2. 協力者
「お嬢様……」
彼は迷うように目を泳がせ、やがて優しく微笑んだ。
「なに、言っているんです? またいつものように茶化しているんですか?」
「いいえ、茶化しているわけじゃないわ。私は貴方を知らない。でも、貴方は私を知っているみたいね? ……なら、教えてくれないかしら。私が誰で、何者なのか。貴方の名前も」
彼は奇跡に縋る思いで「茶化している」と言ったのだろう。でも、ここで「嘘でした」と言うのは無理がある。記憶が欠如しているのは本当なので、今ここで誤魔化しても、やがてボロが出るのは避けられない。
なら今の内に秘密を明かしておくのが、私としても彼としても、互いに理解が早くて良いだろう。
「もう一度問うわ。貴方は誰? 私の、なに?」
私が茶化しているわけでもなく、ましてや嘘をついているわけでもないと悟ったのだろう。彼は逡巡するように目を泳がせ、判断に迷っている。
でも、いつまでも止まっている場合ではない。
彼はぎゅっと目を瞑り、息を吐く。
「立ち話も何です。まずはゆっくりできる場所に移動しましょう」
微笑む彼の表情が一瞬、苦しそうに歪んで見えたのはどうしてだろうか。
私がその疑問を持った時、彼は私の手を取り、歩き出していた。
私は彼に案内されるまま、学園の中庭まで来ていた。
他の生徒の姿は見られない。彼が言うには、入学式の後は解散となり、皆一度屋敷に戻るらしい。だから、周囲に気を遣わずに話せる場所として、この庭を選んだのだとか。
「まず、お嬢様は記憶喪失ということでよろしいですか?」
「……ええ、そうね。一般的には、そう言うのかもしれないわね」
前世の記憶だけは持っているけれど、それを言うと更に混乱を招くことになってしまいそうなので、今は黙って『記憶喪失』ということにしておく。
「記憶が無くなっている割には、随分と落ち着いていらっしゃる」
「私に言われても困るわ。冷静を保っているのは自分でも不思議だけど、記憶が無いのは本当だもの」
「……そのようですね」
「あら、信じてくれるの?」
「信じたくは、ないです。でも、いつまでも俺が迷っていると、お嬢様に怒られてしまいますから」
「私は怒らないわよ」
「ええ。ですから、信じられたんだと思います」
──不思議な男だ。
私が見た彼の感想は、それだった。
時折悲しそうに視線を落とすと思ったら、強い意志を感じさせる眼差しを向けてくる。
彼は他人から見れば、かなりの美形だ。髪は艶のある藍色で、瞳は宝石のように赤く輝き、まるでルビーのよう。
そんな男が憂いを帯びた表情をしているのだ。普通の令嬢がそれを見たのなら、心配して駆け寄ってしまう色香を彼は持ち合わせている。
しかし、あいにく私はそのようなものに現を抜かすような真似はしない。
弱みを見せた瞬間、手のひらを返されるという可能性もある。
もう二度と裏切られない。
もう二度と信じたくない。
傷付くのは十分だ。
苦しくなるのは、もう十分なのだ。
最初から誰にも期待しない。
それが一番楽で、一番安心できる。
「ヴィオラ・カステル」
「……誰それ? 貴方の名前?」
「お嬢様の名前ですよ。貴女はヴィオラという名前で、カステル家の長女です。公爵家の令嬢様なんですよ?」
「公爵家。上位貴族のトップじゃないの。チッ、面倒ね。……何よ」
どこかしらの貴族だと思っていたら、まさかの公爵位に位置しているとは。流石に立場が大きすぎる。これから舞い込んでくる面倒事を予想し、私は苦虫を噛み潰したように顔を歪めた。
すると、彼が穏やかに笑ったのだ。
公爵家という立場が面倒だと言った私を非難するのではなく、安心したように笑った。
目の前の男が何を考えているのかわからず、私は怪訝に眉を顰めて彼を睨みつけた。
「いえ、記憶が無くとも、お嬢様はお嬢様なのだと……安心しただけです」
「私は、今と変わらなかったの?」
「雰囲気は、確かに変わりました。ですが、言動と口調は変わりませんね。包み隠さず本心を露にするところは同じです」
「ふぅん? ま、それなら好都合よ。上手く立ち回ることができたら、誰も私が記憶喪失だとは気付かない。そういうことでしょう?」
「その通りです。……ちなみに、そうやってすぐに損得を見極めるところも、お嬢様そっくりです」
どうやら、私とヴィオラは同じ性格をしているらしい。
流石は私の生まれ変わりと言うべきか。しかも純粋無垢だった時の私ではなく、裏切られたことへの憎しみを抱いた最後の私のままでいてくれたのは、不幸中の幸いだ。
先程も言った通り、私が上手く立ち回ることができたのであれば、皆の目を欺けることが可能やもしれない。
「それじゃあ、貴方に何も言わなかったら、貴方の目も欺けていたのかしら?」
「無理ですね。最初のうちは疑問に思う程度で終わるかもしれませんが、一日も経てばおかしいと気付く自信があります」
眉を顰める。
私が今以上に上手く立ち回ったとしても、彼には見抜く自信があると、彼は事も無げに言い放った。それでは他の者に対しても同じことが言えるだろう。
「俺はお嬢様の側に居ました。どんな時も、ずっと一緒に……。誰よりも大切な貴女の変化を見抜けないなんて、そこまで腐った目はしていませんよ」
「口調もそうだけど、随分と貴方と私は親しいみたいね? 私が言うのも何だけど、正直信じられないわ」
「俺は幼少期の頃からお嬢様に仕えていました。これでも頑張ったんですよ? お嬢様は見た目に反してお転婆で、目を離すとすぐに屋敷を抜け出して街に遊びに行こうとするんです。しかもその手口がやけに巧妙で、俺を含む同僚はいつも困っていました」
「…………あ〜、何でかしら。すっごくわかるわ」
私も前世では何度も城を抜け出し、護衛も付けないで遊んでいた。どうやったら侍女達の監視を潜り抜けられるかを考え、不自然ではないアリバイ作りも本気で考えていた。そのせいで侍女達からは呆れられ、言っても直らないと悟った彼女達は、私の姿が見えないと知った瞬間、兵士に街での捜索を調査するようになっていた。
最初のうちは何度か捕まったけど、徐々に兵士の目を欺く方法も覚え、彼らが街を探し回っている間に城へ帰還し、いつの間にか私室で優雅にお茶をして逆に彼らの帰りを待つ。……なんてこともあった。
まさか、ヴィオラも同じだったとは……公爵家としてそれはどうなのかと思ったけれど、そもそも私は王女という身分なのにも関わらずやっていたので、むしろカリーナの方が危険度は高いだろう。
「何かを、思い出しましたか?」
昔の出来事を懐かしく思っているのが、自然と顔に出ていたのだろう。
私は静かに首を振り、偽りの楽しかった過去を記憶の奥に閉じ込める。
「なぜかわからないけど、ふと懐かしくなったの。それだけよ」
きっとそれは、彼なりに希望を見出そうとしていたのだろう。
でも、私はそれを真正面から否定した。
彼を信用することはできそうにないが、それでも彼がヴィオラを心から信頼していることは、少し話をした私でも理解できた。
「ああ、そういえば貴方の名前を聞いていなかったわね」
これから私の側で働き、唯一記憶喪失を共有している協力者だ。
名前を覚えるのは当然だろう。
「俺はルディです。よろしくお願いします。ヴィオラお嬢様」
「ええ、よろしくね。ルディ」