第9話 コレクター
中学1年の5月、あやのは奈津美のクラスに転入してきた。
色白で可憐なあやのは最初こそクラスの注目を集めたが、人見知りのうえ心臓の病気を持ち、学校も休みがちだったので、クラスの誰もが扱いに困り、たいていはいつもひとりぼっちだった。
けれど奈津美はあやのをひと目見た時から気に入ってしまった。
あの透明感のある白い肌の少女に近づきたくてたまらなかった。
誰も見向きもしない、手垢のついて居ない少女を独り占めしたかった。
手始めとして、学校を休んだあやのの家に毎日プリントを持って行く役を買って出た。
最初は恐る恐るプリントを受け取るだけだったあやのも、次第に笑顔を見せてくれるようになり、気分のいい日は奈津美を部屋に入れてくれるほどにまでなった。
陽の当たらない借家の小さな奈津美の部屋と違い、あやのの部屋はとても広い洋間で、備品は全て淡いピンクで統一され、まるでディズニーアニメの中に入り込んだかのようだった。
部屋の隅には立派な水槽があり、今まで見たこともないような見事な尾ひれをつけた金魚が10数匹、優雅に泳いでいた。
赤、金、白。中でも赤い金魚は特別鮮やかだった。
「可愛いでしょ? わたしの友達なの」
あやのが水の中に細い指を入れると、数匹がその指を口でつつき、尾ひれで愛撫した。
「とても綺麗ね」
思わず奈津美は胸の鼓動が高鳴るのを感じた。
今すぐ水に手を入れ、あの美しい生き物をギュッと強く握りつぶしたい気持ちになった。
……いや違う。
ぎゅっと握りしめたいのは、あの細い指。この少女の柔らかな白い肌だ。
自分の中の奇妙な興奮をゴクリと飲み込み、奈津美は優しいクラスメートを装った。
毎日すこしずつ親しくなり、そして奈津美の部屋には、あやのの部屋から何となく持ち帰った備品や文房具が、少しずつ増えていった。
あやのの体調のいい日曜日に、奈津美は彼女を外に連れ出した。
昔ハイキングの途中に見つけた廃村だ。
激しい運動は禁止されているあやのだったが、少しの遠出なら、ということで母親にも了解をもらった。
まだ形の残る廃屋に入り込み、かくれんぼなどして二人で幼児のように遊んだ。
場所は特に、その廃村でなくても、どこでもよかったのだ。
ふざけて肌に触れても、戯れに口づけても、誰にも咎められない密やかな場所ならば。
日が少し傾いてきたころ、崖を背にしたある廃屋で、あやのは人ひとり入り込めそうな大きな冷蔵庫を見つけて興味深げに覗いていた。
「扉が閉まれば内側からは泣き叫んでも暴れても、絶対に出られない旧式冷蔵庫だよ」と教えてやると、あやのは不安そうに扉を締めた。
一瞬のあやのの怯えた表情が、奈津美には堪らなく好ましく、気持ちが高揚した。
夏が近くなってきたある日、あやのは自分の部屋で、鮮やかな赤い浴衣と、白と赤のグラデーションの絞りの帯を、奈津美に差し出した。
「ずっと前にお父さんが買ってくれたんだけど、私には派手な色だし、夏祭りのような人混みに出掛けるのは苦手だし、着ることは無いと思うの。これ、奈津美にあげる」と。
けれどその鮮やかな赤は、あやのの白い肌にとても似合う気がした。
「ありがとう。でも、一度だけあやのが着てみてよ。ね、せっかくお父さんが買ってくれたんだもん」
そう言って奈津美は恥じらうあやのの服をすべて脱がせ、素肌にその浴衣を着せ、帯を巻いてやりながら、ついでのように唇にキスをした。
「あのね、ドキドキするようなことはダメなの。心臓が苦しくなってしまって…」
頬を赤らめ、潤んだ目でそう言ったあやのは本当に可愛らしくて、奈津美は鼓動が速まるのを感じた。
その小ぶりな頭をそっと両手で包み、もう一度口づけする。
「……変なの。この頃金魚が少しずつ消えていくのよ」
キスのあとの照れ隠しか、あやのは少し呼吸を乱しながらそう言った。
「共食いじゃないのかな。ほら、きれいな物を食べると、もっときれいになるって言うじゃない」
「そうなの?」
あどけない目をしてあやのが笑う。
「そうよ。知らなかったの?」
あやのが身に着けた赤い浴衣の帯をほどき再び脱がせる間、あやのはまるで人形のように従順だった。
「私もきれいになりたいな」
冗談っぽく言って奈津美はその裸の胸に口づけた。
あやのの幼い乳房とその横の小さなほくろが、心音と共に揺れているように見えた。
発作など起こされてはやっかいなので、その日はキス以上のことはせず、あやのの浴衣だけをしっかり持ち帰った。
家に帰ると、今まであやのの身代わりにこっそり家に持って帰っていた金魚たちは、一匹を除いて奈津美の部屋のガラス瓶の中で、腹を上に向けて死んでしまっていた。
……なんて弱い生き物なんだろう。金魚も飼い主に似るのだろうか。
死んでしまった金魚を全部、窓から裏の空き地に放り投げ、その日はあやのの匂いの残る、赤い浴衣を抱いて寝た。
……もうすぐあやのは自分のものになる。自分だけのものに。
けれど、その嬉しい予感に満ちた日々が終わるのも、間もなくだった。
内科的療法の成果が出て体調が安定したあやのは、徐々に通常授業に復帰した。
体が楽になった分笑顔も戻り、可愛らしいあやのは更に輝きを増し、注目を集めるようになった。女子も次第にあやのの周りに集まっておしゃべりを始めた。
そうなれば男子たちも放ってはおかない。
2週間もしないうちに、あやのは3通ものラブレターを受け取った。
「どうしたらいい?」と相談してくるあやのに、奈津美は、「男なんて不潔で低脳な毛虫よ。そんな連中と仲良くするなんて気持ち悪い!」と、あやのを突き放した。
その日は哀しそうに目を潤ませたが、あやのは少しずつ奈津美とは行動を別にするようになっていった。
そのうち、あやのが2年生の男の子と付き合っているという噂が流れ始めると、楽観していた奈津美もしだいに焦り始めてきた。
……あやのは自分のものだ。やっと手の中に収めたというのに。誰にも触らせない。何としてでも自分一人の人形にしたい。
それ以外は考えられなくなっていった。
「ねえ、あやの。次の日曜日に、またあの廃村に行こうよ。二人だけの隠れ家を探そうよ」
けれど返ってきた言葉は最悪だった。
「ごめんね。先生にはもう言ったんだけど、来週急に引っ越すことになったの。前に住んでた家にもどるの」
裏切られたと思った。
次の日曜日、怒りと失意の中、唯一生き残った金魚と、あやのの浴衣と帯を持って山に入り、あの廃村まで歩いた。
そしてあの棺桶のような大型冷蔵庫に、ジャム瓶に入れた金魚と赤い浴衣を閉じ込めた。
13歳の奈津美が考えた儀式。あやのとの決別の儀式だ。
バタンと閉じた冷蔵庫の中から、あやのの声が聞こえたような気がしたのはきっと未練という幻聴なのだろうと感じた。
それほどあやのの事が好きだった自分が可哀想で仕方なかった。
偶然にもその日と前後して、あやのは行方不明になり、地元は大騒ぎになったのだが、決別の儀式を済ませた奈津美にとっては、もうどうでもいいことだった。
少しばかり胸の疼く、過去の苦い思い出でしか無くなった。
そう、もうあやのは過去の亡霊。
新しく夢中になる物を見つけた奈津美にとっては、ただの「材料」でしかなかった。
本命を釣るための、「エサ」だ。
奈津美はニンマリとしてベッドから起き上がると、ゆっくり慎重にメールを打ち始めた。
◇
頬に柔らかい尾ひれが触れた気がした。
気持ちいいな。なんて綺麗な金魚だろう。
「え?」 ……金魚?
玉城が重いまぶたを開けると、目の前に居たのはリクだった。
ベッドの端に座って、玉城をじっと見おろしている。
玉城が「これ夢か?」と呟くと、リクは可笑しそうに笑った。
「死んじゃ困るから、来てみた」と言いながら、自分の携帯を取り出して振ってみせる。
玉城は瞬きしたあとゆっくり体を起こし、目の前の青年の緩くウエーブした亜麻色の髪を乱暴に掴んでみた。
「痛いってば!」
夢では無いことを確認する。
どうやら「死んじゃうメール」を送信した相手は、リクだったらしい。
「鍵は?」
「玄関のドア開いてた。不用心だよ玉ちゃん」
「お前に言われたくないわ」
築45年、おまけに散らかり放題の狭いアパートの一室にいるリクは、悔しいけれどなんともアンバランスに思えた。
掃きだめに鶴と言う言葉が浮かび、ムッとして玉城はそれをかき消した。
まだ熱っぽい頭がズキズキ痛む。
「でも来てくれてスッゲーうれしいよ。まだちょっとだけ死にそうなんだ」
「まだちょっとだけ死にそうって、どういうのか分からないけど、飲み物と風邪薬買ってきた。どれか飲む?」
リクはローテーブルの上のビニール袋を指さす。
彼女居ない歴の長い玉城は少しばかり、いや正直なところ猛烈に感激し、うるっときた。
ああ、彼女が居るってきっと、こういう感じなんだろうな……と。
「サンキュー。助かる」
「あ、それからこれも」
リクはそう言うと、ビニールから何かを取り出し、玉城の膝の上にポンと置いた。
見覚えのある縞々だ。
「うわっ……。え? え? なんで? この財布、今日失くしたんだ! なんでリクが持ってるんだよ」
中身を確認すると、診察券もポイントカードも長谷川のお守りも、すべて入っていた。
「それ、落としたの? 玉ちゃん」
「ああ、いつもの癖でポケットに入れっぱなしにしてたらさ、いつの間にかなくなってたんだ」
「拾った時にはお金は入ってなかったんだけど」
「金はいいんだ。……その、今日はちょっと金欠日で」
「あ…。最初から入ってなかったんだね」
「金よりも大事なんだよ。手に馴染むしお守り入ってるし。でも良かった~。リクが拾ってくれたのか? いや、でもそんなはずはないよな。仕事帰りに落としたはずだし」
「女の人がゴミ箱に捨ててる所を見てたんだ。玉ちゃんの財布に似てるなって思って…」
「女の人?…誰。それ、いつどこで?」
「新田奈津美さん。僕のお客さん。捨てていったのは画廊の近くのゴミ箱で……」
「は? お客って、絵の? なんでその人が俺の財布持ってたんだよ。で、なんで捨てていくんだよ!」
「さぁ」
「その女どんな女?」
「どんな? ……肩までの黒髪で、背は女の人にしては高くて、ちょっと目がきつくて、紺のカーディガンと白いスカートで……」
「ちょっ!」
「え」
「ちょっと待てよ、なんか心当たりが……。その女、口が悪そうで、高ビーで、男なんて毛虫よ! みたいなこと思ってそうな30くらいの女か?」
「あ……」
リクは右斜め上に目線を動かし、思い出すように笑った。
「玉ちゃんの知ってる人?」
「うわぁ~絶対あいつだ! 俺、昼間ぶつかったんだよ! いや、あっちがぶつかってきたんだぞ? それなのに滅茶苦茶文句いいやがってさ! くっそーーー。スリか? スリなのか? ああもう最悪! リク、警察だ警察!」
昼間の腹立たしさが急激にぶり返し、玉城は更に熱が上昇するのを感じた。
頭の鈍痛が激痛に変る。
「証拠がないし、警察はまずいよ。ぶつかった時に拾っただけかもしれないだろ?」
「あの時拾ったとかありえねえって! 俺より先に立ち去ったんだぞ? なんだってお前は女の味方なんだよ。客だからか? お客様は神様なのか? そもそもなんでその女がリクの客なんだよ!」
「なんでって言われても……」
リクはひとつ溜息をついたあと、新田奈津美が画廊に現れ、絵を注文していった経緯をゆっくり説明してくれた。
じっと説明を聞いたあと、玉城の怒りは収まるどころか、ますます新田奈津美の横暴に辟易しヒートアップた。
「断っちまえ、そんなの! 佐伯さんだってそう言ってるんだろ?」
「でも……」
絵を描いて売るのは画家であるリクの仕事だ。自分が口を挟む筋のモノでは無いと玉城も分かっていた。
けれど、相手はあの女だ。スリかもしれない女なのだ。玉城の苛立ちは更に熱を帯びていった。
「あ!」
突如リクの手の中の携帯が着信を知らせた。
「メール?」
「うん。……あ」
「なに?」
「奈津美さんから」
「何て!?」
「あなたのアトリエに行ってみたいんだけど、いいかしら、って」
「ボケか! 断れ、今すぐ断れ! きっぱり断れ! そもそもアドレスなんか教えてんじゃねーよ! 何考えてんだお前は!!」
喉が切れるほど大声を出したので、一瞬クラッときて意識が飛びそうになった。
……長谷川さん、見合いなんてしてる場合じゃないですよ。こいつ見張ってなきゃ。
再びベッドに倒れ込みながら、玉城は心の中で呻いた。