「忘れ方を教えて欲しい」
「忘れ方を教えて欲しい」
それが、僕の人生の…否、この国の未来を変える一言だった。
一見豊かに見えるこの国を支えているのは侵略された部族の特産品。〈最下層〉と呼ばれる誰も近寄らない場所に住み、厳しい労働と監視の下に置かれ、彼らは朝から晩まで働かされていた。
僕が役人として配属されたのはそんな地域だった。
ある意味楽な仕事だ。適当に見回りをして、何となく睨みを利かせておけばいい。面倒ないざこざは先輩達が適当にあしらっていた。
そして、僕は彼女に会った。可愛げのない少女だった。何よりも眼に光を感じなかった。それでも僕の目をはっきり見て言ったのがあの言葉だ。当然だが、何故と僕は聞いた。そうすると、近くの川を指差して「川が嫌いだから」と言った。
特産品を作るのに川は必要不可欠。川が嫌いとよく言えたもんだとしょっ引いても良かったろうが、何故か話しに付き合ってみようと思った。
再び、何故と聞く。すると、「川には嫌な思い出がある」と口から押し出すように言った。
「あの侵略戦争の時、たくさんの死体が川に流れたでしょ?血と鉄臭いにおいで空気も染まるほど。」
そう言えば、そんな話を聞いた気がする。
「私はその光景を見た。それからずっと眼に張り付いて取れないんだ!」
この子供が?三年も前だ。物心付く前ではなかろうか。
「皆んな死んでるわけじゃなかった。中には血まみれのまま、助けてってお願いってずっと呟いている人もいた。痛そうな唸り声も死にたくないと啜り泣く声もずっと聞こえてた。繰り返し誰かの名前を呼んでいる人もいた。」
所詮子供の話、と思っていた僕はいつしか彼女の話しに耳を傾けていた。
「でもっ…!私はまだ小さくて、力もなくて、大人達に急き立てられて無視するしかなくて…誰も助けられなかった。まだ生きてる人がいて、助けてって死にたくないって…!!私はっ!!!」
イヤアァァァ!!!と耳を塞いで唐突に叫ぶと彼女はその場に倒れそうになった。慌てて抱きとめる。
「あんな記憶無くなればいいと思った!目を閉じるたびに見えるんだから!でも忘れたら亡くなった人の生きた証拠も消えちゃう!それも嫌!」
激しく首を振る彼女。僕の服の袖が縋るように引っ張られる。
「ねぇ、あなたはこの国の偉い人なんでしょ?頭のいい人じゃないと行けないところにも行ったんでしょ?あたしらの一生かけても行けないところに!だったら教えてよ!あの時どうすれば良かったか!」
血走った眼に大粒の涙。真っ赤な顔。異様なまでの熱気。荒い呼吸。
その時初めて、僕は自分の中に答えらしいものが欠片も無い事に気がついた。
あの戦争も遠くで起きていることで、どこか小説の世界というか現実味のない事だった。新聞にも載っていたけどまるでスポーツの試合結果を見るような感覚だった。
そんな僕が彼女に掛けられる言葉なんてあるのだろうか…
迷いしか無いが、思い切って口を開く。
「…どうすれば良かったかはわからない。」
一瞬下がった彼女の頭が上がる。
「わかるのは、大人でもその日対処出来なかったという事だ。みんな自分達の事で一杯一杯だったんだろう?」
ゆっくり頷く彼女。
「それなら、君と同じ様に感じている大人もたくさんいるんじゃないか?ただ、顔に出さないだけで。」
言い方を間違えただろうか。彼女の涙が止まることはなく、荒い呼吸も整うことは無かった。
唐突に身を翻した彼女は川と僕に背を向け、仕事場へ走り去って行った。
僕にはわからない。忘れ方も、侵略された側の気持ちも、実際の戦場を見た子供の心も。
「わからない事はそのままにするな。いずれそれは大きな弱点になるから。」
大学の恩師に言われた言葉をふと思い出した。わからないなら、理解しようと努力するしかない。
僕はこの民族をあの戦争を知り、理解しようと心に誓った。
ーこの後、彼はこの国の民族解放の先駆者になる。ただ、実際に彼の夢が叶うのは死後何百年も先の事で、歴史の教科書にも載らない小さな存在になった頃だった。それでも、彼と彼に気持ちをぶつけた彼女がいなければ何も変わらなかっただろう。
そんな昔の話です。