side1. その手を取った日
建物は崩れかけ、その壁には得体の知れないヘドロのようなものが付着し、羽虫が群がっている。
地面に飛び散った尿のような液体や、無造作に捨てられた腐ったゴミ。思わず鼻を覆いたくなるほどの悪臭が漂い、それは壁や地面に強くこびり付き、常にその場所は酷い臭いに汚染されていた。
道端に座っている人の目は薄暗く、だが何かを狙っているようなギラギラとした視線で、獲物を狙っている。
──ここは『スラム街』。
人生に失敗し、落第した者達の世界だ。
物心ついた時から、俺はここに居た。
いつもと同じく腹を空かせ、路地裏のスラムを彷徨う。動いたら余計に腹が空く。だけど、動かなければ食べ物には有り付けない。何でもいい。誰かが食べ残して捨てた物でも、臭いが酷くても、腐っていても、いっそ水でも……口に入る物であれば、何でもよかった。
とにかく何かを口にしないと、死ぬ。
ほとんど野生の本能で動いていた俺の頭は、常に『食べ物を探す』ということだけを考えていた。
でも、現実というのは、そう優しいものではない。
俺は何日も食べ物に有り付けないでいた。
ふらつく足取り、ボヤける視界。
ゆっくりと、体から力が抜けていく。
──それでもと、俺は生きるために動き続けた。
絶対に生き残って、この地獄から抜け出してやる。そんな子供っぽい野望を胸に抱いていた俺は毎日、惨めに、汚らわしく、哀れに全てを求め続けていた。
その日、気が付けば俺は、表通りに出てしまっていた。
道行く人の視線は、とても冷ややかなものだったと、まだ10歳にも満たない当時の俺でもわかった。それほどに彼らの目はキツく、同じ生き物を見るような感情ではなく、心からの侮蔑と嘲笑を含んでいた。
「汚らわしいガキが、こっちに来てんじゃねぇ!」
横から投げかけられた言葉。その直後、俺の体は地面を転がっていた。上手く力の入らない体を必死に動かし、首を回して元居た場所を見ると、綺麗な服に身を包んだ男性が足を振り上げた状態で立っていた。
その時になってようやく、俺は彼に蹴られたのだと理解した。
男ならここでやり返すところだ。
しかし、俺の体は何日も食べ物を口にせず、限界が近づいていた。
動くことも、言葉を発することも、全てが辛く、そして俺は全てを諦めていた。
その後、何があったのか、あまり詳しく覚えていない。
俺は知らぬ間に壁にもたれかかっていた。体の節々が激痛に悲鳴をあげ、食欲も相まってもうすでに動くことは不可能だ。
──ああ、俺もここまでかな。
俺は空を見上げ、どこか他人事のように己の最後を認める。
結局、何もできなかった。
あの地獄を出ることなんて、きっと不可能だったのだ。
「く、や……し、ぃ……」
俺は、悔しかった。
そして呪った。
不条理な世界を。非力な自分自身を。
なぜ自分はこんな扱いを受ける。
俺が何かしたか。俺が、何かしたか……!
それを問うたところで、答えは返ってこない。
もうすぐ消えゆく命に耳を傾ける者なんていない。
そう、思っていた────
「ねぇ、そこのあなた。大丈夫?」
最初、反応はできなかった。
俺に話しかけるような奴はいないと、決めつけていたからだ。
頬に触れられた感触がした。
俺は驚き、バッ! と首を上げる。
そこには燃えるような赤髪を揺らした幼く可憐な少女が、俺の前でちょこんと膝を折っていた。
「あ、良かった。動けるのね!」
言葉を失った。まさか、本当に俺なんかに話しかける人がいるなんて思わなかったからだ。
そんな驚きを知らず、少女は悲しそうに目を細め、ポツリと呟いた。
「すごく痛そう……大丈夫?」
よく見れば、少女の服装は貴族が着るような華やかなドレスだった。
この少女は倒れている俺を哀れに思い、駆け寄ったのだろう。
そのことを理解すると同時に、俺は自分がどうしようもなく惨めになった。
ギリッ……と、歯を噛み締める。
──どうせ、俺とは違ってこいつは裕福な暮らしをしてきたのだろう。
──欲しいものは何でも与えてもらい、何一つ不自由の無い生活を送ってきたのだろう。
──この世界の地獄を味わうことなく、全てから守られた籠の中でのうのうと生きてきたのだろう。
きっと、俺に話しかけてきたのも、こいつの気紛れだ。
どうせこの女は何もわかっちゃいない。俺の苦しみなんて、何も理解しちゃいない。
そんな奴に掛けられる温情なんて、惨め以外の何物でもない!
「だったら、」
俺は、最後の力を振り絞り、肺の中の空気を吐き出した。
「だったら俺を助けてみろよ! 裕福に生まれたお前が、俺を助けろよ! 何の覚悟もないお前なんかに心配される方が、迷惑で、ムカつくんだ! 心配するなら助けて……っ…………助けてくれよ……」
俺は自分が情けなくなった。
少女に激情し、名前も知らない彼女に八つ当たりしてしまった。
少女はとても驚いたように目を丸くさせ、そして真剣な表情を浮かべ、頷いた。
「わかった。助ける」
──は?
俺は再び、言葉を失った。
目の前の少女は何て言った? 助ける? 何を? ……俺を?
「あなた、名前は?」
「…………ない、けど……」
「それじゃあ私が名前をあげる!」
どうせならかっこいい名前がいいわよね。と、顎に手を置き考える少女の姿を、俺はただ呆然と見守る。
「ねぇあなた! あなたの目、とっても綺麗ね!」
少女が顔を覗き込んでくる。
「赤くてキラキラしていて、まるで宝石みたい!
──決めた! あなたの名前は今日からルディよ!」
よろしくね! 私のルディ!
少女は太陽のような笑顔を浮かべ、手を差し伸べた。
あの日、俺は地獄から救われた。
そして俺はすぐに、彼女の地獄を味わった。己の無力さを再認識するのは、遅くなかった。あの時に何も理解できていなかったのは、俺の方だったのだ。彼女の苦しみも、嘆きも、孤独も、全てを理解した上で、助けることはできなかった。
俺は残酷で最低なこの世界を呪った。
俺にできることなら、何でもする。
だから彼女だけは、俺を救ってくれた恩人だけは守らせてくれ。
何度も、何度もそう願い──俺は誓った。
彼女が望むのなら、俺が全て与えよう。
彼女が悲しむなら、俺が慰めてあげよう。
彼女が苦しむなら、俺が代わりに苦しもう。
俺の全てを投げ出してでも、彼女だけは守ってみせる。何があっても彼女の側に居続ける。
誰よりも気高く、誰よりも愛おしい我が主人──ヴィエラ・カストル様。
たとえ記憶を失っても、あの時の約束を忘れてしまっても、俺が守ってみせます。貴女が俺を連れ出してくれた時のように、俺が貴女をあの地獄から連れ出してみせます。
──絶対に。
手を握って校門に向かう彼女の背中に、俺はもう一度、誓った。
いつもありがとうございます。
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