日吉の初陣。河越夜戦
皆様。明けましておめでとうございます。
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1545年 河越城
木下日吉は北条幻庵により北条綱成が守る河越城へと連れられた。広間に通された幻庵と日吉は綱成が来るのを待った。そしてスッスッスッスッと早い摺り足の音が聞こえ、逞しい武将が入ってきた。
『日吉。これは守将の北条綱成だ。彼の元で修行しなさい』
『はい。綱成様。木下日吉と申します。宜しくお願い致します』
『北条綱成だ。しかし幻庵爺。良いのか私で』
『何。何事も実践が必要じゃからな』
『そうか。わかりました。では、預からせて頂きます』
『宜しく頼む』
幻庵はそう言って小田原に帰った。
『さて、日吉。先ずお前がどこまで出来るのか見せてくれ』
『はい』
日吉は今まで中々村でやって来た学問、武術、生活習慣を綱成やその家臣達に見せていく。日吉はまだ7歳なのだが、周りからはもっと大人びて見えているようだ。
『うむ。(7つと聞いていたがいやはや、中々の逸材ではないか。7歳で)』
『綱成様。如何でしょうか?』
『うむ。お前の実力はわかった。その歳でもある。まだまだ足りん。日々、精進せよ』
『はい。頑張ります』
この日より日吉に対しての鍛練が始まった。
掃除、洗濯の他に馬術、剣術、弓術、戦術、学問をこれでもかと積み込めたヘビー級の内容であった。
この鍛練を毎日、ヘトヘトになりながらもこなす日吉に周囲は驚くしかなかった。事実、綱成も驚いている。
『剣術はまだまだだが、馬術と弓術は人並みに出来ている。戦術はまだ理解は出来ないだろうが理解しようと努力している。学問もそれなりに出来ている。なかなか面白い人材だな。これがあの堺殿の』
それから数ヶ月経つ頃には日吉に負けじと他の武士達も鍛練に参加し河越城の兵の練度は北条一と言われるまでになったのである。
そして月日は流れ天文14年9月26日(1545年10月31日)
関東管領の山内上杉家(上杉憲政)、扇谷上杉家(上杉朝定)、古河公方の足利晴氏、その他関東諸大名連合軍は約80,000の大軍をもって北条氏の河越城を包囲した。
『綱成様。凄い数ですね』
『うむ。関東諸将が連合を組み儂らを倒そうとしておるからな』
『これは、持久戦になりますか?』
『そうだな。長い戦いになりそうだな。しかし大丈夫だ。小田原の殿が救援に来てくださる。其まで堪えれば勝てるぞ』
『ですが、大殿様は今、今川と戦と聞きましたが』
『それは大丈夫だ。今川とはお前の兄である堺中将様の仲介により停戦しておる。本当、お前の兄は凄いな。それに、、、、この鉄砲という武器。正に籠城戦にもってこいだ』
『兄上はそこまで凄いお人なのですか?』
『うむ。今や天下でその名を知らぬものが居ないだろうな。最も天下に近い人物と言ってもいい』
『ですが、京には将軍様が居ます』
『恐らくだが、三好、細川、六角等に戦を仕掛けるであろう。だが、将軍が勝てる可能性は低い』
『兵の統率ですか?』
『うむ。将軍家には部隊を率いる将が少ない。前回の細川とは上手く行った所もある。だが、次はわからん』
『成る程。勉強になります』
『日吉』
『はい』
『この戦で生き残ったならば、元服させる。約束は15になってからだったがそこは問題ない。この戦、勝つぞ』
『はっ』
そして河越城攻防戦は翌日、火蓋が切られた。
『撃てぇぇぇぇい』
バァーン バァーン バァーン バァーン バァーン
城壁からの弓矢の攻撃に加え、最新の鉄砲を100丁も使用された。
爆音と共に味方が倒れるのを見た連合軍は恐怖と混乱に陥り撤退。第一次攻防戦は直ぐに幕を閉じた。
その翌日も連合軍は攻めたが犠牲者が増える一方であった。
そんななか。小田原より北条氏康率いる12000が河越城に近づいて来ていた。
そして攻防4日目の夜
氏康からの伝令が連合軍の包囲を潜り抜け河越城に入城した。
綱成達は軍議を開き伝令から話を聞く
『ふむ。大殿は夜襲を仕掛けると』
『はっ。大殿様は明日の夜に決行したいと』
『承知した。大殿様に宜しく伝えてくれ』
伝令は再び包囲の隙間を潜り抜け氏康本陣へ向かい夜襲承諾を伝える。
そして翌日の夜、北条方は音を発てないように鎧兜を外した格好で連合軍へ夜襲を行った。
結果は夜襲は大成功。上杉朝定の敗死による扇谷上杉氏の滅亡、古河公方、関東管領家の弱体化となったのである。そして、その上杉朝定を討ち取ったのは綱成が率いる河越城方の木下日吉であった。
木下日吉の活躍を知った綱成は喜び援軍で来ていた氏康と幻庵も驚いていた。そして戦後処理が済んだ吉日。
『木下日吉様。入られます』
日吉は河越城で、氏康と幻庵、綱成の前で元服をすることになった。
『日吉。今後は木下藤吉郎秀吉と名乗るように』
『はっ。有難うございます』
ここに木下藤吉郎秀吉が誕生したのであった。