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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

女学校

作者: 桃園真理子

少しだけ、怖い話

****

ああ、暑いですね。

最近は、日本も熱帯気候になってきたというじゃないですか。

温暖化の影響といいますが、この国から出て行く訳にも行きませんし、どうにか、この暑さと折り合いをつけるしか無いですね。


そうですね、エアコンもつけますが、あれは、私はあまり好かないんですよ。風がね、人工の風と言うのがいけない。最近は、自然風というのもでているようですが、どうにもね。

いえ、娘がこうやって用意してくれてますので、時間になったら勝手について勝手に止まるので、私も気にせず、勝手に窓を開けているんです。

ははは、これが温暖化の原因だとしたら、私達は、まるで自分の尾を飲み込む蛇じゃないですか。

気づいた時には、もう終いというやつです。はい


いやしかし、お時間は大丈夫ですか?

いえね、私はどうにでもなりますよ。年寄りなんて、何もしなくても一日が終えるまのです。そうですね、では、娘らが帰ってくるまで、昔話でもしましょうか。おや、何か聞きたい事がありましたか?

ええ、そうです。私にも若い頃があったんですよ、あの頃では、まだ珍しいかったですが、女学校に通ってましてね。そうそう、私が、十五の時です。ふふふ、お上手、ええ、近所ではなんとか小町なんて呼ばれた事もありました。



あれは、最初の大戦が終わって、日本も景気が良かった頃です。まだ、女学校なんて殆どなくて、女が学問を治めるなんて、考えもなかった頃。でも、ちょうど外国から色んなものが入ってきて、洋行帰りの貴族の方や、お偉い人々が、女性にも学校をと少しずつ建てられはじめていました。

私が通ったのは、裕福な子女が行儀見習いを目的にした所で、英語や漢文、和裁にダンス、茶道や華道、長刀なんて事もありました。よく考えると勉強なんて殆どなかった気がします。時々、オランダ人の女教師からシェークスピアやギリシア神話を習って、あこがれたものです。ああ、海の向こうの国では、こんなラブロマンスがあるのだと。ふふ、ラブなんて言葉、今でも使うみたいですね。ええ、愛なんて、学校ではじめて聞きました。あとで、母親に聞くと耶蘇の言葉だから、ふしだらなんて戒められました。でもね、あの頃は本当に楽しかった。あそこで、みんな隠れて本を回したりしてたんです。


本なんて、今は本屋にいけば気軽に買えます。ええ、あの頃だって気軽に買えました。だけど、学校帰りの寄り道なんてできませんし、用も無いのに若い娘が家の外に出る事も難しかった。ええ、そうね、私の両親が特に厳しかったのかも、だいたい、両親かねえやと一緒じゃないと。ねえやといっても、姉というよりも一回り以上うえの人だったから、ねえやに頼んで、買い物帰りに寄ってもらったり、でもね、本だって好きな本を手にするのも難しい。その頃流行の太宰とか、私のような女学生が手に持つだけでもジロジロとみられて、慌てて欲しくも無い歌集なんて買ってしまって。それは、それで面白かったけど。


ふふ、嘘ですよ。


十五の小娘が、歌集なんて読んでどこまでわかりますか。棚の飾りにはなりましたけど、友人が、凄いのね、貸して頂戴なって。

そう、その友人が、向田むこうだ 百合子ゆりこ様。

貴方のお知りになりたい方でしょう。


そう、見つかりましたの。随分と長くかかりましたね。

ああ、あそこですか。あそこは昔は沼でしたのよ。校舎の裏手の林の中、じめじめとしているから、生徒も好んでは近づきませんでした。そう、そこにいらっしゃったの。

まあ、その上に校舎がたってあったの?それでは、余計に気付きませんわね。どうして、その時に見つからなかったのかしら。そうね、埋め立ててしまえば、水底なんて浚う必要もなかったのね……。

では、どうやって見つかりましたの?

建て替えですか?そう、彼女の上に建った建物さえ、老朽化するほど時は流れたのね。

私も、おばあちゃんになるはずだわ。今度、ひ孫も結婚するんですよ。ええ、孫が五人にひ孫が二人。

ええ、そう、私は本当に幸せ者よね。

百合子様も見つかったし、これで思い残す事も無いわね。

ねえ、探偵さん、ふふ、探偵ですって。面白いわ、本当にいるのね。

探偵さん、百合子様をどうして、さがそうとされているの?

まあ、そう。甥子さんの依頼でしたの。

そうよね、行方不明だった、叔母がひょっこり見つかったんですもの、いったい何があったのか知りたいわよね。

甥子さんと言うのは、百合子様のお兄様のお子さんですか?あら、妹さんの?あんなに小さかったあの人のお子さんなのね。

そう、百合子様。


そうそう、百合子様、とても素敵な方でしたの。


皇族との縁があるという、古い貴族の生まれだと言うのに、一つも気取った所の無い人で、私はたまたま同じ学年と同じ教室で、そして席も隣になった。ほんの偶然だと言うのに、まるで生まれた時からの知り合いのようなそんな気がしました。ええ、彼女も、そういってくれましたの。

百合子様、はじめから、私はそう呼んでました。彼女、そんな風に呼ばれるのを嫌がりましたけど、でも、私にとって彼女は、百合子様でした。

とてもお美しいお顔で、佇まいが稟としていて、本当に白い百合のような美しい方でしたのよ。

乗馬が趣味で、学校には毎日馬に乗って通っていてね、ふふふ、自転車に乗ってくるのも、先生の中には、眉をしかめる古い人もいたと言うのに、一向にせず、毎日土埃で汚れるにもかまわず、楽しそうに駆けられていました。私も、一度誘われましたが、怖くてとうとう馬の背中に乗る事ができませんでした。あら、貴方もなの?馬って、大きいですものね、落ちるんじゃないかって冷や冷やで、なのにわざと百合子様は、馬を荒く操るんですよ。


ええ、本当に素敵な人でした。


だから、彼女が急に姿を消しても信じられませんでした。木造の校舎のどこかに、彼女がいる気がして、今にでも柱の影から、笑いながら出てくるような、そんな気がしていました。

ええ、ですけど、実際は私は、彼女を会う事もないまま、学校を卒業しました。

どうして、彼女が消えてしまったのか、家出をしたと言う者もいました。好いた人ができて駆け落ちをしたのだと。何か気に病まれて自殺したという者も居ました。実際に、いなくなる数日前に、泣いている百合子様を見たという者もいたのです。

そうですね、私も、わかりません。

どうして、百合子様がいなくなってしまったのか。

ふふ、私、おかしいんですよ。

彼女は天女で、天に帰ったのでは無いのかって本気で信じていたんです。でも、そういう思いを持って居る者は大勢いました。ええ、百合子様は、本当に私達のアイドル(偶像)でしたもの。


あれほど、気高く、凛々しく、美しい人。優しく、強い人。

あら、本当ね。まるで、偶像崇拝だわ。


百合子様のお付き合いしている人ですか?許嫁の方以外にです?

そうですね、百合子様は、学校だけでは無く、学校の周辺でも、彼女はとても人気がありました。

町を歩けば男性も女性も振り返るような、だから時々恋文のようなものを渡す人もいました。

そうですね、ですけれど、浮いた話なんて……。え、男性教師ですか?確かに、あの時期、あの学校に若い男性教師はいました。



「ゆりこ様、どちらに行かれますの?もう下校の時間ですわ。」

「あら、理子みちこ、私も、もう帰るわ。だけど、これを職員室まで運ばないといけないのよ。」

夕暮れがガラスを通して、ゆっくりと暮れていく。新しい木の匂いの立ちこめる廊下で、立ち尽くす百合子に、理子は走って近づいた。

「なら、私もお手伝いします。二人で運んだほうが早く終わりますもの。」

百合子の両手が支えていた、藁半紙の半分を自分の手に移す。

「半分?理子が持っているほうが多いんじゃなくて。」

「気のせいですわ。さあ、早く終えて帰りますよ。馬も、夜目は効かないでしょう。」

「暗くなれば、迎えがきますよ。」

「勇造さんのためにも、早くかえってあげましょう。それで無くても、お年なのですから、馬の世話もきついでしょう。」

「そうなのよね、そろそろ代替えをすると言っていたわ。孫が来る予定よ。」

「孫?お子さんは?」

「せんだっての、戦争で亡くなっているのよ。」

「あら、私ったら、不躾な事を聞いてしまいました。」

「気にしないで、あら、お喋りしていたら、もう職員室についたわ。二人でいると、時間なんてあっと言う間ね。そうだ、この間お借りした歌集なんだけど……。」

二人とも手がふさがっていた。

「あら、開けられないわね。」

「そうですわね。」

立て付けの悪いドアは、両手で力を入れないと開ける事ができない。

「百合子様、私に残りをお渡し下さい。そうしたら、両手が空きますわ。」

「あら、これを頼まれたのは私よ。私がもつから、理子、開けて下さいな。」

「いえいえ、私が……。」

「君達は、職員室の前で騒いで何をしているのかな。」



ええ、そうなのよ。女学校でしたから、教師の殆どは女性か、年輩の男性でした。だけれど、その年の後半、急に嫁ぐ事になった女性の代わりに、その男性教師が来たんです。なんでも、校長先生のお身内の方だそうで、

帝都大を出て、そのまま官僚に就職が決まっていたのです。ですけれど、お可哀想な事に、結核にかかってしまった。長くサナトリウムに静養されたそうですが、治りが悪かったようで、最後には片肺をとられて、どうにか戻ってこれたそうですよ。結局、決まっていた縁談も流れて、自宅療養していた所を校長先生から声がかかったそうです。

今でいう、ニートというものかしら。昔は、高等遊民なんて言ってましたけど。

そうですね、背は見上げる程に高かったですね、少し猫背で不健康そうな青白い肌をされていました。他の生徒は、歌舞伎の誰それに似ているなんて騒いでましたけど、私は好きでは無かったです。

細い顔にかけている眼鏡を神経質そうに触って、私達の頭をみて話すと言うか、目を見ないでしゃべるんですけど、なんだか、私の後ろの人と会話している気がして、好きになれなかったんです。

私達も、相手の顔をみて話す事ははしたないとは言われてましてけど、学校内では別でした。外国の先生には、日本人は目をみて話せないのかと注意を受けてましたから。

ええ、そうですね。百合子様は、特に、彼の先生を特別どうも思ってなかったと思いますよ。あちらはどうだったか?

百合子様は、私達の理想の人、若い男だった先生も、表ではどうでも、心のうちでは、百合子様を好いていたかもしれませんわ。ええ、勿論、そんな素振りはありませんでした。だって、そんな事があれば、私達が黙ってません。ええ、不潔ですわ。



「向田さん、ありがとう。ここで受け取るから、もう帰りなさい。」

男性教師は、眼鏡を一度直すと、そのまま藁半紙を受け取った。理子は、ちらりと隣の百合子を見る。百合子は、少し口を動かした後、赤くて形の良い唇で弧を描いた。

「はい、青井先生、お先に失礼いたします。」


「ねえ、ゆりこ様。ゆりこ様は、青瓢箪の事どう思ってますの?」

「青瓢箪?」

「ええ、巧い言い回しじゃなくて?」

「それで言うなら、胡瓜や糸瓜の方じゃない?」

「他の子は、女形なんて呼んでますわ。」

「それなら、まだ青瓢箪の方がましかしら。」

「ええ、ましだと思います。」

ふふ、顔を見つめながら、思わず二人とも声をあげて笑ってしまう。職員室からは、もう随分と離れているが、生徒のいなくなった学校で、声をあげている所をみつかれば、反省文をかかなくてはいけない。理子は、なおも笑い続ける百合子を見つめた。

「笑い事では無いですわ、ねえ、ゆりこ様も、あの青瓢箪が気になりますの?他の子達も、幾人か、恋文を渡したものもいると聞きます。ゆりこ様も、ああいう青白い、女々しい男が好みですか?」

「うーん、そうねえ、理子は好きじゃないようね。」

「嫌いですわ、何を考えているかわからないあの目、教師だと言うのに、授業以外では、禄にしゃべりもしない。自分で臨んだ職では無いかもしれませんが、もっと胸を張っているべきです。」

「ふふ、理子、胸をはりたくても、あの人、胸が無いのよ。傷が痛むから、庇うようにして歩いているの。肺活量も無いから、声を出す事も大変なようよ。」

「……ゆりこ様は、随分とあの青瓢箪の事を庇われますのね。」

「あら、焼き餅?」

「……、あの人、ゆりこ様の口元に気付いてましたわ。」

理子は、美しい百合子の唇を見つける。赤い、紅を引いたような色。

「せんだって見せていただいた、口紅を塗られてますよね。」

「あら、バレた。」

「ばれます!洋行帰りの慶幸様からのお土産だと見せてくれたばかりです!」

「しー、声が大きいわ。いけない子ね。何も言われなかったんだから、問題無いと言う事よ、可愛い子ね。こっちにいらっしゃい。」

くすくすと、悪戯がバレた子供のように、笑いながら理子の手を引く。階段の下、用具置き場の扉の前。廊下から死角になったそこに連れられる。

「私のみーや、そんなに腹を立てないで。ちょっと塗ってみただけよ。貴方にバレるなんて、他の人にもみつかっちゃうわね。ねえ、少し薄くして頂戴な。」

手慣れたように、ゆっくりと理子の顔の上に、百合子の顔が重なる。頭一つ背の高い百合子に近づこうと、理子は爪先立ちになる。なれたそれは、いつも甘くて柔らかい。互いの唇の感触を味わいながら、ゆっくりと百合子の舌が、理子の唇をたたく。だけど、それ以上は怖くて、理子は進む事ができない。百合子は、それも慣れたように、理子の唇を味わうように舌を這わす。

「はぁ、もう、もうだめです。もう、帰らないと。」

「ふふ、理子の唇も赤くなったわ。さあ、きっと迎えが来ているわ。正門まで行きましょう。」



ふふ、彼女の横では、なんとか小町も霞んでしまいました。

嫉妬?嫉妬なんてとんでも無い。

私にとって彼女は、天女の仮初めの姿。竹取りの姫のような存在でしたのよ。

ええ、我が侭のすえに、天に帰った天女。

だけれど、天女が悪いのかしら、それとも欲を持った人間が悪いのかしら。


ええ、百合子様とはとても仲良くさせていただきました。あの人の隣にいるだけで、とても幸せな気持ちでしたの。ふふ、同級生の中には、私と彼女がエスだったなんて言う者もいましたけど、そうだとしたら、あの女学校は、Sばかりになってしまいますわ。男性から遠ざけられた女だけの園。みんな、つかの間の夢を見ているだけ、現実は、学校を卒業すれば親の決めた嫁ぎ先に行かなければならない。それがどんなに年が離れていようと、そして、どんな酷いめに合おうと、女というだけでも、先が見えている。

私ですか?ええ、私にも、許婚がいました。私の場合は、従兄弟でしたから、顔を見知ってましたし、気安さもありました。ええ、とても良い人でした。手をあげる事もありませんでしたし、大声をたてる事もない、物静かな、本の好きな人でした。

百合子様も、当然いらっしゃいました。慶幸様と言う方で、私も二度程お会いする事ができました。日露戦争の軍需で大きな財を成した家の跡取りでした。洋風の格好の似合う大柄な体躯で、赤ら顔をくしゃくしゃにして大きく笑う姿が印象的でした。ええ、慶幸様も、百合子様を好いているように見受けられました。百合子様ですか?そうですね、お好きだったと思いますよ。よく、慶幸様の贈り物をつけてらっしゃいましたし、話にもよく出てきました。

そうですね、私達、女学校の大半の生徒が卒業と同時に嫁いでいきました。ええ、残りの生徒は、卒業を待たずに嫁がれました。

だから、私は幸せでした。女学校を卒業できて、優しい伴侶にも恵まれて、戦争でも子供を誰一人失わなかった。ええ、偶々ですけど、この年までどうにかこうにか過ごす事ができたのですから。

え、もし人生をやり直す事ができたら、何時に戻りたいか?

ふふ、こんなおばあちゃんを捕まえて、面白い問いですね。そうですね、先ほどの話と矛盾してしまいますけど、あの頃に、あの百合子様と過ごした女学校の頃に戻りたいですね。

ええ、今度こそ、百合子様に幸せになってもらうように。



「理子!」

馬のかける音を聞き振り返ると、百合子が背後から手を振って近づいてきた。田園の広がる道には、徒歩で通う生徒たちがまばらにいる。

「ゆりこ様。今日は遅い登校ですわね。」

「そう、朝から疾風はやての馬蹄を代えてもらったのよ。爪も整えたせいか、普段よりも今日は落ち着かないのよ。だから、こんな時間になってしまったわ。」

ゆりこの背後から、もう一頭の馬が近づいてきた。

「あの、こちらの方は?」

「ああ、紹介するわね。昨日から、勇造に変わって馬の世話をしてもらう勇次よ。腕も良いし、これで疾風を安心してまかせられそうよ。」

「勇次といいます。」

馬に乗った男は、すぐに下馬すると、頭を深く下げた。力仕事をしているせいか、作業着から捲りでた両腕には筋肉が張っている。どことなく勇造に似た木訥とした顔は、人柄の良さがにじみ出ている。背もそんなに高く無い。百合子と同じ位か、それよりもやや小さい位だ。

「一緒に行きましょう。今日こそは、乗りなさいな。」

「いいえ、遠慮しますわ。」

どんなにゆっくり歩いたとしても、高さは変わらない。



ええ、そうです。いました、確かにいましたわ。馬屋番にと雇った男がいました。前に勤めていた老人の孫というその男は、人のよさそうな顔で、いつも百合子様の後ろについていました。確かに、年頃の娘がお付きもつけずに出歩く事は外聞が宜しくないと言われていました。だから、私は百合子様のご両親がお付けになった者と思っていましたの。そうですの、あの後、姿を消していたのですね。まあ、では、家のものを持ち出して売り払っていたのですか?なんて、酷い。御恩のあるお屋敷でそのような事、そうですか、ではその者が百合子様を?

そう、その人も見つかっていないのね。

あの男性教師も、二度目の戦争で戦死したと聞いています。

慶幸様も、満州で爆撃にあって帰らなかったと聞いています。そうですの、当時を知る人は殆どいなくなったのですね……。ええ、そうね、私がいるわね。ですけど、私がどこまでお役に立てるのかしら?

ええ、だって、彼女の沈んだ沼をみながら、私はみんなと机を並べ、卒業していった。あんなに近くにいたのに、とうとう気づいて差し上げられなかったわ。ええ、それが本当に悲しい事ですわね。

どんなに寂しかったでしょう。

どんなに苦しかったでしょう。

私が、沼の中を浚えば、もっと早くに百合子様を救って差し上げられたのに……。

一人、暗い水の底で、百合子様は何を思って漂っていたのでしょう。

あら、ごめんなさいね。年をとるとすぐに涙が脆くなる。ふふ、こんなにしわくちゃの体の中に、どれだけの水があるというのかしら。ああ、百合子様。ようやく、お会いできますのね。そうですの、すでに荼毘にふされてますの。ええ、ぜひお会いしにいきます。あの頃の二人に戻って昔話に花を咲かせましょう。

なんだか、話が長くなってしまったけど、あの子達帰ってくるのが遅いわね。ごめんなさいね、お待たせして、麦茶のお変わりはいかが?氷もすっかり解けてしまったわ。少し、お待ちになって下さい。



「ゆりこ様、最近、お元気がありませんがどうされましたの?」

「理子、なんでも無いのよ。」

「なんでも無いなんて、水臭いですわ、ゆりこ様のお力になりたいのです。何かお悩みがあるのではないですか?」

「なんでも無いのよ、本当よ。ただ、月のものが重くて。」

「あら、大丈夫ですの?少し救護室で横になりませんか?迎えを呼びましょうか?先生に言って、早引きさせてもらいましょう。」

普段よりも青白い百合子様のお顔にうっすらと汗が光っている。体を支えるようにして、それほど離れていない救護室へ向かう。

「向田、どうしたんだ?」

「あ、青井先生、百合子様が具合が悪いそうなんです。」

青瓢箪は、普段の覇気の無い様子とはうってかわって、心配げに百合子様のお顔を覗き込むと、さっと横抱きに抱え上げた。

「きゃっ!」

「先生!女生徒の体に触るなんてっ!」

「君が黙っていれば、問題にはならない。今、救護の先生はいないんだ。私が、ベッドまで運ぼう。」

百合子様は、驚きのあまり口がきけないようで、口に手をあてて小さくなっている。理子は、どうにか引き離したいと思いながらも、百合子様が落ちては心配と、ぎりぎりと口を結ぶと、小さく頷いた。ここで、騒いで、他の生徒に見つかっては大問題になる。青瓢箪は、軽々と百合子様を運んで行った。

理子の目には、百合子の頬に赤みが戻ったように見えた。



ええ、そうですわね。嫉妬されたのかもしれませんね。

本当に素敵な方でしたもの。私の知らない所で、いろんな人間から嫉妬を浴びていたのかも。

恋文を断った男性、その男性を想っていた女性。嫉妬の形も様々ですわ。

私からは完璧に見えても、他の人からは不平を思う事もあったでしょう。

そうね、無垢な我儘をおっしゃる事もあれば、時に人の心を玩ぶ事もありました。

ですけれど、本当に素敵な人だったのです。

私は、そのどれもが崇拝の対象ですたのよ。ええ、探偵さん、貴男の言うとおり、私はあの方に恋をしていたのね。ええそうね、一時の熱病と言うものでしょう、閉鎖された女の園。ですけど、その中の幾つかは、本当の恋があったと思うのです。時代が、世間が許してはくれなかったけど、きっと、その中には。

私の思いがどれだったか、今ならわかります。私は、本当の恋をしてましたの。

ふふ、こんな年寄りが恋だなんて、貴男にはおかしな話でしょう。ですけど、私は、本当の恋をしてました。百合子様のそばにいるだけで、ただ幸せでした。あの方と口を聞くだけで、名前を呼んでもらうだけで。ええ、恋は幸福だけではないですわね。

ええ、そうですね。辛くて、悲しい。身もちぎれそうな想いも、恋ですもの。

私が、そんな思いを百合子様も持っていたか?


ええ、

ええ、

ええ、

そうです。

持っていました。

私は、あの人を、『ラブ』していました。

ええ、

そうです。

そう、

辛くて、悲しくて、身もちぎれそうな程に、

あの方を、ただ見つめていました。


ふふ、百合子様は、誰に恋していたかですか?

先ほど、お教えしたでは無いですか。

ええ、許婚がいらっしゃるなら、その方では無いですか。あら、揚げ足をとるのが上手ですわね、そうね、許婚に恋をなんて、定石、私こそが通用しませんわね。

ええ、そうね。

百合子様も、きっと他の方に恋をしていたのかもしれませんわ。

私?

私だったのかしら?

私に恋をしてくれてたのかしら?


だったら、どれだけ良かった事か……。



「勇造さん、疾風はどうしたのですか?」

「あ、これは、お嬢様のお友達の、ええ、はい。実は、ここでちょっと待つように言われまして。忘れ物をしたとの事で。」

「あら、もう帰られて随分と経つのに、どうしたのかしら、私、校舎に入ってみてくるわね。」

「いえ、そんな。」

「あら、いいのよ。こんな場所で、長く待っているなんて不憫だわ。少し、お待ちなさいな、見てきますわ。ねえやも、ちょっと待っていてね。」

理子は、来た道を早足で戻って行った。すぐに校舎が見える、理子は不精をして、裏門から林を抜けるようにして校舎に向かった。

がさり、何かが動く音がして、ふいに林に目をやるとそこには件の百合子様がいた。

(こんな所で、何をされているのかしら?)

「ゆり……。」

振り向いた百合子様の綺麗な赤い唇が、にっこりと笑った。

その向かいには誰かが立っている。

相手は、理子に気付いたのか、林の奥へとかけていった。

「ゆりこ様、そこで何をなされていますの?」

「理子、何も、何もしていないわよ。ここには私しかいなかった。ねえ、みーや、いらっしゃいな。」

白い手が、ゆらゆらと揺れている。それに連れられるように、ふらふらと体が引きずられた。自分の体が自分のものでは無いような、抵抗する事もできず、妖しく煌めく彼の人のそばへ。



恋の相手が誰だったのか、私にはわかりません。

そう、そうでしたの。あかちゃんも一緒に見つかったのね。

まあ、まだほんに小さい骨が、よく残っていたのね。そう、お腹に赤ちゃんが……。

百合子様の御本心がどこにあったのか、本当にわからないのです。私のお気持ちは知っていたと思います、大事にもされていたと思います。ですけれど、百合子様は、本当に素敵な人で、彼女の周りにはいつも人がいた。男も女も、その中の誰かが、お腹の子の父親なんでしょう。

そうね、とんでも無いスキャンダルですわね。未婚の母親なんて、名家の娘にはあってはならない不祥事ですもの。そう、自殺、自殺だとお考えで?

そうね、そういう意味では、自殺だったのかしら。

今では、真相なんてわからないわ。だって、当事者は私くらいしか残っていないのでしょう?

まさか、私が百合子様を手にかけたと?

ふふ、本当に失礼な方ね。推理小説のような展開だわ。

ふふ、そう、私が犯人。それも素敵ね。

百合子様を手にかける事ができるなんて、百合子様の命を私だけのものにできるんですもの。なんだか、犯人の気持ちがわかるようだわ。

ですけれど、残念な事に私では無いわ。ふふ、信じる必要は無いわ。だって、真相なんて、私でさえわらかないもの。

ねえ、探偵さん。

百合子様は、誰に恋をしていたのかしら。



****

西日射す屋敷を後にした。探偵とは名ばかりの万屋よろずやは、背後の屋敷を振り仰いだ。大きな古い日本家屋は、修繕もされているのだろう、今だに赴きのある風格を漂わせて、周囲の家々から浮き上がっている。昔は、ここいら一体の地主だったと言う名家は、二度の戦火も免れこうやって大きな風袋をさらしていた。

万屋が受けた今回の仕事は、意味の無いとりとめのないものだった。老人からの一つの願い。真相が知りたい。ただそれだけだった。だが、唯一の真相の一旦を知るであろう、老婆は、すでに現とあの世を行き来していた。

実年齢よりも若く見えたが、もう数年で一世紀を超すその人物の話は行ったり来たりと夢うつつで、この事件の真相にはたどり着けなかった。もしかして、この老婆がとも思ったが、当時はまだ十代の少女にできる事とも思えなかった。恐らく、自殺であろう。不義の子を作ってしまった少女が想いつめたうえでの自殺、といった所が妥当だろう。周囲に浮かんだ三人の男も今はすでに鬼籍に入っている。

お腹の子供が誰の子か、真相は水の底に沈んだままだ。

「このまま、見つからなければよかったものを。」

万屋は、屋敷を背に再び歩きだした。夕暮れだと言う日差しは夏の暑さを保ちながら、じりじりと皮膚を焼いていく。半袖から出た腕が、ちりちりと焼ける匂いがする。

ふと、万屋は疑問が浮かんだ。

彼女が見つかったと言った時、老婆は生死を問わなかった。

それは些末な疑問かもしれない。老婆と同じ年ならば、どこかで生きていたとしてもとうに寿命を迎えていたとも考えられる。だが、いつ亡くなったのか、聞かなかったのだ。

たんなる、思い違いかもしれないが、万屋は、屋敷の戸を再び叩いた。開いていると思った両開き戸は、何故か硬く閉じられている。仕方無く、呼び鈴を鳴らし、家人を呼び出す。

間をおかず、中から声がした。先ほどの老婆とは違う若い女の声。いつの間にか、家人が戻っていたのだろう。

「すみません、あの、理子さんにもう一度お会いしたいのですが。」



まあ、どうぞ、お座り下さい。

大祖母様に会いに来られるなんて、どういった御縁ですの?

ですけれど、丁度良かったです。明日、お墓に入れる予定でしたのよ。

ええ、そうです。

一か月前に、急に。初盆を迎えてから、納骨をしようと思ってましたの。

ええ、眠るようでしたわ。最後の方は夢うつつで、殆ど寝ている時間が多かったです。でもね、最後に、とても嬉しそうに笑ったんです。私、そばにいたから思わず聞いたんですよ。大おばあちゃん、何かいい事があったのかって?そうしたら、いい事があったんだって笑うんですよ。ようやく、大事な人が見つかったって。ラブな人だって、私思わず笑ったんですよ、でも、本当にうれしそうだったから、良かったねって言ったんです。

大事な人が、見つかって。漸く、手に入れる事ができたって。

ええ、そうです。

自分のものにできたって。

まあ、どうされましたか?

いつ、亡くなったか?

ええ、そうです、先月、7月7日です。ええ、眠るように。

ああ、それですか、私に似ているでしょう。これ、大おばあちゃんの女学校時代の写真だそうです。白黒ですけど、綺麗でしょう。なんとか小町とか言われていたそうです。ええ、この隣りの方が、大事なお友達と言ってましたよ、ええっと、そう、百合子様、百合子様ってよく言ってました。ええ、最後に仏前にこれを飾って欲しいと言うのが遺言でしたの。

ええ、大祖母は、一ヶ月前に亡くなっていますよ。


<了>

****


いつか、別視点も書きたいです。

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