第2話 失われた歴史
原作 上海アリス幻樂団
改変、独自設定その他諸々 小湊拓也
スカーレット姉妹が和解を果たしたと言うのに結局、仲直りの花見宴会は出来なかった。
紅魔館は今、宴会どころではない。パチュリー・ノーレッジが行方知れずのままなのである。
いや、行方なら判明している……と、言えるのだろうか。
彼女は今、迷いの竹林で養生の日々を送っているはずであった。
(ま、しょうがない。仲直りの、月見宴会でも雪見宴会でもいい。焦らず、なパチュリー)
葉桜を見上げながら、霧雨魔理沙は心の中で語りかけた。
人里。運河の傍の、桜並木である。花見の時季はとうに過ぎ、青々としている。
並木道を行き交う人々は皆、心なしか忙しそうである。仕事の最中、外回りの最中という者も多かろう。
人間とは本来、忙しい生き物なのだ、と魔理沙は思った。魔法の森で一人暮らしなどしていると、人の営みというものを忘れがちである。
魔法の研究と実験と弾幕戦。そんな日々を、魔理沙は送っている。気がついたら、人間ではない知り合いの方が多くなってしまった。
自分は魔法使い、弾幕使いという、もはや人間とは別種の生命体なのではないか、と思う時もある。
そんな時。こうして森近霖之助と一緒にいると、安堵に近いものを覚えてしまう。
「ああ、私……人間なんだなぁ、って」
「何の話だい?」
「何でもなーい」
歩きながら魔理沙は、くるりと身を翻した。何やら心が弾む。運河の橋の欄干に、つい飛び乗ってしまいたくなる。
「それより奇遇だな、こーりん。こんな所で会うなんて……何。今、香霖堂に誰もいないわけ? 言ってくれれば私が留守番するのに」
「ははは、そんな危ない事は出来ないな」
「どういう意味だよう」
魔理沙は頬を膨らませる。霖之助は笑う。
昔は、こんな感じのやりとりばかりをしていたものだ。
「魔理沙は、人里に何か用事が?」
「うん、まあ……ちょっと気分転換を、と思ってさ。マジックミサイルの改良に行き詰まっちゃって」
弾んでいた心が一気に萎縮してゆくのを、魔理沙は懸命に隠した。
マジックミサイルの改良に取りかかっているのは事実である。思うように進んでいない、のも確かだ。
だが、霖之助には見抜かれた。
「……これで、何度目かな」
「な、何がだよ」
「魔理沙が、親父さんに会いに行こうとして行けなくて、人里をうろうろしている間に日が暮れる。今日はまあ、日が暮れる前に僕と会ったね。ちょうどいい、一緒に行こうか」
「……こーりんのな、そういうとこが許せないんだよ」
魔理沙は、帽子で顔を隠す感じに俯いた。
「僕は僕で、霧雨店に用事があってね」
魔理沙の実家の店名を、霖之助は口にした。
「親父さん、心配しているぞ。魔理沙の事」
「……私だって心配してるぜ。親父の奴、だいぶガタが来てんじゃない? 足腰とかに」
「自分で歩いて、お得意先を回ったりしているよ。少なくとも僕よりは健脚だね」
霖之助は笑った。
「そのうち、魔法の森まで歩いて行くかも知れないよ」
「こーりんが止めてくれよ」
「うん、僕が霧雨魔法店まで連れて行くかもね」
「やめろって」
父親とは、実につまらない喧嘩をした、と今ならば思う。
「……正直に言うと、僕は思っていたよ。魔理沙は、どうせすぐにお腹を空かせて帰って来る、とね」
「親父も、そう思ってただろうな」
「だけど魔理沙は帰らなかった。1人で、ちゃんと生きている。立派だと思う」
「……1人で、やれたはずはないんだ。私が」
魔理沙は言った。
「まず、こーりんが色々と助けてくれた。本当にありがとう、感謝してる」
「僕は何も……」
「こーりんとは別に……私、誰かの世話になってたはずなんだよ。それが思い出せなくて……」
「霊夢に決まっているだろう」
歩きながら、霖之助は断言した。
「今だから言うけれど僕は霊夢から、君に関する相談を受けた事が何度もある。魔理沙が思っている以上に、霊夢は君の事を心配しているぞ」
「そう……だよな……」
魔理沙は思う。
自分は今、知ってはならない事を知ろうとしているのではないか、と。
(霊夢の奴……いつから、博麗の巫女をやっている……?)
帽子の上から、頭を押さえる。
(……私は……いつから、魔法の森で独り暮らしをしている? いつまで霧雨店にいて、いつから……)
歩きながら、魔理沙は俯いていた。青ざめた顔を、霖之助に見せないために。
(私は……今ここにいる私は、一体……誰だ?)
「……顔色が悪いね。今日は、やめにしておくかい?」
霖之助が立ち止まり、魔理沙の顔を覗き込んでくる。
霧雨店は、すでに視界の中にあった。
人里一の道具屋。豪勢な店舗が、今の魔理沙には紅魔館よりも巨大に見える。
魔理沙も、立ち止まっていた。
足が、一歩も進まなかった。
「……ごめん、こーりん……私……」
「謝る事じゃないさ。急ぐ事でもない」
帽子の上から、霖之助は軽く魔理沙の頭を撫でた。
「僕は、親父さんと話があるから……1人で帰れるかい?」
「ばっ、バカにするなあッ!」
魔理沙が怒ると、霖之助は笑った。
「何か思い悩んでいるね魔理沙は。それを自力で解決出来ないようでは親父さんに会えない、合わせる顔がない……そんなところかな」
「……今の私はさ、親父にとって……家出した娘とは、別人かも知れない……」
魔理沙は言った。
「……おかしな事、言ってると思うだろ? 私も思うぜ……」
「幻想郷というのは、おかしな所でね。どんな不思議な事でも起こり得る」
霖之助は、すでに背を向けていた。
「……何が起こっても、魔理沙は魔理沙さ。僕には、そんな事しか言えないけれど」
「……ありがとよ、こーりん」
霖之助は片手を上げた。
そのまま客の流れに紛れ込むようにして、霧雨店の店内へと消えて行く。
ぼんやりと見送る魔理沙に、背後から声をかけた者がいる。
「何かが、おかしい……と、ようやく思い始めたのね霧雨魔理沙」
花の香りが、仄かに漂って来る。
人里が滅ぶ、と魔理沙は思った。自分が命を捨てて戦わなければ、人里が皆殺しにされる。
魔理沙は懐に手を入れ、小型八卦炉をそっと掴んだ。
無論、人里でマスタースパークを放つわけにはいかない。どうにかして、空中へ誘い出す事が出来れば……
「やめておきなさい。貴女に危害を加えるつもりなら、話しかけたりしないわ」
「……それもそう、か」
魔理沙は振り返った。
不吉なほどに美しく穏やかな笑顔が、そこにあった。
「……風見、幽香。だったな、あんた確か」
「嬉しい。私の名前、覚えてくれたのね」
穏やかな笑顔が、にっこりと歪む。
「と言うより……思い出して、くれたのかしら?」
「……お前の顔、どこかで見たような気がしていた」
1歩、魔理沙は後退りをした。
これ以上、退いてはならない。自分の背後には、霧雨店があるのだ。
「気のせい、じゃないとしたら……」
「貴女が何を思い悩んでいるのか、私にはわかるわ」
たおやかな手で、風見幽香はくるりと日傘を弄んだ。
「何か……私に、訊きたい事はある? かなりのところまで答えられると思うけど」
「知ってるのか……」
魔理沙は呻いた。人混みの中でなければ、叫んでいたかも知れない。
「私には、思い出さなきゃいけない事がある……ような気がする。それが何なのか、お前……知ってるなら教えろ!」
「他人にものを頼む態度じゃないわねえ、それは」
言われて、魔理沙は帽子を脱いだ。そして頭を下げようとするが、
「言っておくけれど。頭を下げたら、その頭をもぎ取るわよ?」
穏やかに微笑んだまま、幽香は言った。
「……土下座をしたら、踏み潰すわよ」
「…………!」
「まずは叩きのめす。相手が辛うじて生きていたら、掴んで引きずり起こす。そして言う事を聞かせる……誰かに何かして欲しい時はね、そうするものよ」
「その世迷言を直訳すると」
穏やかに見えて不穏な笑顔を、魔理沙は睨み据えた。
「……教えて欲しかったら、弾幕戦でお前に勝てと。そういう事か」
「それが弾幕使いの問答よ」
幽香が、見つめ返してくる。目は笑っていない。
「知ってはならない事を知りたいのなら、覚悟を見せないとね」
「……そうか。知ってはならない事、なんだな。私の知りたい事は」
まるで長柄の得物のように、魔理沙は魔法の箒を振り回した。
「お前、空は飛べるよな?」
「慌てないで。命を懸けてまで知るべき事なのかどうか、1日かけてゆっくり考えなさい」
ふわりと、幽香は背を向けた。日傘を開いたままだ。
「……貴女、今は魔法の森に住んでいるのよね?」
「魔法の森の、霧雨魔法店だぜ」
「明日の朝、私が行くわ。魔法の森の上空なら……少しばかり派手な弾幕戦をしても、巻き添えは出ないでしょう」
幽香が、歩み去って行く。
「魔理沙は、知ろうとしている。霊夢は……己の歴史を喰われてしまった現状に、自分を合わせている。どちらが正しいのかは、わからないわね」
言葉と共に、日傘が遠ざかって行く。
魔理沙は、じっと見送った。
マスタースパークを撃ち込んでも、日傘で防がれてしまう。そんな気がした。
双刀の一閃が、炎を切り裂いた。
大小の刃が、火の粉を蹴散らし、襲いかかって来る。
藤原妹紅は、後退りをして回避した。
この相手には、何度も斬殺された。ようやく間合いを掴めるようになったのは、最近である。
それでも、かわすのが精一杯だ。かわしながらの反撃など、させてはもらえない。
「腕を上げたな、藤原妹紅」
双刀の剣士は言った。
「不死身を過信し、突っ込んで来るような事がなくなった。それだけでも大したものよ」
「斬られれば痛い。それを教えてくれたのは、お前だ」
妹紅は片手をかざした。鋭利な五指が、炎をまとう。
この炎を、しかしそのまま投げ付けたところで、また斬り砕かれるだけだ。
「不死身と最強は違う……それを教えてくれたのも、な」
「この先、お前は無限に成長してゆくのだろう。我らでは想像もつかぬ境地に、いつしか達するのかも知れん」
剣士の精悍な顔が、一瞬だけ微笑み、重い翳りを帯びる。
「だが……今のお前では、俺には勝てても……あの御方には、勝てぬ。引き下がってくれぬか」
「そうはいかない。あいつは大勢の人間を死なせている。直接、殺したわけじゃないにしても……私が、退治しなきゃならん妖怪だ」
妹紅は言った。
「魂魄妖忌……お前ほどの武士が何故、あんな化け物に付き従っている? 呪いの類か。縛られているのか。妖怪の呪縛を解いてやるために、何をすればいい?」
「……貴女、無礼者なのね」
声がした。
涼やかに耳をくすぐりながら、ねっとりと心に絡み付いて来る。そんな甘美な声。
「だけど……ふふ、そのくらいが良いわ。妖忌、そこをどきなさい。その子は私が、もてなしてあげる」
「お前…………っ!」
妹紅の手で、さらに激しく炎が燃える。
魂魄妖忌が一切の表情を消し、横に退いた。主のために道を空けた。
優美な姿が、ふわりと進み出て来る。
妹紅は睨み、吼えた。
「ついに出たな、妖怪・富士見の娘! 私が討伐してやる!」
炎を、投げ付ける。
燃え盛る紅蓮の荒波が、富士見の娘を包み込む。
雅やかな衣服が、あっと言う間に焦げ砕けて灰に変わった。
だが。白く優美な裸身は、全くの無傷である。
「……貴女の炎……とても、素敵よ……」
この世のものとは思えぬ美貌が、炎に照らされながら微笑んでいる。無傷の黒髪が、熱風に舞う。
「どろどろ、している……ぎらぎら、輝いている……」
白い肌も、黒い髪も、まるで妹紅の炎から何かを吸い取っているかの如く、色艶を増してゆく。
「貴女……死なないのね……」
呆然と見つめる妹紅に向かって、炎の中から美しい細腕が差し伸べられる。
「つまり……ずっと、私のもの……」
妹紅は目を覚まし、跳ね起きた。慧音が被せてくれたのであろう毛布を、はね除けていた。
上白沢慧音の、寺子屋兼自宅。縁側である。昼下がりの日光を浴びながら、妹紅はいつの間にか寝入っていた。
「おはようございます。大変な夢見でしたねえ」
傍らに、1人の少女が腰下ろしている。
頭を押さえながら、妹紅は軽く睨んだ。
「……お前、誰だ。ここは上白沢慧音の家だぞ」
「私は獏です。いやあ、貴女の悪夢を食べてあげようと思ったんですが」
少女は面目なさげに、帽子の上から頭を掻いた。
「……ごめんなさい、アレはちょっと食べきれません」
「やめておけ。絶対、腹壊すから」
獏、であるらしい少女を、妹紅はじろりと観察した。
「……どこかで、会ったか?」
「割としょっちゅう、お会いしてますけど……まあ覚えてもらえませんよね。夢の中ですものね」
「お前、人間じゃないのは間違いなさそうだな。妖怪なら退治するべきか」
「やめて下さいな、そんな博麗の巫女のような事を」
博麗の巫女には、いずれ挨拶をと思っているところではある。
「……アレは、やばいですね」
「博麗の巫女……じゃなくて、私の夢に出てた奴か」
「ええ。夢の中なのに私、手が出せませんでした」
あそこから自分は一体、どのようにして逃げ延びたのか。妹紅は、全く覚えていない。
無様に逃げた。それは、間違いない。もしかしたら、魂魄妖忌が助けてくれたのかも知れない。
「貴女……彼女とはね、また会う事になりますよ」
獏が何を言っているのか、妹紅は一瞬、理解が出来なかった。
「……富士見の娘か? あいつは魂魄妖忌が」
その先を、妹紅は口にする事が出来なかった。
しとやかな足音が、近付いて来た。
「おはよう妹紅。顔に落書きをしたくなるくらい、よく寝ていたね」
「慧音……」
妹紅は見回した。
獏の姿は、どこにもなかった。
「……すまん。だらしなく寝入ってしまった」
「ここまで、ゆっくりしていたんだ。夕飯も食べて行きたまえ」
2人分の茶と菓子が載せられた盆を、慧音は縁側に置いた。
「……どうせなら泊まって行くといい」
「いや、それは……」
「明日、妹紅に頼みたい事があるんだよ」
慧音が、茶を差し出しながら言う。
「実は先程まで客人がいてね。君と話をしたがっていたのだが」
「……別に、叩き起こしてくれて良かったんだぞ」
「後日で一向に構わない、と言っていた。君さえ良ければ、明日にでも」
「いいよ」
妹紅は菓子を食らい、茶を飲んだ。
隣で慧音が、いくらか呆れているようだ。
「……誰なのかを聞こうともしないのか、君は」
「ああ、そう言えば聞いてなかったか」
慧音の紹介する人物である。怪しもう、という気が妹紅にはなかった。
「稗田の御令嬢だよ。妹紅は、まだ会った事がなかったかな」
「何代か前の奴とは知り合いだった」
妹紅は、空を見上げた。
「ま……覚えちゃ、いないだろうな」