第10話 フェムト(前編)
原作 上海アリス幻樂団
改変、独自設定その他諸々 小湊拓也
八雲紫から、逃げられるはずはなかった。
それでも、綿月依姫があのスキマ妖怪の視界内にいる時間を、1秒でも減らす必要はある。博麗霊夢は、そう思う。
紫に凝視されるだけで、依姫は消滅してしまいかないのだ。
「今は……私も依姫さんも、消えてる状態なのよね」
依姫の手を引いて、霊夢は空を飛んでいる。妖精を3匹、従えてだ。
「ええと、そこの。サニーミルクとか言ったわね? なかなか、やるじゃないの」
「ふふふ。あたしはね、光の屈折を操って姿を消せるの。かくれんぼなら右に出る者はいない妖精よ」
「そこのあんたはルナチャイルド、だったっけ。音は消しても、こうやって会話は出来るわけ? 器用なもんね」
「この会話、私たち以外の誰かには聞こえません。音漏れ防止。修練のたまものよ」
飛びながら、ルナチャイルドが得意げにしている。
「私、かくれんぼの最終兵器妖精ですから」
「で、最後の1人がスターサファイア。あんた気配を感じ取れるんだって? 消す方はどうなの。私たちの気配、ちゃんと消えてる?」
「わ、わかりません。消す方は練習中なもので」
妖精が、何かを練習する。考えにくい話ではある。
自分も練習だの修練だのはした事がない、と霊夢は思った。
「ちなみに私、かくれんぼの鬼をやらせてもらえない妖精です」
「かくれんぼなら今度、私とやりましょう。うふふ、見つかったら弾幕戦よ」
「そ、それは、かくれんぼじゃなくて妖精狩りです霊夢さん」
スターサファイアが怯えた。
「そんな事より……ここ、どこなんでしょう。人の気配はしますけど」
「そうね、もう人里の中……」
飛行速度を落としつつ、霊夢は見回した。
依姫が、霊夢の手を握り返してきた。
「博麗霊夢……貴女は何故、私を助けてくれるの?」
「成り行きよ」
霊夢は即答した。
「ありがたい? なら後でお賽銭でも入れてちょうだい」
依姫の優美な肢体は、光の羽衣をまとっている。香霖堂で買い取ってくれるだろうか、と霊夢はやはり考えてしまう。
依姫自身に飛行能力があるのか、羽衣がなければ飛べないのか、それはわからない。
「……誰かに助けられるって、悔しい?」
霊夢の問いに、依姫は応えない。空を飛びながら俯いている。
「私もね、1回バカやって死んじゃった事があって……友達に助けてもらったんだけど。感謝より先に、まあ悔しかったわ。誰よりも自分を許せなかった」
「許せない、自分自身と……」
依姫の声は、弱々しい。
「……折り合いは、ついたの?」
「全然。ずうっとモヤモヤしたまんまよ」
西行寺幽々子を弾幕で叩きのめしても、気分は晴れなかった。
魔理沙たちに今後、何らかの形で借りを返す事が出来たとしても、心が晴れる事はないだろう、と霊夢は思う。
あの時、自分は無様にも、生命と魂を抜き取られてしまった。その事実が帳消しになる事はないのだ。
「モヤモヤが消える事って……絶対、ないと思うのよね」
「……無様な自分とは……一生、付き合ってゆかなければならない……」
依姫が呟く。
「敗北からも……失敗からも、逃げる事は……出来ない……」
「ね、何を失敗したのか知らないけど元気出しなさいよ。あたしらなんて失敗が日常よ」
サニーミルクが言った。
「特にルナ! 鈍臭さで右に出る者なしよ。ね?」
「……毎朝毎朝ベッドから転げ落ちてる奴に言われたくないわよ。この寝坊助サニー」
「なにおう!」
妖精2匹が、掴み合いの喧嘩を始める。スターサファイアが面白がっている。
とりあえず弾幕でも叩き込もうか、と霊夢が思った、その時。
「ちょっと……いいかしら、貴女たち」
依姫が、やんわりと霊夢の手を振りほどいた。
そして、妖精たちを弄り始める。サニーミルクの頬を摘み、ルナチャイルドの巻き髪を弄び、スターサファイアの頭を撫でる。
「……凄い。これが……幻想郷の、妖精……」
「な、何?」
戸惑うサニーミルクの目を、依姫はじっと見据えた。
「生命、自然……穢れの、塊……ふふ、貴女たちは……月人の、天敵ね」
笑顔が、震えている。
「貴女たち妖精が大挙して押し寄せたら、月の都なんて……ひとたまりもないわよ」
その言葉の意味を問いただしている、場合ではなかった。
「ちょっと……何よ、これは……」
霊夢は見回した。地上を見下ろし、幾度も幾度も見回した。見渡した。
博麗神社から、ずっと空を飛んで来た。今や人里が眼下に広がっているはずである。
人里が、消え失せていた。建物が見えない。人も見えない。
夜空には、いくらか綺麗すぎる満月が浮かんでいる。地上を照らしている。
地上には、しかし何もなかった。
何かがある、ようにも見える。それは、しかし人里の夜景ではない。
わけのわからぬ何かが、渦巻いたり目まぐるしく切り替わったりしている。
霊夢は、ゆっくりと高度を下げた。わけのわからぬ何かの中へと、降下して行った。
近付けなかった。
渦巻いたり切り替わったりしているものが、一向に近付いて来ない。
依姫が、訊いてきた。
「霊夢……ここは?」
「……人里よ」
霊夢は呻いた。
「幻想郷の、人間たちが住んでいる場所……の、はずなんだけど……」
「それが、消えている……と言うよりも」
依姫の美貌が、眼差しが、鋭さを帯びた。彼女本来の聡明さが蘇りつつあるのか、と霊夢は思った。
「……最初から、無かった事になっている……見る者に、そう思わせる仕掛け……」
「どういう事なの……」
霊夢は思わず、依姫を睨んでしまった。
「何かわかるんなら教えてよ依姫さん! 人里は、どうなっちゃったの!? 住んでる人たち、どこ行っちゃったのよ!」
「落ち着いて霊夢。ごめんなさい、私も詳しい事はわからない……ただ1つ、はっきりと言える事はある」
依姫が、じっと見つめ返してくる。
曇りなく澄んだ、星空のような瞳だった。
「……これは、目くらましよ。大丈夫。幻想郷の人里は、消えてしまったわけではないわ。隠されただけ」
星空。あるいは宇宙か、と霊夢は思った。
宇宙空間に放り出された、ような感覚に、霊夢は陥っていた。
「誰かが、人里を、人々を、隠している。恐らくは……私のような招かれざる異邦人から、守り通すために」
放り出された自分を、依姫が抱き止めてくれた。霊夢は、そう感じた。
「心配しないで霊夢。その誰かは、人々を守ろうとしている。貴女と同じ志を持っている」
「私と……」
「貴女の事……私ね、わかってきたのよ霊夢」
依姫が微笑んだ。
心折れていた月の姫巫女が、何かを蘇らせつつある、と霊夢は思った。許可もなく勝手に立ち直り、博麗神社を出て行ってしまった、レミリア・スカーレットのようにだ。
「神にすら戦いを挑む、恐れ知らずの戦巫女……だけど守るべき人々の危機には心乱し、怯えずにはいられない。それが貴女よ、博麗霊夢。それでいい、と私は思うわ」
「私は……」
そこで霊夢は息を呑んだ。
サニーミルクが、ルナチャイルドが、スターサファイアが、小さく悲鳴を上げて身を寄せ合う。
依姫が、星空のような瞳を見開いた。
「お前たちは……!」
そう呼ばれたものたちが空を飛び、依姫と霊夢を、妖精3匹を、取り囲んでいる。
ずんぐりと不恰好な、鎧の群れ。
似たようなものを香霖堂で見た事がある、と霊夢は思い出した。土偶。霖之助は、そう言っていた。
「お前たち……そうか、すでに来ていたのか……だが誰だ?」
謎めいた事を、依姫は叫んでいる。
「誰が、お前たちを率いている!? 清蘭か? それとも鈴瑚? 生きていたのか!? この場にいるならば返事をしてくれ! 恨み言でも罵詈雑言でも良い、お前たちの声を聞かせてくれ!」
人々の危機に心乱し、怯える。霊夢がそうだとしたら、それ以上に今の依姫は心乱している。
「……まさか……レイセン、ではあるまいな……」
依姫は、震えていた。
「あの未熟な子に……地上へ降りる任務を与えたのか、貴様は……この幻想郷が、どれほど危険な場所であるのか……あの戦いで何も学ばなかったのか……それとも捨て石か……貴様は、玉兎の命を使い捨てるのか! それが月の丞相たる者のする事なのか! 答えろ綿月豊姫!」
清蘭、鈴瑚、レイセン、綿月豊姫。
そう呼ばれた者たちの返事など、聞こえて来るはずがなかった。
土偶の群れが、ただ無言で浮遊しているだけである。
「何……これ……」
スターサファイアが、青ざめている。
「生き物の、気配……なの? これって……変……何か変よ、こいつら……気持ち、悪い……」
「弾幕! 来るわよ!」
霊夢は叫び、その場を飛行離脱した。
この土偶たちの正体を探るためには、生き物の気配を感知出来るというスターサファイアの言葉を落ち着いて聞いておくべき、なのかも知れないが、そんな余裕を与えてくれる相手ではなかった。
太く短い片手を、土偶たちは霊夢に向けている。依姫に向けている。妖精3匹に向けている。
不格好な指が、発光した。
光が弾丸と化し、速射される。
かわしながら、霊夢は空中全域を見渡し、確認した。
依姫が、いくらか頼りなく細身を揺らし、よろめくように光弾を回避している。
妖精たちは、かわすと言うより逃げ回っていた。押し寄せる弾幕の中、悲鳴を上げながら、3匹それぞれ別の方向に飛んで行ったり合流したりしている。
でたらめに飛んでいる、ように見えて、光弾の嵐をかわし続けている。
それが出来ている間に反撃を行うのが、霊夢の役目であった。
「博麗の巫女に、弾幕戦を挑む……それがどういう事なのか教えてあげるわっ!」
左右に陰陽玉が2つ、出現し浮遊する。
それらに霊力を送り込みながら、霊夢は両手で、大量の呪符を扇状に広げていた。
霊力を原料とする光弾が、陰陽玉から無数、迸って土偶たちを直撃する。
光の飛沫を蹴散らすようにして、土偶の群れはゆらりと飛行し、包囲を狭めにかかる。
「……無傷!? まさか……」
霊夢は両腕を振るい、呪符の束を全方向に投射した。
土偶たちの体表面で、呪符がことごとく破け散った。
いかなる中身を内包しているのか定かではない、土偶の形の甲冑は、やはり無傷である。
「…………嘘……」
霊夢は、呆然とするしかなかった。
土偶たちの光弾が、あらゆる方向・角度から襲いかかって来る。それにも気付かなかった。
光が一閃し、霊夢の周囲を薙ぎ払った。斬撃の一閃。
光弾が、全て砕け散っていた。
「霊夢!」
先程とは逆である。依姫が、霊夢の手を引いていた。
左手で霊夢の手首を掴んだまま依姫は、右手で剣を振るう。長大な抜き身が、またしても一閃し、土偶たちの光弾を片っ端から斬り砕いた。
「火雷神!」
依姫の叫びに応じ、炎が生じて渦を巻いた。とぐろを巻く大蛇のようにだ。
炎の大蛇が、土偶の軍勢を襲い、砕け散った。
相変わらず無傷の土偶たちが、ずんぐりとした巨体で炎の破片を蹴散らし、依姫と霊夢を追う。不格好な片手から、光弾を連射しながら。
「くっ……やはり、今の私の力では……」
霊夢を背後に庇って剣を振るい、光弾を斬り砕きながら、依姫が呻く。
「……フェムトファイバー装甲を、破壊する事は出来ない……」
「ふぇむと……何?」
霊夢は我に返った。
「まあいいわ、ただ固いだけの鎧なんて! この夢想封印でっ!」
虹色の光の塊が複数、夜空を彩りながら飛翔旋回し、土偶の群れを猛襲する。
砕け散った。土偶、ではなく虹色の大型光弾が。
夢想封印を砕いて蹴散らしながら、無傷の甲冑たちが弾幕をぶちまけてくる。
不恰好で醜悪な、鎧の軍勢が、破壊の光をばら撒いている。
我に返ったはずの霊夢は今、再び悪夢の中にいた。伊吹萃香にしこたま呑まされ、高鼾の最中。そうに違いない、と思った。
おかしな呑み方をしたから、おかしな夢を見ている。
「…………依姫さん……お願い……」
ぼんやりと、霊夢は言った。
「こいつらの事、知ってるなら教えて……どうやったら斃せるの?」
「起きながら悪夢を見ている最中でも、現実に対応しようとする。貴女の素晴らしいところよ、霊夢」
押し寄せる光弾の嵐を、薙ぎ払い斬り砕きながら、依姫は言った。
「この者たちは、月人の兵士……その身にまとうフェムトファイバー装甲は、力による攻撃を全て無効化する。力の強弱に関わりなく。力で、須臾の集合体を破壊する事は出来ないから」
他人に理解出来る説明ではない、という事を依姫も自覚はしているようだ。
「……これを破壊する手段は、ただ1つ。穢れ、よ」
「穢れ……?」
「月人が、最も忌み嫌うもの。古より月人が恐れ、拒絶し、遠ざけてきたもの。月人が作り上げたものは、地上の穢れによってのみ損なわれる」
どこからか、光弾が飛んで来た。夢想封印とは比べようもない、弱々しい弾幕。
それが、土偶たちに命中はした。
効くはずがない、と霊夢は思った。博麗の巫女の弾幕が、全く通用しなかった相手である。
夢想封印を弾き返した甲冑が、しかし揺らいだ。
フェムトファイバー装甲とやらに、外傷は見られない。
無傷の鎧をまとう月人の兵士たちが、弱々しい弾幕をぱちぱちと当てられ、動きを止めている。たじろいだように、空中を後退りして行く。
「き、効いてる。私たちの弾幕が……」
「やるわよルナ、スター! あうんちゃんの御主人を、あたしたちで守る!」
「……この気持ち悪い化け物たち……幻想郷に、居させちゃ駄目!」
やはり夢だ、と霊夢は思った。鬼の酒で、自分は変な酔っ払い方をしている。
妖精が、博麗の巫女を守っている。これほど珍妙な悪夢があるだろうか。
サニーミルクが、ルナチャイルドが、スターサファイアが、霊夢と依姫を背後に庇いながら光弾をばら撒いていた。
ぽかぽかと穏やかな日の光、頼りない新月の明かり、微かな星々の瞬き。そんなものを思わせる弱々しい弾幕が、土偶たちをぺちぺちと直撃する。
月人の軍勢が、よろめき、揺らぎ、後退して行く様を、霊夢は呆然と見つめた。
「自然と、生命……それは月人という、宇宙で最も脆弱な種族にとっては、穢れでしかない」
霊夢と同じく妖精3匹に守られながら、依姫が語る。
「……幻想郷の妖精は、穢れの塊。まさしく月人の天敵と言える」
そんな語りを、霊夢はもはや聞いてなどいなかった。
「……何……私って今、妖精より弱いわけ? 博麗の巫女が……」
懐かしい、と伊吹萃香は思った。
「よう……おめえら、降りて来たのかい」
一緒に酒盛りが出来る、ような相手ではない。だから萃香は1人で、瓢箪の中身を呷った。
高麗野あうんが、八雲藍にすがりつく。
「な……何ですかぁ、この人? たち……」
藍は無言のまま、博麗神社の境内を見回している。
いや。夜空から境内へと降下しつつある、異形のものたちに眼光を向けている。
ずんぐりと不恰好な、全身甲冑の群れ。
甲冑の中身は、月人という、この世で最も脆弱な知的生命体である。
脆弱な肉体に、とてつもなく強固な鎧をまとい、月人の兵士たちは降下して来たのだ。地上に、幻想郷に。
「……ご苦労なこった。どうせ綿月豊姫あたりの指図だろうが」
「伊吹萃香。貴様、この者どもを知っているのか」
背中で、九尾で、あうんを庇いながら藍が言う。
「……幻想郷に災いをもたらす存在であるのは確か、か」
「戦おうってんなら気をつけなぁ牝狐ちゃんよ」
酒を呑みながら見物でもしようか、という気分に萃香はなった。
「こいつらを、ぶちのめすにゃあ……ちいっとばかしコツがいるぜ」