第6話 楽観と戸惑いの間
「どうして家まで教えてしまうんですか、リクさん。よりによってあんな……。すぐにでも押しかけてきますよ。居座ってしまいますよ」
新田奈津美が画廊から出て行くなり、佐伯は掴み掛からんばかりの勢いで詰め寄ってきた。
あなたらしくもないと、首を横に振りながら大仰にため息をつく。
「佐伯さんが怒ることでも無いでしょう」
リクは笑いながら返したが、自分でも自分の気まぐれの訳が良く分からなかった。
ガラス越しに、店の前の通りを駅の方に歩いていく新田奈津美を目で追いながら考える。
たぶん、自分が絵に描いた少女の過去を知る女に、興味があったのだろう。
ただそれだけなのだろうと、少し他人事のように分析してみる。
ガラス越しの新田奈津美は軽い足取りで通りを反対側に横切り、その先の小さな公園の脇を歩いて行く。リクの視線がぼんやりそれを追う。
視線の中、奈津美は手に付いた埃でも払うように、先ほど持っていた紙袋を公園のくずかごの中にポンと放り込んだ。
「……?」
横縞の財布らしきものが入っていたのに、とリクはほんの少し首をかしげた。
「リクさん、聞いてますか?」
佐伯の声にリクは我に返る。振り返ると佐伯の渋り顔がすぐ鼻先にあった。
「はい」
「まあ、面倒くさい事になったのも、私がこの絵を飾らせてくれと言ったからですよね。責任を感じています。やはりこの絵はリクさんにお返しした方がいいですね。似た人物が居たとなると、またこんなことが無いとも限らない。それにどうせだったらこの絵をさっきの新田という客に……。そうだ、それがいい。そうすればもう押しかけられることもないし、すっきりこれっきり……」
佐伯が名案とばかりに手を打った。
「佐伯さん、その絵は処分してください」
「え! ……嫌ですよそんな。こんないい絵を」
「じゃあ、佐伯さんにあげます」
「あ……あげますって!」
「約束しちゃいましたからね、さっきのお客と。僕はたぶん、あの女性の思い出の少女を描かなければならないんだと思います。それが契約なんです」
「でも、思い出の少女と言っても、それはあの女性の勝手な思い込みでしょうし……」
「あ、絵がいらないんだったら、僕が持って帰って処分します」
「いただきます!」
佐伯は慌てて絵を守るように手を広げた。
リクはそんな佐伯がおかしくて少しだけ笑う。
死んだ少女の霊体ですけどね。そう教えてしまったら佐伯は腰を抜かすだろうか、などと思いながら。
けれどリクはほぼ確信していた。
この少女は新田奈津美の言っていた“あやの”に違いない。
森の廃村で出会った少女の霊はあれから沈黙して語らないが、そうに違いないと。
そうであるならば、この新田奈津美との出会いは、必然なのだろうか。……それとも策略?
リクはもう一度日差しの強い通りにあるくずかごに視線を向ける。
光沢のある白亜の紙袋に反射した光が、目の奥に残像を残した。
◇
「島津です。今日帰国されたばかりでお疲れでしょう、長谷川さん」
ホテル最上階のカフェで顔を合わせた島津圭祐という男は、がっちりとした長身の体躯と、隙のなさそうな目をした男だった。
本日の長谷川の見合い相手だ。
互いにいい歳でもあるし、田舎の親抜きで会うことにしましょうと提案してくれたのは島津だった。
さっさと見合いを終わらせてシンガポールにとんぼ返りしようと思っていた長谷川には好都合だった。
何かとやかましい田舎の父にも、事後報告だけすればいいのだから気が楽だ。
島津圭祐は長谷川の4つ上の38歳。
高井戸警察署刑事課勤務というなかなかユニークな肩書きだったが、父親への義理で見合いをする長谷川にとって、相手の職業などどうでもよかった。
「警察官と見合いだなんて、気が進まなかったんじゃないですか?」
濃紺のスーツに身を包んだ島津は、筋肉質の体を椅子の背に凭れさせ、落ち着いた声で訊いてきた。
職業に似合わず小洒落た育ちの良さを感じさせる島津に、長谷川は少しばかり安心した。
小一時間話す分には、退屈せずに済むかもしれないと。
「長谷川さん。あなたのように生活力のある女性は特にね」
続けてそういった島津は、長谷川を見つめて困ったように笑う。
なるほど。
嘘をつかねばならない相手ではないことを悟ると、長谷川は更に警戒心を解き、口元で笑った。
「どうやら島津さんも断ることが出来なかったようですね。この見合い」
その言葉を受けての島津の笑顔は、いたずらがバレた子供のそれだった。
「親も歳だし気持ちは分かるんですが家庭をもつ心構えも時間も無い。今の部署に配属になってからろくすっぽ家でゆっくり休日を過ごしたこと無いですからね。今日ばかりはちゃんとした身なりをしてきましたが、いつもはひどいもんです」
「お察しします。私も似たようなもんですから」
長谷川も島津も、互いに見合ってひとしきり笑った。
そのまま二人は夕映えの街を見下ろしながら、郷里のことや差し支えの無い範囲で仕事の事などを語った。
第一印象で島津の事を隙の無いやりづらい男かと思っていた長谷川だったが、実のところ少々面食らうほどユニークで楽しい男だった。
「こんなに話が合うとは嬉しい誤算です。カフェでコーヒーなどでは無く、酒でも飲みたい気分ですね」と、島津が提案する。
長谷川も「いいですね」と同意した。
とは言え酒の時間にもまだ早く、結局そのまま20分ほど話し込み、茜色の空にうっすらと紫の帳が垂れこめて来た頃だった。
島津は仕事の話の延長で、思いも掛けぬ話題を振ってきた。
「長谷川さんは以前、美術誌『グリッド』の編集長をされていたと伺っています。ということは、もちろん、ミサキ・リクと言う画家のこともご存じですよね」
「ミサキ・リクが、なにか」
その名に一瞬で長谷川は体を緊張させ、身構えるようにして声のトーンを落とした。
無意識に作動してしまう体の反応だった。
「あ、いえ。深刻な話をしようと思ったわけではありません」
空気の変化に気づいたらしい島津が、表情を和らげた。
「一年半ばかり前のあの画家が関わった事件は、うちの署の管轄だったもので。僕は盗犯担当で実際にはノータッチだったのですが、署内では注目の人でしたから。あの時彼の特集が組まれていた『グリッド』を僕も読ませてもらいましてね。絵もそうだけど、きれいな顔をした青年だと思ったもんです。酷い事件の被害者だったので尚更印象に残っていまして。……なにか気に障ることを言ったのなら謝ります」
島津が少し申し訳なさそうに長谷川を見た。
その話題を振った事に特別他意は無さそうだと、長谷川は警戒を解いた。
もうあの事件は解決したというのに、リクの名を警察関係者から出されるだけで戦慄してしまう。
リクが受けた苦痛や悲しみを想い、胸苦しくなる。
立ち直れたのかどうか心配なくせに、鬱陶しがられるのが嫌でここしばらく連絡すら取っていないというのに。
まだ子離れが出来ていない親のようだと長谷川は自嘲し、知らず知らずのうちに握りしめていた両手の拳を緩めた。
ふと目を上げると、静かに自分を見つめている島津の視線があった。
やはり一般人と違う、内面を探るような目だ。長谷川はさりげなく視線を逸らす。
1年半前、9歳の頃のリクを殺そうとした男が捕まった。犯人は15年経ち再び出会ったリクを消そうとしたのだ。
その時すでに長谷川はシンガポールに転勤になっており、唯一リクのそばに居たのは役立たずの玉城だった。
もしもあの時自分がその場にいたら、怒りのあまりその犯人を殴り殺していたのでは無いかと、今でも思う。
リクはあの時、画家生命を危ぶまれる程の手傷を負ったのだ。
「長谷川さん」
深く落ち着いた島津の声に、長谷川は顔を上げた。
島津がゆっくりと表情を緩め、ほほえむ。
「ミサキ・リクさんとは、今でも親しくされているのですね」
「いえ。親しいと言うほどのことは。もうずっと会っていませんし、あれは人見知りの野生の鳥みたいな子ですから」
「鳥みたいな子……ですか」
島津は不意に声を漏らして笑った。
笑うような事を言っただろうかと眉を顰めると、ひとしきり笑った島津は少し身を乗り出してきた。
「失礼しました。でもあなたの反応を見ていると、少し悔しい気持ちになってきましてね。不思議なものです。どうやら、触れてはいけない部分に触れてしまったらしい」
「おっしゃる意味がわかりません」
「義理の見合いだし、小一時間で切り上げようと思っていたのですが、もう少し長谷川さんと話してみたくなりました。まだ時間的には早いが、場所を変えて少し飲みませんか?」
何を笑われたのか分からない事には不服だったが、誘いを断るほどの差しさわりでは無かった。
話題も教養も人間味も豊富なこの男に、興味が沸かないでも無い。
「最終便まででよければ」
何よりも、少し前に胸の奥に沸きあがった正体不明の熱を、誰かとの雑談で紛らわしたかった。
やはり、何かしていないと落ち着かないのだ。
あの青年の居る、この街は。




