第16話 戦乱の月
原作 上海アリス幻樂団
改変、独自設定その他諸々 小湊拓也
永遠亭の広大な庭園で、蓬莱山輝夜は1人佇み、月の光を浴びていた。
八意永琳が夜空に描いた、ただ美しいだけの偽りの満月が、偽りの光を降らせて来る。
本物の月も、しかし今はこんなものかも知れない、と輝夜は思う。
「偽りの輝きを追い求めて、本物を見失った……愚かな種族」
月を見上げる美貌が、月光を浴びて清かな白さを帯びる。
清かなだけの、偽りの月光。
輝夜は思う。本物の月光は、もっと穢らわしい。
太陽の光を、穢れそのものの光に変えて地上に降らせ、妖怪に力を与える。それが月という天体だ。
月に住まう種族は、その穢れを直に、足元から至近距離から、浴び続けてきたのだ。
多くの月人は穢れを過剰に恐れ、穢れを拒絶し続ける道を選んだ。
だが原初の頃から穢れを受け入れ、穢れに耐え抜き、穢れそのものと言うべき存在と化した月人もいる。
今なお在り続けているのは、蓬莱山輝夜を含め6名。少なくとも輝夜が知るのは6人だけだ。
その1人が、庭園に出て来た。難しい顔をしながら歩いている。
歩いて来て、ようやく輝夜に気付いたようだ。
「……ここにいたのね、輝夜」
「貴女の描いた綺麗な絵をね、鑑賞していたのよ」
「私が……偽物の月を空に描く、その直前」
八意永琳が、本来ならば太陽が昇っていなければならないはずの空を見上げる。
「……本物の月から、軍が降りて来たわ」
「何ですって……!」
輝夜は息を呑んだ。
「まさか私の命を狙って……こうしてはいられない、迎え撃ってやる、叩き潰してやる! 教えてやる! 私の命を狙うのが、どれほど無駄な事か」
「落ち着きなさい輝夜。その必要は、もう無くなったわ」
永琳は、溜め息をついた。
「誰が率いて来た軍勢か知らないけれど……全滅したわよ。幻想郷の、人妖たちの手によって」
「……やるわね、幻想郷」
輝夜は、綺麗な顎に繊手を当てた。
「だけど……確かに、この幻想郷は楽しいくらいに穢れが渦巻く場所だものね。ここに住んでいる妖怪なら」
「予想以上、想定外よ。幻想郷に、まさかこれほどの戦力があるとは」
永琳は言った。
「月の軍勢は、人妖たちに撃破されながら散り散りになって……幻想郷の各地で殺戮を行い、反撃を受け、壊滅した。弱い者いじめをしながら死んでいったようなものよ」
「ふん。一切の穢れを拒絶しながらも、弱い者いじめはせずにいられなかったと」
「弱者への攻撃は……全宇宙、生きとし生けるものの本能に根ざした行動よ」
永琳の知的な美貌が、苦悩の曇りを帯びる。
「あらゆるものを穢れと断じ、排除し続けてきた結果……月人には、そんなものだけが残ってしまった。穢れを取り除いても、美しいものが残るわけではない。私は……私たちは、もっと積極的に介入をするべきだったのかしら? 月人という生命体の進化に」
「そうしたら、まあ少しはましな生き物になっていたかも知れないわね。月人も」
輝夜が月の都にいた頃から、月人はすでに自力で行動出来る生命体ではなくなり始めていた。
あれから劇的な改善でもされていないのであれば今頃、月人はもはや自分で何か考える事も出来ない、知的生命体とも呼べぬものと成り果てているに違いなかった。
そんな種族に軍事行動をさせるには、玉兎による統率が必要となる。
立場としては、玉兎は月人の奴隷のようなもの。だがその実、自力では何も出来ない月人たちを管理しているのが、玉兎という種族なのだ。
「……その軍を率いていた玉兎も、死んでしまったのかしら? かわいそう」
「どうかしらね……玉兎は、したたかな生き物だから」
言いつつ永琳は、ちらりと視線を動かした。
したたかな玉兎が1人、永遠亭に帰還したところである。
「……ただ今、戻りましてございます。姫様、お師匠様」
「お帰りなさい、ウドンゲ」
「あまり無茶をしては駄目よ、鈴仙」
永琳と輝夜で、この玉兎の呼び方が違う。
恭しく跪いたまま、鈴仙・優曇華院・イナバは報告をした。
「八雲紫の戦力を1つ、奪って参りました。無茶などする必要もなく……容易い事で、ございました」
「その子が、そうね」
ひょいと、輝夜は視線を投げた。
鈴仙の後方で、1人の少女が同じように跪いている。
血まみれの巫女装束をまとっていた。ただ、怪我をしているわけではないようだ。
あるいは、装束が血に染まるほどの怪我が一瞬にして治った直後か。
「こんばんは……いえ、こんにちは?」
輝夜は身を屈め、声をかけた。
「私は蓬莱山輝夜。貴女のお名前、聞かせて欲しいわ」
「姫様が、直答をお許し下さいました……名乗りなさい」
鈴仙が言った。その両眼が、赤く発光した。
同じく両眼を赤く光らせながら、少女が顔を上げる。
「……博麗……霊夢、と申します……蓬莱山輝夜様……」
「ウドンゲ……貴女、博麗の巫女を捕らえて来たのね」
永琳が言った。
「お手柄、なのは認めてあげるけど。私は今のところ、八雲紫と事を構えるつもりはないのよ」
「八雲紫とは接触いたしました。それだけで、判断可能な事はあります……あれは、臆病者です」
鈴仙が嘲り、罵る。
「有用な手駒を敵に奪われ、取り戻す試みもせずに逃走いたしました。正面切って他者と戦う事を、あの八雲紫は極端に恐れています。ただ、それだけに……無論お師匠様には遠く及ばぬにせよ、頭が回ります。あやつのこれまでの動向を見るに、月の都と我ら永遠亭とを開戦に導き、共倒れさせ、漁夫の利を獲得せんとしている事は明白」
月の都の軍勢による、永遠亭への直接攻撃。
それがこれまで行われなかったのは、月の都が長らくずっと、それどころではない事態に陥っていたからだ。
月の都には、外敵がいる。
嫦娥にとっては、地上に追放された危険分子よりも優先的に対応せねばならない敵である。
月の都が今になって幻想郷へ軍勢を送り込んで来た、そしてそれが蓬莱山輝夜の抹殺を目的とするものであるならば、嫦娥がその敵を滅ぼしたか、一次的にせよ撃退したのか、あるいは休戦が成立したのか。
なんにせよ。月の都が外敵との戦に忙殺されている間、こちらとて永遠亭の守りは固めてきた。
ここが「迷いの竹林」の中にある「永遠亭」で、八意永琳と蓬莱山輝夜が健在である限り、綿月豊姫の能力をもってしても月から永遠亭に直接攻撃を仕掛ける事は不可能である。
その上で永琳は、偽物の月を作り出す事で、本物の月から幻想郷への通路を閉ざすという荒業に出た。
用心が過剰ではないか、と輝夜としては思わなくもない。
「八雲紫は、叩き潰しておくべきです。あやつの手によって、この永遠亭に……月の都の軍勢が、導き入れられないとも限りません……永遠亭を守るために、輝夜さまをお守りするためにも! 八雲紫をこの世から消しておく必要があるかと」
「違うでしょう? 鈴仙」
輝夜は言った。
「私ではなく、この永遠亭でもなく……貴女が守りたいのは、貴女自身。月の都の軍に囚われでもしたら貴女、どんな目に遭うかわからないものね」
「な……何を、おっしゃいますか! 私は……わ、私は……」
「いいのよ鈴仙、何も恥じる事ないわ。自分の身の安全を第一に考えるのは、当然の事」
輝夜は優しく言った、つもりである。
「鈴仙……貴女、自分が逃亡兵である事を忘れては駄目よ。派手に動くのは控えなさい」
「は……っ……」
「……わかるわ、ウドンゲ。月の軍勢を招き寄せかねない八雲紫の動きを、貴女は警戒している」
永琳の言葉に、微かな溜め息が混ざる。
「この永遠亭で、もはや月の都と関わり合う事なく平穏に暮らしてゆきたいのは私も同じよ。そのための障害となりうる、と判断せざるを得ない時は……私が、八雲紫を始末するわ。それまでは可能な限り、利用する事を考えなさい」
「……その平穏が……破られようと、しております。お師匠様……」
鈴仙の声が、震えた。
「……依姫様が……綿月依姫が、降りて来ています……」
「何ですって……」
輝夜は、鈴仙を掴んで引きずり立たせ、揺さぶっていた。
「会いたい! どこ? 依姫姉様はどこにいるの!? ねえちょっと貴女、依姫姉様をどこに隠したのよぉおおおおおおっ!」
「落ち着きなさい輝夜。貴女、馬鹿力なんだから」
永琳が、やんわりと割って入る。鈴仙が苦しげな声を出す。
「よ、依姫様は、また行きずりの神を依り憑かせておられまして……そうでなければ、逃亡兵の私がお会いして無事で済むはずもなく」
「それはそうよね……ああっ、何て事!」
輝夜は頭を抱えた。
「依姫姉様ったら、また神様を拾っちゃったのね。相変わらずじゃないの、全然変わってないじゃないの! ねえ鈴仙、どんな神様だったの? まさか、またアメノウズメ様にでも憑かれて珍妙な裸踊りを」
「あったわね、そんな事。大騒ぎだったわねえ」
永琳が、何やら懐かしんでいる。
「それにしても……そう、やっぱり依姫だったのね。誰か降りて来たとは思っていたけれど」
「会いたい、会いたい。裸でもいいから会いたい!」
「……貴女の命を狙っての事、かも知れないのよ輝夜」
「いいじゃない! 私、久しぶりに弾幕戦をやりたいわ依姫姉様と。ちなみに、もう1人の方は普通に殺したいわ。降りて来ないかしら」
「貴女、豊姫とは本当に仲が悪かったわねえ」
「だってあいつ、あの女の腰巾着だもの……あああ思い出したわ気持ち悪い、おぞましい!」
最初の蓬莱人。この宇宙で、最も醜悪な存在。
輝夜がそんなものを思い出し、身悶えをしている間。永琳が、跪いたままの博麗霊夢を見下ろしている。
「それにしてもウドンゲ、貴女の能力を甘く見るわけではないけれど……博麗の巫女を、よくぞ虜に出来たものね」
「この博麗霊夢、力は確かに強大ですが心に隙があります」
鈴仙の赤い瞳が、輝いた。
霊夢の瞳も、赤く輝いている。
「力は強く、心は弱い……私の能力と、実に相性が良い。この永遠亭の有能な奴隷として、死ぬまで働いてくれるでしょう」
輝夜は気付いた。
真紅の眼光を灯した人影が、もう2つ。ゆっくりと夜空から降りて来ている。
空を飛ぶ、2人の少女。両眼を赤く発光させたまま庭園にふわりと着地し、跪く。
2人とも当然、人間ではなかった。片方は頭から触角を生やし、もう片方は背中で翼を畳んでいる。
鈴仙が自慢をした。
「私の能力で手懐けた、幻想郷の妖怪どもです。博麗霊夢には及ばぬにせよ、そこそこの戦力となりましょう」
「……鈴仙、扱いには気を付けなさい。3人とも、小悪魔さんと同じく私の友達になるのよ。奴隷ではない。死ぬまで働かせるなど、私が許さない」
輝夜が言うと、鈴仙は俯き、黙り込んだ。
跪く3人の少女に、輝夜は明るく声をかけた。
「さあさあ顔を上げて。3人とも、私と仲良くしましょう? これ誰ぞある、お茶とお菓子を用意しなさい。あと小悪魔さんを呼んで来て」
何人かのイナバが、姫君の命令を実行すべく、ぴょこんと駆け出して行く。
永琳が、じっと夜空を見上げている。
「どうしたの永琳。自分で作った偽物の月、出来映えに不満でも? 私も、ちょっと綺麗過ぎるとは思うけれど」
「……偽物の月が、沈まないわ。夜が明けない」
「私、それも含めて永琳の仕業だと思っていたのだけど」
「そんなわけがないでしょう。月の軍勢が降りて来るかも知れない夜を、私は一刻も早く、やり過ごしてしまいたいのよ」
永琳の鋭く冷たい眼差しは、偽物の月に隠された本物の月の都を、見据えているかのようであった。
「誰かが……夜を、延長させている。私の術を破るための、時間稼ぎ……」
「ふん、面白いじゃないの」
輝夜は笑った。
「私を守ってくれている永琳には本当、申し訳ないと思うけれど……無難にやり過ごす、なんて考え方は貴女らしくないわ。永琳の術を本当に破って来るのならば、私が相手をしてあげる! 原初の月人を相手に久方ぶりの弾幕戦、燃えるわ!」
「ねえ輝夜。貴女、本当は……会いたいのでしょう? 月の都の面々と」
「やめてよ。私が会いたいのはね、依姫姉様とだけ。それに……」
己の胸に、輝夜はそっと手を当てた。
一緒にいるだけで、心が純粋になる。自分が、純粋になってゆく。
そんな女性が、自分の近くにかつていた。
「ねえ永琳……私、あの方にお会いしたいわ……」
古来、人々は月という天体に魔性を見出してきた。
月とは、オカルトな存在なのである。
「貴女がたに対しては、興味が尽きない」
ゆったりとソファーに身を預けながら岡崎夢美は、月からの客人に微笑みかけた。
「また、月の都に行ってみたいな。あそこは実にオカルトな場所だ」
「もちろん貴女なら、いつでも大歓迎よ」
食べ頃の白桃を思わせる美しい尻をソファーに沈め、ティーカップを傾ける仕草も、実に優雅である。北白河ちゆりの淹れた紅茶は、果たして月の姫君の口に合うだろうか。
「けれど……退屈ではなくて? 貴女のような好奇心と学究心の旺盛な人にとって、何か学ぶべきものがあるのかしら。虚ろな生命が揺らめくだけの、月の都に」
「私たち地球人だって、何か1つの間違いで月人のようになっていたかも知れない。これから、ならないとも限らない。学ぶべきものは、いくらでもある」
夢美は同じように紅茶を飲み、卓上の菓子に手を伸ばした。
「学ぶ事を放棄した愚か者どもが、学会には蔓延っていた……統一原理に当てはまらぬ力など、この世にいくらでもあると言うのに、それを知ろうともしない……」
がつがつと菓子を喰らい、紅茶で流し込む。
昂りかけていた感情が、少しは落ち着いた。
「……失礼。あの連中の事を考えると、今でも頭に血が上る。はらわたが煮える。こういう感情が、貴女がたに言わせれば……穢れ、なのだろうな」
「こうやって、お茶とお菓子をいただく。それも穢れよ、月人にとっては」
しとやかに慎ましく、紅茶と菓子を口にしながら、月の姫君は語る。
「……何かを学ぶ事すら、月人は穢れとして排除するようになってしまった。学ぶ事なく、思考する事なく、ただ管理に身を委ねる……だけどそれは決して不幸な事ではない、と私は思うのだけど岡崎教授の御見解は?」
「確かに。究極の平和、とは言える」
何かを思考する。それは、何かに不満を抱くという事でもある。満足をしてしまったら、学究の道はそこで終わりだ。
そして。不満を抱くという事は、平和ではなくなるという事である。
「……その平和を守るために、月の都の丞相ともあろう人物が、このような所へ御自ら」
「当然の事よ。貴女には、無理なお願いをしなければならない」
「それはまあ、お任せいただこう」
夢美は、空のティーカップを置いた。
「……夜を、止めれば良いのだね? 月が沈まぬよう」
「お願い出来るかしら?」
「月の公転周期と地球の自転周期がシンクロした状態を、維持する。それも幻想郷という1つの地域に限定して……確かに容易い事ではないが、この船の力をもってすれば可能だ。貴女に恩を返す機会、逃すわけにはいかない。やらせてもらうよ」
「私が……貴女に、何かしてあげたかしら?」
「この船が機能不全を起こして月に不時着した際、いろいろと良くしていただいた。月の都にしか存在しない、貴女にしか紡ぎだす事の出来ない、奇跡のテクノロジーを知る事も出来た」
「ふふ……私に言わせればね、この可能性空間移動船の方が、ずっと奇跡よ」
美しい口元で扇を開きながら、月の姫君が優雅に船内を見渡す。
「この船を使いこなす技術……月の都にも、存在しないわ。奇跡の実現は、貴女なればこそよ岡崎教授」
「助手も優秀でね」
北白河ちゆりは現在、船内の整備点検で動き回っている。以前の機能不全を、彼女は己の責任と思い込んでいるようであった。
「貴女なら」
月の姫君が、じっと見つめてくる。
「私の研究を、理解してくれる……もっと有効に活かしてくれる。そんな期待を、抱いてしまうわね」
「うふふ、私でも無理だよ。貴女のフェムトファイバー理論を完全に理解出来る者が、この宇宙に存在するとは思えない」
誰にも理解出来ない独自の理論で、この姫君は、宇宙で最も強靭な物質を作り上げたのだ。
「フェムトファイバーだけでは、もはや月の都を守る事は出来ない……」
姫君が、遠くを見つめた。
「この宇宙で最大の穢れ、とも言うべき存在が、外敵として月の都を脅かしている。この度、どうにか休戦の約定を交わす事は出来たけれど、その期限は……次に、太陽と月の直線上中間点に地球が来た時まで」
「地球から見た場合……次の、満月の夜か」
「その満月の夜が明けた瞬間、休戦は終わる。私たちの外敵が、月の都への攻撃を再開する。その時までに……幻想郷に潜む反乱分子を討滅し、後顧の憂いを絶っておかなければ」
「その反乱分子とやらと、貴女がたの外敵が、手を結ぶ事もあり得ると」
「月の都にいた頃はね……2人とも、仲が良かったから」
姫君が微笑んだ。懐かしんでいる、のであろうか。
「まあ、わかったよ綿月豊姫。満月の夜を、つまり休戦の期間を長引かせる必要があるんだね。反乱分子を片付けるために」
「申し訳ない、とは思うわ岡崎教授。貴女を、月の都の内紛に巻き込む事になってしまった」
「私にもね、恩返しだけではない……私個人の、思惑がある」
夢美は、にやりと微笑んだ。
「こういう形で幻想郷と関わり合えば……また、あの子たちが遊びに来てくれるかも知れない」