第14話 暗躍者・八雲紫
原作 上海アリス幻樂団
改変、独自設定その他諸々 小湊拓也
自分は、間もなく死ぬ。
実感しつつ、博麗霊夢は血を吐いた。激痛が、体内で暴れ回っている。
血を吐きながら霊夢は今、空を飛んでいた。
満身創痍。ボロ雑巾も同然の身体が、清流の鮎にも似た優雅な躍動を披露しつつ、夜空を泳いでいる。
泳ぐ細身のあちこちを、凄まじい衝撃がかすめて行く。
小規模な、弾幕の塊であった。大型の光弾を、いくつもの小さな光弾が取り巻いている。
無数のそれらが、綿月依姫の優美な全身から放たれ迸り、霊夢を猛襲する。
全てを、霊夢はかわしていた。
自分は今、最高の回避飛行が出来ている。そう思った。
(私……今が、一番速い……今が、一番……強い……?)
左右では2つの陰陽玉が浮かび、光弾を速射し続けている。
それと共に霊夢は左手で、呪符の束を投射した。
光弾と、呪符。2種類から成る霊夢の弾幕が、依姫を直撃する。直撃した、ように見えた。
一閃。斬撃の弧が、霊夢の光弾と呪符を全て斬り砕いていた。
魂魄妖夢の楼観剣よりも、いくらか長い刀身。抜き身の大刀を、たおやかな手で軽やかに握り構えながら、依姫は夜空に佇んでいる。
霊夢は、声を投げた。
「やるじゃあないの依姫さん……そうよ、それでいいと思うわ。神様の力がないと駄目? いいじゃない、それで。神降ろしが全然ダメな私に言わせればねえ、贅沢ぬかすなって話にしかならないわけよ」
『君も、巫女か』
それは依姫の綺麗な唇から発せられた、依姫の美しい声である。が、依姫の言葉ではなかった。
『巫女でありながら、神降ろしが今ひとつ……なのだね。ふむ』
依姫の澄んだ瞳が、霊夢を見据える。
それは、しかしやはり依姫の眼差しではなかった。
『神など降ろす必要はない、とも言える。君は……自身の霊力のみで、神とも渡り合える。まさか、このような人間が存在するとは』
霊夢は気付いた。
弾幕に、取り囲まれている。
無数の光弾が、霊夢の周囲で方形に並んでいる。幾重にも。
『希望が、必要なんだ』
得体の知れぬ神が、依姫の口で、得体の知れぬ事を言った。
『君ならば、最強の人間霊に成れるだろう。動物霊たちの暴虐から、霊長園を守る事が出来る……死せる人間たちの、君は希望だ』
何重にも張り巡らされた弾幕の正方形たちが、中央の霊夢に向かって一斉に狭まって来る。
『私は、だから君を殺して畜生界に連れて行く。閻魔の裁きなど受けさせはしない……君は、私の戦力となるのさ』
全方向から襲い来る光弾の嵐を見据えながら、霊夢はもう1度、血を吐いた。
身体が死にかけている。気力と霊力で持ち堪えるのも限界だ。
もう動けない。かわせない。自分は、このまま死ぬ。
「……弾幕戦で死ぬなら本望、とか思ってんだろ。まぁ気持ちはわからんでもねえが」
声がした。自分の近くに誰がいるのかも、わからなくなりつつある。
ただ、全方向から自分に向かって来た弾幕が、直撃寸前で止まったのはわかる。
小柄な何者かが、霊夢の傍らで空中に佇んでいた。大きな角を生やした、小さな少女。
霊夢に向かって集中しつつあった弾幕が、弱々しく拡散してゆく。その少女の言葉に合わせてだ。
「……まぁた面白えモンくっ憑けてんなあ依姫ちゃんよォ。何だおい、どこの神様よ」
拡散・飛散した光弾たちが、やがて力尽きたように消滅した。
『ほう。集中と拡散を、自在に操る能力か』
「ものを集めたりバラけさせたりが得意でなあ」
「……何だ……萃香じゃないの……」
ようやく霊夢は、相手を識別した。
「何しに来たのよ……ちゃんと神社で、お留守番してなさいよね……」
言った霊夢の口に、何かが突っ込まれた。
瓢箪、ではなかった。小さな瓶、のようである。
「酒じゃあなくて、悪いな」
伊吹萃香が、にやりと笑う。
霊夢は、笑ってなどいられなかった。
口中に流し込まれて来たものを、全て飲んでしまった。この凄まじい不味さが、懐かしくもある。
「ぐっ……ぇええぇ……ッ! ぎゃうっ、ぐぶぅ! げべ!」
体内から、メキメキと音が響いて来る。
破裂した臓物が引きちぎられ抜き取られ、新しい臓物を無理やりに押し込められる。そんな激痛が、蠢き暴れた。
霊夢は、悲鳴と血反吐を夜空にぶちまけていた。
「ぎゃぶぅっ! げえぇっぶ、ぐぅぇええええええええええ!」
空中でのたうち回る霊夢に、依姫が攻撃を加えずにいる理由。
それは、流星のごとく飛来した、金色の火の玉であった。
猛回転する獣毛の塊。
燃え盛る火球のようなそれが、依姫に激突する。
大量の火花が散った。
激突して来たものを、依姫が剣で受け止めている。長大な抜き身の刀身を、回転する獣毛の塊がガリガリと圧迫している。
そうしながら、八雲藍は光弾を発射した。
至近距離から直撃を食らった依姫が、吹っ飛んだ。そして軽やかに身を捻り、空中の見えざる足場に着地する。
藍もフワリと回転を止め、距離を隔てて依姫と対峙した。
その様に、霊夢は涙目を向けた。
「ぎゃふう、ぐっぶ……げえぇっ……ち、ちょっと、あんた」
ようやく、まともに声を出せるようになった。
「なに……何で、裸なのよ……神社に、脱ぎ散らかして来たんじゃないでしょうねえっ」
「衣服を失うだけで済んだのは幸い、としか思えぬ戦いがあってな」
凹凸の見事な裸身に、藍は豊かな尻尾を巻き付け、本当に隠すべき部分のみを隠している。
依姫の剣に激突したと言うのに、その白い肌は全くの無傷だ。禍々しいほどの美肌が月光の煌めきを帯び、人外そのものの色香を匂わせている。
「……先程まで、貴様と同じく死にかけていた。その薬に助けられた。地獄のような不味さであった」
「そう……そうよ萃香。何で、あんたがこの薬を」
「お届け物だ」
言いつつ萃香は、大きめの風呂敷包みを携えていた。
霊夢は、己の胸や鳩尾に手を触れた。
負傷した体内を、無理やりに修理される激痛。本当に久しぶりであった。
「……八雲藍。あんた、あいつらと戦ったのね」
「貴様もか、博麗霊夢」
あいつら、だけで通じてしまう。
自分は今、この九尾の大妖獣と、同じ敵を共有しているのだ。
『博麗霊夢、と言うのだね。君は』
得体の知れぬ神が、依姫の口で言った。
『傷が治ったところで、さあ改めて私の相手をしたまえ』
「おかしなものが憑いているようだな、綿月依姫に」
藍が言うと、依姫の中にいる神が呆れた。
『おかしなもの、などと君に言われたくはないよ。何かね、その格好は。君のような破廉恥な動物霊、畜生界にだってそうはいない』
「誰が動物霊か。ともかく何者か知らんが、そこを出ろ。綿月依姫の身柄を渡せ」
「あんたたちの目的……依姫さんの身柄や命、じゃあないんでしょう。本当は」
霊夢は問い質した。藍に、ではない。
いつの間にか背後にいる、1人の女にだ。
「性懲りもなく……人を駒代わりに将棋の名人気取りってわけ? 進歩のないスキマ妖怪」
「今の私はとても気分が良いから、その無礼な物言いを許してあげるわ」
空間の裂け目の縁に、八雲紫は優雅に腰掛けていた。
「霊夢も、それに藍も。フェムトファイバー装甲との戦い方を、しっかり身につけてくれたわね。あとは……貴女が力を取り戻すだけよ、綿月依姫」
「……また人に試練でも与えてるつもり? ねえ、あんた何様よ」
霊夢は、紫の胸ぐらを掴んだ。
「そういうとこが本当、許せないって言ってんの」
「ふふ……私はねぇ霊夢、将棋の名人なんて気取っていないわ。状況が、何故だか私の望み通りに動いてくれる場合が多いというだけ」
紫の微笑は変わらないが、藍が血相を変えた。
「おい貴様、紫様に手を触れるな無礼者!」
「……いいから服を着なさい、藍」
紫の言葉と同時に、藍の傍らで夜空が裂けた。
裂け目から、1人の少女がぴょこんと現れた。獣の耳と二又の尻尾が、揺れた。
「藍様、服」
「橙……駄目だ、来てはいけない。この神は危険」
「いいから、とっとと服着るね」
橙が、持参した衣服を藍の身体に着せ被せる。ほぼ無理やりにだ。
「まったく、紫様の沽券に関わるね」
『慌てる事はない、ゆっくり身だしなみを整えると良い。その間、私は』
依姫の剣が、霊夢に向けられた。
『博麗霊夢と、小鬼……お前たちの穢れを、もっともっと私に見せておくれよ』
刃の周囲に、無数の光弾が生じた。
それらが一斉に放たれ、霊夢と萃香を猛襲する。
「ちいっ、私と霊夢を一緒くたに相手取ろうたぁな!」
萃香が叫び、かわした。
霊夢は無言で唇を噛み、かわした。紫の姿は、いつの間にか消えている。
かわされた弾幕が、そのまま地上へと降り注ぐ。
人里ではなかった。
人里は今、何やらよくわからぬ状態であるが、ともかく空中で弾幕戦を繰り広げている間、そこから随分と離れてしまった。
若い女性が1人、提灯を片手に、とぼとぼと木立の中を歩いている。付近の農家の娘であろうか。
夜道の1人歩きは感心出来ないところであるが、本来ならば陽が昇っているはずの時間帯である。暗くとも働きに出なければならない人々もいるであろう。
その女性に、弾幕が降り注ぐ。
若い女性、と言うより少女だ。襲い来る光弾の雨を見上げ、立ちすくんでいる。
何かを考える前に、霊夢は飛んだ。
空中から超高速で地上へと向かい、その少女を抱きさらう。
直後、弾幕が地面を直撃した。大量の土が、舞い上がった。
「ひ……っ……」
少女が怯え、しがみついて来る。
そっと抱き締めながら霊夢は、依姫を睨んだ。
『すまない、すまない。怪我は無かったかな』
得体の知れぬ神が、依姫の片手で、依姫の頭を掻いている。
『私たち弾幕使いは本当に、僅かな不注意で人を死なせてしまう……気を付けなければ、ね』
「……そうね」
憤激の念を、霊夢は押し殺した。
光弾がかすめただけで死んでしまう一般人がいる。これ以上、事を荒立てるわけにはいかない。
依姫が、ふわりと上昇した。霊夢から遠ざかって行く。
『私も少し、頭を冷やす事にする。また会おう博麗霊夢』
「ちょっと。逃げるのは構わないけど、依姫さんを置いて行きなさい」
『固い事を言うな。工房に籠もりきりだったんだ、少し息抜きをさせておくれよ』
依姫の肉体を着込んだまま、神は逃げて行く。
『この依姫という巫女は、素晴らしい。まるで生身で動き回っているかの如く、私に馴染む……』
「待ちなさい!」
追おうとする霊夢に、怯えた少女がすがり付いて来る。
「その嬢ちゃん、身の安全をきっちり確保してだ。家へ送り届けてやりな」
遠ざかる依姫の姿を追って、萃香が飛んだ。
風呂敷包みが、放り投げられる。霊夢の傍にいつの間にか出現している八雲紫に向かってだ。
「この先、そいつを必要とする奴らが大勢出て来る。おめえが配ってやれ」
両の細腕で紫が風呂敷包みを抱き止めた、その時には萃香は言葉だけを残し、いなくなっていた。
「依姫はな、私がふん捕まえて連れ帰る!」
依姫も萃香も、夜空の彼方へと姿を消していた。
紫が空間の裂け目を開き、そこに風呂敷包みを放り込む。
きちんと服を着終えた八雲藍が、紫の傍に恭しく控えたまま言った。
「……高麗野あうんがな、貴様の予備の巫女装束を私に貸してくれた」
「着て来ればいいじゃないの」
霊夢の言葉に、藍が優雅な嘲笑を浮かべる。
「どうにも、胸が窮屈でな」
「殺す」
「やめなさい、2人とも」
紫が、割って入った。
「貴女たちにはね、これから力を合わせてもらう事になるのよ」
「……あんたの思惑通りに? ねえ、スキマ妖怪」
霊夢は紫を睨んだ。少女を抱き上げたままでなければ、弾幕の1つも叩き付けていたところかも知れない。
「一体何を企んでるのか、そろそろ吐いてもらうわよ」
「私は」
気取った手つきで扇子を広げながら、紫は月を見上げた。沈まぬ月。夜空に描かれた絵画のような、美し過ぎる満月。
「……月の軍勢から、幻想郷を守りたいだけよ」
「夢想封印も跳ね返すような連中だったわ」
「あの装甲を粉砕するには、穢れが必要……だから、そうね。死の穢れを体質として保有している、白玉楼の2人なら苦戦する事はないでしょうね」
「……あいつらとも、また関わり合う事になるわけ」
「あの」
霊夢に抱かれたまま、少女がようやく言葉を発した。
「わ、私……空、飛んでるんですね……」
「ああ、ごめんなさい恐いでしょうね。地面に降りましょうか」
「い、いえ……空、飛べるなんて素敵です」
少女の瞳が、キラキラと輝いている。綺麗な目だ、と霊夢は感じた。
「普通に空を飛べる、弾幕使いの人たちに……私、憧れてるんです」
「……ま、憧れるだけにしときなさい」
純粋な憧れを宿す瞳に見つめられ、自分は少し舞い上がっているのかも知れない、と霊夢は思った。本当に、綺麗な目をした少女である。
美しい瞳に霊夢が見入った、その時。
「しゃあああッッ!」
獣の斬撃が、襲いかかって来た。
橙の愛らしい五指から伸びた、真紅の爪。霊夢を、いや霊夢に抱かれた少女を引き裂かんと一閃する。
「ちょっと……!」
しがみつく少女の細身をしっかりと両腕で保持したまま、霊夢はかわした。
「何のつもり……冗談でも、許さないわよ」
「それ、こっちの台詞よ。博麗の巫女、平和ボケし過ぎ。許せないね」
空中で低く身構え、両手の爪を広げ、牙を剥きながら、橙は言った。
「わからないか。その女、危険よ……とっとと放り捨てて、殺すね」
「世迷言を……!」
激昂する霊夢の腕の中から、少女が見上げてくる。
綺麗な両目が、霊夢をじっと見つめる。
美しく輝く瞳。真紅に、輝く瞳。
赤い眼光が、霊夢の瞳孔から入り込み、視神経を通り抜け、脳髄に突き刺さった。
「迂闊……! 私とした事が……!」
紫が、何やら狼狽している。
藍が、橙と並んで身構えている。回転をしようと言うのか。回転が始まったら、手がつけられなくなる。
だが、3人とも動かなかった。
「そう……動いては、駄目」
真紅の瞳の少女が、そんな事を言いながら霊夢の喉に人差し指を突き付けている。
「貴女たち、弾幕使いなら理解出来るわね? 私の指先は銃口……このまま撃ち抜くわよ」
作り物か、本物か。
少女の頭には、いつの間にか兎の耳が立っていた。
「……玉兎の、隠密兵士……!」
紫が呻く。
「……幻想郷に、入り込んでいたのね」
「我が師・八意永琳曰く、幻想郷において特に注意を要する存在……筆頭、八雲紫」
霊夢に指先を突き付けたまま、少女は謎めいた事を言っている。真紅の瞳が、紫に向けられる。
「貴女の暗躍は、永遠亭に災いをもたらすものよ。放置してはおけない」
八雲紫を、放置してはおけない。
その思考が、霊夢の脳内に満ちた。真紅の眼光と共にだ。
「貴女が噂の……博麗の巫女ね」
赤い瞳の少女が、霊夢に抱き上げられながら、霊夢を抱き締めてもいる。可愛らしい唇が、霊夢の耳元で囁きを紡ぐ。
「私たち永遠亭を、守ってくれる?」
「……守って、あげる」
「いい子。では貴女を、人質という不名誉な立場から解放してあげましょう。戦いなさい、私の部下として」
的確な判断だ、と霊夢はぼんやり思った。自分など人質にしたところで、八雲紫は躊躇いなく見捨てるだろう。それなら戦わせた方が良い。
「……殺しなさい、八雲紫を」
「了解……殺してあげる、八雲紫を……」
八雲紫を、殺す。
その思考が、霊夢の脳内に満ちた。真紅の眼光と共にだ。
自分の両眼も今、この少女と同じように赤く発光している。それが霊夢にはわかった。
その赤い眼光が向けられた先で、空間の裂け目が閉じた。
紫も、藍も橙も、姿を消していた。
「……逃げたわね」
今や霊夢の上官である、兎の耳の少女が言う。
「まあいいわ、時間をかけて狩りを愉しむのも一興……月の兎は、狩る側であれ。捕食者であれ。強者であれ。そうですよね? 依姫様」
萃香と依姫が飛び去った方角を、少女は見つめた。
「相変わらず、よくわからぬ神に依り憑かれていらっしゃる……のは、まあ昔通りで良いとして。一体全体このような場所で、何をなさっておられるのですか」