第17話 出撃・優曇華院
原作 上海アリス幻樂団
改変、独自設定その他諸々 小湊拓也
情感を込める事もなく淡々と、藤原妹紅は語り続けた。
私は時の経過も忘れ、聴き入っていた。
外は、すっかり暗い。もっとも今日は、朝から太陽が昇っていなかった。
昼なのに、灯明皿に火を点さなければならなかった。
室内を仄かに照らす薄明かりの中で、妹紅は語り、私は聴き入っている。
「その後、魂魄妖忌がどうなったのか、どこへ行ったのか……私はそれが一番心配なんだ。あの化け物から解放されたのなら良いけれど」
最後にようやく、妹紅の言葉に僅かながらの感情が入った。
「私の方からも1つ訊きたい。この幻想郷で、魂魄妖忌の存在が確認された事は……あるんだろうか?」
「……ありません。私の、知る限りでは」
「あんたが知らないって事は……ないんだな」
「それは買い被りですよ。私だって、この幻想郷の全てを知っているわけではありません。見聞した物事を忘れずにいられる、というだけの話です」
それも、しかし一代限りである。
私が死んでしまえば、次の私に記憶が引き継がれるわけではない。
だから書き記しておく必要があるのだ。
そのために私は、上白沢慧音を通じて今日、藤原妹紅と接触した。彼女しか知らぬ話を聴くために。
「それにしても意外。御阿礼の九代目が、私の事なんかご存じだったとはね」
窓から人里の夜景を見つめながら、妹紅は言った。
「……慧音の奴が色々と喋ってるのかな? 私の事。まったく、どんな話をしているやら」
夜が明けない。空には、美し過ぎる満月が浮かんでいる。
だが街中では、一晩寝て起きた人々が動き回っていた。
本来、太陽が昇っていなければならない時間帯である。
空にあるのが太陽であろうが月であろうが、人々は日々の務めを果たさねばならない。
それが人里、人間の世界なのだ。
「貴女は有名人ですよ、藤原妹紅。人里には……妖怪に襲われて貴女に助けられた人が、大勢います」
「そうなのか?」
「……私、貴女と同じ事は出来ません。私が人助けをしようと思ったら、書き記すしかないんです」
弾幕の1つも撃てない私が、幻想郷の人々のために出来る事。
人々の危険となりうるもの……主に妖怪に関して、ひたすら情報を集める。書き記し、遺す。それだけだ。
「今回は、だから何としても貴女からお話をいただかなければと思っておりました。外の世界の、恐るべき妖怪に関して」
「……富士見の娘、か」
妹紅は腕組みをした。
「あいつに関しては今、長々と話した通りだ。死んだ、のも間違いない……外の世界でな。つまり今は幻想郷にいるかも知れないと」
「……出来うるなら、お会いしてみたいと思います」
「やめておけ。あんたなら間違いなく、あいつに気に入られる。つまり死ぬ。転生が出来るからって、生命を軽く考えるな……なんて、私が言っても説得力ないけどな」
言いつつ、妹紅は立ち上がった。
「つまらない長話を聴いてくれて、ありがとう」
「そんな。もっとお聴きしたいと思っておりますのに……もう、お帰りになるのですか?」
「私はね、月が大嫌いなんだ」
妹紅が、窓の外を睨んだ。美し過ぎる満月を、睨み据えた。
「朝昼なのに、我が物顔で月が出ている……そんな事は許さない」
「夜が明けない、この異変を、今から解決なさろうと?」
「博麗の巫女じゃあるまいし、そんな立派な事はしないよ」
妹紅が微笑む。
「私がただ、そろそろ朝になって欲しいと思うだけさ……月が出っぱなしの異変なんてもの、起こしそうな連中には心当たりがある。そいつらを、まずは締め上げる」
「……人里を、出て行かれるのですか」
私は言った。
「人里は、今……」
「ああ、封鎖されている。出て行こうとしても、何か変な感じになって……結局は戻ってしまう。たまにある事さ。誰の仕業なのかも、わかってる」
妹紅は天井を見上げた。屋外であれば、空を見つめているところか。
「慧音……私を、人里から出してくれ」
この人だ、と小悪魔は思った。
八意永琳の言う「面倒な子」。この赤い瞳の少女であるに違いない。
「……紅い霧を起こしていたのは、貴女たち?」
縁側に腰掛けたまま、その少女は、赤色の眼光をちらりと室内に投げた。
「より正確に言うと……その子ね。パチュリー・ノーレッジさん、だったかしら」
近くでこうして普通に会話をしているくらいでは、パチュリー・ノーレッジは目覚めない。布団の中で、穏やかな寝息を発している。
紅魔館の自室では、いつ止まってもおかしくはない呼吸をしていたパチュリーが、今は確かに正常に、気管や心肺を機能させている。あとは意識を取り戻すだけだ。
赤い瞳の少女が、小悪魔に視線を戻した。
「あの紅い霧が、もう少し長引いていたらね。この永遠亭から私を派遣しよう、という話も出ていたのよ。もしかしたら……貴女やパチュリーさんと、戦う事になっていたかも知れないわね」
「……そう、ですね」
自分ではとても勝てない、と小悪魔は思う。この赤い瞳の少女は、恐らくは戦いを本職とする歴戦の弾幕使いだ。パチュリーならば、体調次第では良い勝負が出来るだろうか。
「ねえ小悪魔さん、貴女……小悪魔、がお名前なの?」
「はい、そうお呼び下さい。名無しの小悪魔を、私はずっと通して参りましたので」
「お師匠様に、何か名前を付けていただいたら?」
八意永琳は、この少女の師匠であるらしい。
「私もね、鈴仙・優曇華院という素敵な名前をいただいたわ。どう呼んでもらっても構わないけど」
「はい、鈴仙さん……八意先生から、貴女の事は」
つい、小悪魔はそんな事を言ってしまった。
鈴仙・優曇華院・イナバが、ふっと微笑む。
「……面倒臭い奴、とでも?」
「あ、いえ、それはその」
「いいわ。私、自分でもわかってるの」
赤い瞳が、遠くを見つめた。
「私、拗くれてて他人と仲良く出来なくて、空気は読めるけど読めるだけで、それに合わせて周りと協調しようなんて思えなくて」
「はあ……」
「他人に合わせない自分がかっこいい、なんて思ってるけど実は単に孤立してるだけで。月にいた頃だって普通に会話する同僚なんて2人しかいなかったし、地上に降りてからも友達は1人もいなくて、でも私の能力があれば友達なんか要らないわけで」
「……そういうところよ、ウドンゲ」
八意永琳が、いつの間にかパチュリーの傍に座っていた。
「どうかしら小悪魔さん。この子と、仲良く出来そう?」
「はい」
「私、貴女たち2人にね、一緒にお仕事をしてもらえたらと思っているのよ」
「私では」
鈴仙が、師匠に向かって真紅の眼光を燃やす。
「……私1人では、お役に立てぬと。そう仰るのですか、お師匠様」
「貴女にはねえウドンゲ、人里まで薬を売りに行ってもらわないといけないのよ。戦闘はともかく貴女、そちらの方は今ひとつでしょう」
容赦のない事を、永琳は言った。
「他人と会話をする能力はね、貴女より小悪魔さんの方がずっと上よ」
「……認めます。小悪魔さんは、優秀な子だと思います」
じろりと、鈴仙が視線を投げる。
1人のイナバが、ひょこっと庭園に現れたところである。
「そやつより、ずっと頼りになります」
「ご挨拶だねえ。ひと働きしてきたばっかりだと言うのに」
因幡てゐだった。
「とっても恐い、大江山の大将とも会ってきたんだよ?」
「イナバの長は、顔が広くて助かるわ」
永琳が言った。
「月を砕く鬼とは、いつか接触しなければと思っていたところ」
「あれはそんな難しい御仁じゃあないよ八意先生。私なんか窓口にしなくたって、会いに行けば会ってくれるさ。手土産があれば、なおいいがね。酒のつまみになりそうな物」
その時。何者かが、空から落ちて来て庭園に激突した。
「いっ……たぁあい……もう、容赦ないわね」
蓬莱山輝夜だった。
小悪魔は、思わず庭に出た。
「か、輝夜様! ご無事ですか、一体何が……」
そこで、声が凍り付いた。
小悪魔の、身体が、心が、凍り付いていた。
絵に描いたかの如く美し過ぎる満月を背景に、それは今、夜空に佇んでいる。
赤いリボンに艶やかな黒髪。紅白の巫女装束。刃物のような紙垂を揺らめかせる、お祓い棒。左右に浮かぶ2つの陰陽玉。
こちらを見下ろす両眼は、赤く禍々しく発光している。
「……は……博麗の……巫女……」
小悪魔は思わず、輝夜にすがりついていた。
輝夜は、小悪魔の震える身体をそっと抱き止めてくれた。
ふわりと広い袖が、優美な細腕と柔らかな胸が、悪魔族を浄化消滅させかねない芳香が、小悪魔を包み込む。
「大丈夫よ小悪魔さん、ちょっと戯れの弾幕戦をしていただけ。あの子が貴女を滅しに来たわけではないから……そんな事は、させないから」
「何故……ここに、博麗の巫女が……」
「私が、捕えて来たのよ」
鈴仙が、にわかには信じ難い事を言った。
「そこまでよ博麗霊夢。姫様への無礼は、許しません」
「無粋な事を言っては駄目よ、鈴仙」
輝夜が、衣服の土汚れを払い落とす。
そして、煌めく瞳で博麗霊夢を見上げる。
「ねえ永琳、この子すごいわよ! こんなに弾幕戦の出来る子が、地上に居たなんて」
「……貴女だって本気を出したわけではないでしょう? 姫様」
永琳が言った。
今ここで博麗の巫女が、動けぬパチュリーに危害を加えようとしたら。輝夜と永琳は止めてくれるだろうか。
満月を背負って夜空に立ち、黒髪と紙垂を揺らめかせながら博麗霊夢は、永遠亭の庭と縁側を、赤く輝く両眼でただ見下ろすだけである。
庭園の片隅に、キラキラと光が生じた。
何匹もの兎が、そこに出現していた。兎であり、少女でもある生き物たち。
イナバの群れ、であった。光を振りまきながら出現し、尻もちをつき、涙ぐんでいる。
同じような光景を、小悪魔はかつて紅魔館で見た事がある。弾幕戦で砕け散った妖精メイドたちの、再生の有り様である。
てゐが、まじまじと見つめて声をかけた。
「ははん……お前ら、弾幕戦で負けて来たね」
「どういう事? イナバ同士で弾幕戦……いや、侵入者!? 迷いの竹林に!」
鈴仙の表情が強張り、両眼が赤く輝く。
てゐは落ち着いて、イナバたちから何やら報告を受けている。
「空飛ぶ箒にまたがった、2人組の魔法使い……竹林に突っ込んで来て、こっちに向かっているらしい。こいつらを粉砕しながらね」
「馬鹿な……イナバたちに、迎撃をさせているの!? 迎撃部隊を配置するなどと!」
鈴仙が、激昂している。
「永遠亭の場所を、侵入者に教えてしまうようなものじゃないの!」
「侵入者は迎撃せず、やり過ごす。通過させる。それが出来りゃ、まあそれが一番だわなあ」
てゐが、にやりと笑った。
「心配しなさんな。私が上手いことイナバどもを動かして、侵入者を永遠亭とは真逆の方向へ導いてやるよ。お前さんを戦場へ引っ張り出したりはしないから、さ」
「お前……!」
「月から降りて来た連中がいるんだろう? お前さん、そいつらに見つかったらマズいよな。逃亡兵だもの、目立つ事は出来ないよなあ」
睨む鈴仙の赤い眼光を、てゐはニヤニヤと受け止めている。
「このイナバって連中が、基本的には妖精だって事を忘れちゃいけない。元々はただの兎でも、幻想郷で長く過ごした今は……見ての通り、ほぼ完全に妖精だ。弾幕戦をやるのが本能さ。侵入者を迎撃するなってのは無理なお話さね」
「……イナバは永遠亭の大事な労働力よ。弾幕戦で砕け散ったら、かわいそうでしょう? いくら妖精でも」
鈴仙が言った。
何者かが、鈴仙の背後にふわりと浮いた。2つの人影。片方は触角を、片方は翼を生やしている。
「迎撃部隊を下がらせなさい。私が出る」
真紅の眼光を、鈴仙は燃え上がらせた。
「……地上の兎の分際で、玉兎を甘く見たら許さないわよ。私は確かに月の逃亡兵、だけど永遠亭へは逃げ込んでいるわけではない。戦う者として、私は輝夜様にお仕えしているのよ」
同じく真紅の眼光を灯す少女2人を従え、鈴仙は飛翔した。
「姫様、お師匠様、竹林への侵入者を撃滅して参ります。病人・怪我人ならばいざ知らず……この永遠亭に、敵性体の接近を許すわけには参りません」
「……貴女が怪我人になったら、治してあげる。まあ程々にね」
永琳の言葉を受けて鈴仙は飛び、夜空の彼方へと消え去った。真紅の眼光を灯した少女3人が、それに続く。
片手を庇にして、輝夜が見送っている。
「気負っているわねえ……程々で済ませない気満々よ、あれは」
「……イナバの長よ、正直に言いなさい」
永琳が、てゐを軽く睨んだ。
「貴女、ウドンゲをけしかけたわね? 今」
「色々さらけ出してもらおうと思ってね」
鈴仙の飛び去った方向を、てゐは見つめている。
「あいつが永遠亭に来て、何百年経ったかな? 姫様が言ったように、気負いもあるだろうけどさ……まだ何か、壁を作っちゃってるよね鈴仙の奴。私に対してはもちろん、姫様や先生に対してもさ。もういいんじゃない? そろそろ。壁、ぶっ壊しても」
「負けて帰って来たら、慰めてあげる……それで崩れてくれる程度の壁なら、苦労はないのよね」
永琳が、小さく溜め息をつく。
ぽつりと、小悪魔は言った。
「……霧雨、魔理沙」
庭園にキラキラと光が生じ、イナバたちが次々と再生して現れる。
「箒にまたがる魔法使い……それは恐らく霧雨魔理沙。博麗霊夢に劣らぬ、恐ろしい敵です」
イナバの迎撃部隊を片っ端から弾幕で粉砕しながら空を飛ぶ霧雨魔理沙の姿が、見えるかのようである。
「……申し訳、ありません。鈴仙さんに、お伝えするべきでした」
「聞く耳持ってないわよ、今の鈴仙は」
言いつつ輝夜が、涙ぐむイナバたちの頭を撫でている。
「……あんな立派な耳を、立てているくせにね」
博麗神社の境内に、キラキラと光が生じた。
その煌めきの中から、妖精たちが転がり出て来た。
「ぎゃふん……い、一回休み終わり〜」
「ひどい目に遭ったわねえ」
「まったく、何なのあいつら! あんな品のない弾幕戦」
高麗野あうんは、思わず台座から飛び降りた。
「さ、3人とも! どうしたんですか」
「あうんちゃん、ただいま〜」
サニーミルクが、まるで自宅に帰って来た時のような事を言う。
「いやあ大変だったのよ。変な奴らが大量に襲って来て」
「こ、小太りの鎧を着た人たちですか! ひょっとして」
「え、まさか……ここにも来たの」
ルナチャイルドが青ざめる。
「……あうんちゃん、大丈夫だった?」
「大丈夫じゃなかったです。地獄のようなお薬を飲まされました」
あれに比べたら、土偶たちの攻撃など何程のものでもない。
「まあ、おかげで助かったんですけどね。それより、あの、霊夢さんと依姫さんは」
「……ごめんなさい。私たち、一回休みになっちゃったから」
スターサファイアが言った。
「その後どうなったのかは、わかんない……霊夢さんなら大丈夫だとは思うけど」
「……行かなきゃ、助けに」
駆け出そうとするあうんに、何者かが声をかけた。
「やめておきなさい狛犬さん。聖域を離れたら、貴女の力は充分に発揮されないわよ」
優美な人影が1つ、鳥居の陰に佇んでいる。
「ここで、博麗神社を守りなさい」
「誰……」
あうんは、身を寄せ合う妖精3人を背後に庇った。
その人影は、まるで夜闇の塊だった。月明かりを避けるように鳥居の陰から動かず、言葉を発している。
「博麗の巫女は……留守、なのね。異変解決、頑張っているのかしら」
「……いえ。霊夢さんは、お友達を助けるために頑張っています」
綿月依姫は霊夢の友達、という事で良かろうとあうんは思う。
「異変解決と同じくらい、大切な事だと私は思います」
「博麗霊夢に限らず、幻想郷の人妖は皆……私情に走った時が、一番強い」
人影が、気取った仕草で右腕をかざした。
「本当はね、それでは駄目なのよ。だけど私も人の事を言えたものではない。悩ましいわね」
しなやかな細腕に、包帯が巻かれている。綺麗な指先に至るまでだ。
「自分の事を棚に上げて……ふふっ。博麗の巫女に、思いきりお説教をしてあげたいわ」
言葉を残し、人影は消えた。石階段を降りて行ったのか、それとも妖術の類で姿を消したのか。
ともかく、あうんは思う。あの右腕、怪我をしているわけではないだろう。
とてつもなく禍々しい、人目に触れさせてはならぬほど不吉でおぞましい何かを、包帯で隠している。そう思えた。