1. 失った記憶
ふと、私は全てを思い出した。
学園の入学式。学園長が登壇した拍子に近くのライトに当たり、頭部が反射した刹那、私の中に前世の記憶が全て流れ込んできた。
「……!」
目を見開いて驚きながらも、声を必死に抑えたのは我ながら良い判断だったと思う。
私は混乱していた。
私は、カリーナ。
国民に裏切られ、死んだはずの元王女だ。
なのに、私は生きている。
首を自ら貫いたはずなのに、どうして生きている?
生きられるはずがない。
私はあの時、確かに死んだはずだ。
あの状態で生き延びることはできないはずだ。
それこそ御伽噺に出てくるような『魔法』を使わなければ、首を切った人を助けるなんて不可能だろう。
わからない。
どうしてそうなっているのか、何もわからないのだ。
今の『私』は何者なのか? 名前は? 誰が父親だ? 誰が母親だ?
その程度のことすら、私は何も知らなかった。まるで今までの『私』が消え去り、新たに『私』が植え付けられたように、今の、私にとっては二度目の人生の記憶が、私の中には何一つ残っていないのだ。
──記憶の欠如。
それが今、私を混乱させている最大の原因だ。
「なに、これ……?」
顔を下に向けた拍子に視界の端に映り込んだのは、若干ウェーブのかかった長い髪。それは赤く、燃え盛るような髪色だった。でも、この色は知らない。だってカリーナの髪色は銀色だった。
……本当に、これが私の髪なの?
最小限の動きで体を揺らしてみれば、赤髪も同じように揺れる。縦にも横にも左右にも、髪は私の動きを真似していた。
「ああ……やっぱり、そうなのね……」
それを理解した瞬間、今までモヤッとしていたものが抜け落ちたかのように、案外すんなりと受け入れることができた。
欠けていた何かがカチャリと音を立てて嵌め込まれた。そんな感覚にも近い。
──私は、名も知らぬ少女に生まれ変わったのだ。
「……ふっ、ふふ……くふふ……あはっ…………」
笑いを抑えきれなかった。
それほど、私は、高揚していた。
まさか、一度死んだ私が、二度目の人生なんて……。
ああ、最高の気分だ。
理由はわからない。
でも私は、この人生を得た。
──人生をやり直せる。
素晴らしい。
なんと、素晴らしいことか。
あの時に諦めたことが、叶うかもしれない。
あの時に捨てたことを、取り戻せるかもしれない。
何だってできる。
だって私は、生まれ変わったのだから。
前世ではできなかったことをしよう。自分の思うまま自由に生きてやろう。誰にも邪魔されず、干渉されず、平穏な生活を送るのだ。
そして、今度こそ私は幸せになって見せる。邪魔する者には容赦しない。こちらからは一切干渉せず、させない。私の望む幸せに、他人は必要ない。人は簡単に他人を裏切る脆弱な生き物だ。あの愚かな民のように裏切るのであれば、そんなもの最初からいらない。
もう、奪われない。
もう、奪わせない。
弱かった頃の私は、弱いままに諦めたカリーナは、もう死んだ。私は新しい人生を歩む。
そして、今度こそ私は、
──私の幸せを掴み取ってやるのだ。
◆◇◆
その後、学園長や教師一同の話は一切入って来ず、入学式が終わったと同時に、逃げるように会場を後にしていた。
「お嬢様!」
とりあえず落ち着いて考えられる場所を探そう。
女の子が一人になれる密閉空間、適しているのは──お手洗いだ。
「お嬢様! お待ちください!」
それらしき看板を見つけ、案内の通りに小走りで目的地に向かう私の後ろで、慌てたような声が聞こえてきた。大方、どこかの貴族の令嬢が何か無茶をしようとしているのだろう。
何であれ、私には関係ない。
誰かを困らせようとしているのだ。関わっても良いことはない。むしろこちらにとっての不利益を被せられるような気がして、なるべく早く謎の声から遠ざかりたいと思った。
私は私の用事で忙しいのだと、歩く速度を更に上げて──
「待ってくださいと、言っているでしょう!」
背後から私の手が取られた。
それは先程から聞こえていた男の声で、驚いて振り向くと青色の瞳が私を見つめ、安堵の表情を浮かべていた。
…………やはり、知らない顔だ。
でも彼は、私を知っているように思える。
「お嬢様。俺を置いて行かないでいただけますか?」
──お嬢様。
私は、どこかの令嬢なのだろうか。
思い返せば、入学式に着席していた周りの生徒はどれも気品に溢れていて、庶民という雰囲気は感じなかった。
であれば、この学園は貴族の学び舎なのだろう。その例に漏れず、私もどこかの貴族の人間。それも彼のような使用人? を一人連れているのだから、それなりに地位が高い部類にいると推測する。
「ったく、式が終わると同時に退散するなんて、本当にお嬢様は人混みが嫌いなんですね。でも従者の俺を置いていくのはダメですよ。お嬢様は色々と危なっかしいところがありますから、俺が見ていないと……」
名も知らぬ男は、呆れたように溜め息を吐き出した。
口調は従者のものではないが、彼の表情からは信頼の感情が伺えて、チクリと、私の胸が痛んだ。
彼の前に立っている女は、もう彼の知っている『お嬢様』ではない。形だけが一緒の別人なのだ。むしろ私は、彼の信頼する人の体を奪い、勝手に動いているようなもの。
それを知ったら、この人はどのような反応をするのかしら。
私は怖くなった。
真実を知った彼は怒り、私の側から離れてしまうかもしれない。そうすれば私は本当の意味で一人になってしまう。なにも知らない学園で、なにも知らない人達に囲まれ、生活していくことになるだろう。
誰も頼れない。誰が善で、誰が悪なのか一切わからない状態だ。
一度信頼する者達に裏切られた私は、もう誰も信じることができなくなっていた。あれほど他人と触れ合いたいと思っているのに、彼らの顔を思い出すだけで吐き気がする。あの時感じた憎悪の炎が、私の中で荒れ狂い、自我を保てず発狂してしまいそうだ。
私は、ほくそ笑む。
──ああ、それも良いかもしれない。
この気持ちに全てを委ねて、暴れるのも一興だと思ってしまった。
でも、それでは私の望みを叶えることはできないだろう。
私は『幸せ』が欲しいのだ。
掛け替えのない、たった一つの『幸せ』が。
愚かな者達に奪われない絶対の『幸せ』が。
「……お嬢様?」
結晶のような明るく輝く瞳が、心配そうに細くなる。
どうせ、この男も裏切るのだろう。
私が私でなくなったことに嫌悪を抱き、離れていくのだろう。
──なら、何を怖がる必要がある。
どうせ離れていくのだ。
それが今でも後でも、変わりないではないか。
人とは、そういう生き物だ。信頼なんて言葉は、彼らの中に存在しない。こちらが信頼しても、彼らは私達を信頼してくれなかった。
なら最初から関わらなければ、信頼しようとしなければ、私も気楽ではないか。
「ごめんなさいね」
それは誰への謝罪なのか。
小首を傾げながら、すんなりと出てきた言葉に続く。
「あなたは、どなたかしら?」
痛々しいほど見開かれたその瞳に映ったのは、名も知らぬ『私』の姿だった。