ顔合わせをしましょう」
言いつつ、立ち上がる。
「貴女が手伝ってくれたおかげで、野暮用を済ませる時間が出来たわ」
「御用でしたら、私も……」
「野暮用と言ったでしょう? 誰かに手伝わせる事ではないのよ。貴女は、この子の傍にいてあげなさい」
永琳は部屋を出た。もう1つ、言葉を残してだ。
「……心配ないとは思うけれど、何かあったら大騒ぎをしてちょうだい。イナバの誰かが私を呼びに来ると思うから」
イナバ、というのが、あの兎の姿をした妖精たちの種族名なのであろう。
その長が、因幡てゐ。
彼女とは別に、要注意人物が1人いるらしい。
どのような何者であるのかは不明だが、パチュリーに危害を加えるようであれば戦うまでだ。
小悪魔は思い定め、見つめた。目の前で眠る少女の、透き通るような美貌を。ふっくらと布団を盛り上げた胸が、規則正しく上下する様を。
穏やかな、寝顔と寝息。
少し揺り動かせば目覚めてくれそう、ではある。
目覚めさせてはならない、と小悪魔は思った。存分に、眠らせておくべきであった。休ませるべきであった。
レミリア・スカーレットという専制君主のために、パチュリーは今までずっと命を削り続けてきたのだ。
紅魔館とは、これで縁を切る事が出来た、と考えて良いのであろうか。
まだだ、と小悪魔は思った。地下図書館。あの膨大な蔵書を、パチュリーは紅魔館から取り戻したいと願うかも知れない。
紅魔館は紅魔館で、この先パチュリー・ノーレッジを放っておいてくれるだろうか。スカーレット家の暴君が、裏切り者は許さない、などと考えてパチュリーの命を狙ったとしたら。
この永遠亭は、あの八意永琳は、パチュリーを守ってくれるのだろうか。
「私の……立ち回り方次第、よね」
小悪魔は呟き、パチュリーの寝顔に見入った。
いくらかは健康を取り戻した、とは言え、相変わらず透明な美貌である。こうして見つめ続けていないと、目を離した瞬間に消えてしまいそうだ。
否。消えたのは自分だ、と小悪魔は感じた。自分の身体が、砕け散って消し飛んだ。そんな感覚である。
凄まじい光、であった。
卑小な悪魔を一瞬にして消滅させる、宇宙的光輝。
小悪魔は、座ったままよろめいた。正座が崩れた。
「あら、ごめんなさい。驚かせてしまったかしら」
珠を転がすような声、というものが本当にあるとしたら、これであろう。
1人の少女が、回廊の方から部屋を覗き込んでいる。
艶やかな黒髪と、白皙の美貌。その対比が鮮烈である。
自分の身体が、砕け散っていない。消し飛んでいない。消滅していない。それを小悪魔は、まず確認した。
魂は、しかし今にも吹っ飛んでしまいそうである。
この少女の笑顔は、悪魔の目には、それほどまでに眩しい。
「あっ……あの……」
小悪魔は、慌てて立ち上がろうとした。
白く優美な繊手を軽く上げて、それを制しながら、少女は部屋に入って来てフワリと座った。黒髪が、柔らかく舞い上がった。
「堅苦しいのは無しでいきましょう……ねえ。あの赤い霧を出していたのは、貴女たち?」
「も、申し訳ございません。こちらにまで御迷惑を……」
「もう少し長引いていたらね、永遠亭から戦力を派遣しようかと思っていたところよ」
姫の御所。八意永琳は、この永遠亭を最初そう呼んだ。
姫とは、この少女か。
「永琳が気にかけている急患、というのは……この子ね」
姫君とおぼしき少女が、興味深げにパチュリーの寝顔を見つめている。
その眼差しが、小悪魔に向けられた。
「この子のために……貴女、永琳に弾幕戦を挑んだんですって? 宇宙的規模の勇者ねえ」
「……八意先生には全く、お相手をしていただけませんでした」
「うふふ。弾幕戦なら今度、私が手ほどきをしてあげる」
勝てない、と小悪魔は即座に確信した。この姫君を相手に弾幕戦をしたら、自分など1秒も保たない。
「命がけで、貴女……この子を守りたいのね」
宇宙的光輝そのものの少女が、微笑んだ。
「私そういうお話が大好き! ねえ。もっと貴女たちのお話、聞かせて欲しいわ」
大勢の人間を、慈しみ、愛した。その人間たちは、ことごとく死んでいった。
西行寺幽々子が覚えている限り、死なずにいられた人間は3人だけである。
1人は魂魄妖忌。1人は、彼と結ばれた女性。
死が彼女に及ぶ前に、妖忌が決着をつけてくれたのだ。
そしてもう1人は、炎を操る妖怪退治人の少女。
「本当に……死ななかったわね、貴女……」
葉桜ですらない裸の巨木を見上げながら幽々子は、今この場にいない少女に語りかけていた。
花を咲かせず葉を開く事もなく西行妖は、その巨大な根元に何かを封じ込めている。どろどろと汚れていながら、ぎらぎらと輝きをくすぶらせる、禍々しい何かを。
「それを……貴女なら、焼き滅ぼしてくれるかも知れない……」
脳裏に、記憶が蘇る。全身に、熱さが蘇る。
幽々子の、全てを焼き尽くす炎だった。どろどろと渦巻き、ぎらぎらと燃え輝く、生命と激情の滾りを宿した炎。
あの戦いを、自分は一体どのようにして生き延びたのか。幽々子は思い出せなかった。
「……きっと、貴方が助けてくれたのよね。妖忌……」
西行妖の巨大な根に、たおやかな片手を触れながら、幽々子は目を閉じた。
岩石のような樹皮の奥から、禍々しくも懐かしいものが伝わって来る。
西行妖が、これを封じてくれている。
その封印を、いつか自力で打ち破り、それは必ず現れ出でるだろう。そして幻想郷に……否。この冥界と繋がる様々な世界に、死を振りまく。
「貴女なら……」
記憶の中、炎の翼を広げて不死鳥の如く舞う少女に、幽々子はなおも語りかけた。
「貴女なら……これを、滅ぼしてくれる……魔を祓う炎で……」
幽々子は目を開いた。背後に、気配を感じたのだ。
巨大な人魂を従えた少女剣士が、そこにいた。
「幻想郷へ、行かれるのですか」
「……よくもまあ、わかってしまうものね」
「幽々子様は、旅に出ようとしておられます。そのくらいは、わかります」
魂魄妖夢が、じっと強い眼差しを向けてくる。
「無論、お供いたしますよ」
「妖夢、貴女は……」
拒む資格など自分にはない、と幽々子は思うしかなかった。
先の異変で、自分は妖夢に助けられた。幽々子を助けるために妖夢は、別に遭う必要のなかった酷い目に遭った。
自分は妖夢にとって、独り立ちの出来ない主なのである。あの様では当然と言える。
「……白玉楼を、空けて行く事になるわ。冥界の管理者としての役目を、放り出して」
言っても仕方のない事を、幽々子は言った。
「私のせいで妖夢まで、ヤマザナドゥ閣下のお叱りを受ける事に」
「私の主は幽々子様です。あのような口ばかりの地蔵ごときに、何を言われたところで」
「……言葉を慎みなさい妖夢。貴女はね、あの方の本当の恐さをまだ知らないだけ」
端麗な唇の前で、幽々子は人差し指を立てた。
「是非曲直庁が動く前に、片付けてしまいたいところ……行きましょうか、妖夢」
「はっ」
「……何をするために行くのか、訊こうともしないのね。貴女は」
「八雲紫の言う、次の異変なるものが起こるのでは?」
「そう……ね。それもあったわ」
幽々子は苦笑した。
今、幻想郷へ行ったら、流れに巻き込まれる感じに異変解決へ協力させられるような気がする。
「紫は本当に、巻き込むのが上手だから……まあ、そうなったらそうなった時の事。差し当たり私は、私の目的で動くわよ」
あの少女がいるとしたら、外の世界ではなく幻想郷であろう。
幻想郷は、彼女のような存在を隔離しておくための牢獄なのだ。
(魂魄妖忌の、血と魂と剣を受け継ぐ者が……貴女に会いに行くわよ、藤原妹紅……)
部屋に戻ると、輝夜が泣いていた。
小悪魔が、おろおろしている。
「や、八意先生……あの……」
「……小悪魔さん。貴女、何かいいお話をしたわね」
八意永琳は言った。
「この子はね、私よりずっと若いくせに、私よりずっと涙腺が弱いのよねえ……ほら姫様、患者さんの前ですよ」
患者であるパチュリー・ノーレッジはしかし、少し騒いだ程度では目覚めそうにないほど深い眠りに落ちている。
「えっ永琳! 私……私ね……」
蓬莱山輝夜が泣きじゃくり、小悪魔がハンカチで甲斐甲斐しく涙を拭う。
「ありがとう小悪魔さん……あのね永琳。私、今すごく感動してるの! 地上へ降りて来て本当に良かったと思う。ただ1人、パチュリーさんの事だけを思う心! 月の都の連中が知らないものを私また1つ見つけた!」
輝夜の美しい両手五指が、小悪魔の片手をきゅっと握り包んだ。
「……私たちに任せてね。その紅魔館とかいう輩に、パチュリーさんを渡しはしないわ」
「輝夜様……あ、ありがとうございます」
「やるわよ永琳。私たちの、永遠亭の総力を挙げて! パチュリーさんと小悪魔さんを守るのよ!」
輝夜の、まるで晴れ渡った星空の如く澄んだ瞳が、キラキラと輝きながらゴォオオッ! と燃え上がる。
「心! それは月の都の住人どもが、穢れと呼んで嘲り切り捨てるもの。だけど私たちはそれを守る! 月では穢れと呼ばれるものが、実は暗黒の宇宙を照らすほど燦然たる輝きである事を! 私たちがっ! 証明するのよ! うぉおおおおおおおお燃えるぅーッ!」
「……静かになさい姫様。患者さんが寝ているのよ」
パチュリーは、しかし輝夜が騒いだくらいでは目を覚まさない。
「あの、八意先生……」
小悪魔が、声を潜めた。
「先程おっしゃった、少し面倒な方というのが……」
「ああ輝夜は違うわよ。まあ、この子はこの子で面倒なところが無いわけではないけれど」
永琳は言った。
「この姫様はね、私が知る限り……宇宙で最も、わかりやすい子よ」