第5話 契約という束縛
目の前の女性客は、挑むような目をしてリクを見つめて来る。
「すみません、オーナーが言ったように、この絵はもうお売りできないんです」
そう、言うだけ言ってはみたが、リクはやはりひどく後悔していた。
売約済みにすれば問題ないと気軽に考えていたのだが、目の前の女性客の気迫は、それで収まりそう
も無かった。
森で目にした少女の霊体を衝動で描いてしまった事、そしてその絵を人前にさらしてしまった事を改めて反省した。
「だったら一つ、教えてくれますか? この女の子は誰がモデルなんですか?」
「この女の子……。なぜ」
「私の知り合いにそっくりなの。目も鼻も口も、赤い浴衣も、そして金魚も」
「金魚も?」
リクはすこし首をかしげてみた。
金魚はリクが少女と一緒に受信したイメージの中に泳いでいたモノを反映したに過ぎない。
そんなものが、この少女が知り合いの子だと判断する鍵になると言うのだろうか。
実際リクには森で見たその少女と、この女が言う少女とが同じ人物であるかどうかの判断は出来なかった。
リクの感覚器が捕らえた少女の霊体は、一切の情報をリクに伝えては来なかった。
ただ、在りし日の幻影を視覚的に見せているだけで。
いや、リクが拾ってしまったと言ってもいいかもしれない。
そもそも彼らは情報を正確に伝える意思も伝達能力も、顕著には持たない。
霊体は残像を伝えるだけの幻影にすぎないし、霊魂と呼ばれる思念は、この世に留まっているものほどヘソ曲がりで時に負の念をもち、理路整然としたメッセージを伝えることなどほとんどない。情念の塊であり、生身の人間の心身に悪影響を及ぼす場合も多い。
小さな頃からなぜか負の念を持つ霊に好かれ、常に振り回され気持ちを乱されてきたリクは、怯えて逃げることに精一杯で、好んで彼らにアクセスすることは決して無かった。
除霊やアクセスの遮断も、学習しなかった。
ただ、そこに居るのを感じ、無視する。放置する。あえて関わることを避けながら生きてきた。
リクにとって霊たちは、空に浮かぶ雲や風や嵐と同じ、自然の一部に過ぎない。
優しい物も、荒くれ者もいる。時には腹をすかせた野生のヒグマのような輩もいて、逃げきれなかったりもする。そんな時はもう飽きるまで食われてやるしかなかった。
以前長谷川に『丸腰なんだよ、あんたは』と、たしなめられたが、まったくそうだなと少し笑えた。
「他人のそら似なんかじゃ絶対にないわ。これは絶対あやの。そうなんでしょう?」
「あやの、という人に似てるんですか?」
「似てるなんてもんじゃないわ。はっきり覚えてるもの。16年前に行方不明になってる私の同級生よ」
「行方不明?」
少しばかりリクはドキリとした。それは今はもうこの世に居ないと言うことなのか、と。
「どこで?」
「そんなこと知らないわよ。逆に訊きたいわね。13歳のあやのの絵を、どうしてこんなに鮮明に描けるの? 写真を手に入れたの? それとも……」
「いえ、本当に、ただ沸き上がってきたイメージの女の子なんです。モデルがいるわけではありません」
さらりと嘘をついてみた。
ムキになって食い下がってくるこの女の真意は何だろうと、少しばかり興味を抱きながら。
「本当に? 金魚もイメージなの?」
「金魚が、なにか?」
「あやのは、金魚だから」
女がこぼした言葉に再び首を傾げようとした瞬間、リクの中で何かがぐるんと翻った。
再び自分の体の異変にドキリとする。
何かが反応した。
「ねえ、ミサキさん、あなたいくつ?」
唐突な質問に、リクは隣にいた佐伯と一瞬目を見合わせた。
佐伯が、もう関わらない方がいいとばかりに首をわずかに振った。
「……26です」
「私よりも三つ年下か。じゃあ、13歳でいなくなる前のあやのと親しかったという訳じゃないわよね。ますます不思議だ」
「本当に、他人のそら似なんです」
「あやのの幽霊が、あなたのところに行ったのかな」
女はおもしろそうにアハハと笑ったが、リクは笑わなかった。横で佐伯が再び首を振る。
もう我慢がならないといったため息をつき、佐伯が一歩女に歩み寄ったのと同時に、女はきっぱりとリクに言った。まるで命令のように。
「じゃあ、この絵はあきらめるけど、これと同じ絵を、私に描いてちょうだい。いいでしょ?」
「……」
リクは無言で女の顔を見る。
「あの、申し訳ないですがそういうご契約は……」
佐伯がいつになくムッとしたように間に入ったが、女はお構いなしに、逆にリクの方に一歩踏み出した。
「画家は絵を売るのが仕事なんでしょ? ねえお願い。私のためにこれと同じ絵を描いてよ。あやのの絵を」
リクは改めてその我の強そうな女を見つめた。
その唇から「あやの」という名前が出る度に、胸のあたりで反応する気配があった。
うっすらとこの体に残った少女の思念が残響として呼応しているのに違いない。
やはりこの少女は、行方不明になり16年前に命を無くした「あやの」なのかもしれない。
だとしたら、友人だと名乗るこの女の元に返してやるのは、悪いことでは無いのかもしれないと思った。
「わかりました。少し小さな号数でよければ、お描きしましょう」
佐伯が驚いた表情でリクを見るのと、女が「ありがとう」と、満面の笑みで礼を言って来たのは、ほぼ同時だった。
「私、新田奈津美と言います。連絡先も教えておいた方がいいわよね。支払いはどうしたらいいのかしら。絵が描けたら、引き取りに伺ってもいい? あ、ねえ、もしよければ、アトリエに遊びに行かせていただいてもいいかしら。お住まいは都内なの?」
新田奈津美は嬉々とした様子でリクの連宅先や住所を訊いてきた。
流石にもう佐伯は黙っていない。
「そういうことは困ります。一応ギャラリーを通していただかないと。直接のそういう交渉はご遠慮ください」
温和な佐伯でも腹を立てることがあるのだと、リクは少し笑いそうになった。
それでもキリリとして紳士的に答える佐伯の良く通る声を聞きながら、リクは何気なく視線を下ろして奈津美の手元を見た。
ぶら下げていた浅い紙袋の中に、見覚えのある横縞を捕らえる。布製の財布だ
玉城の使っていたものと同じだな……と、ぼんやり思う。
「うっさいなあ。ねえ、いいわよねミサキさん。絵描きさんはギャラリーの専属って事はないんでしょう? 別にここを通さなくったって、好きなように客と交渉していいはずよ。だからあなたが決めてちょうだい」
急に強い声が自分に飛んで来て、リクはびくりと視線を奈津美に戻した。
その自信にあふれた強い目元に一瞬気押され、同時にある種の逃れられない束縛を感じた。
「私のためだけに描いてちょうだい。私の見ている前で。これと同じ女の子の絵を。できるわよね」
絵を愛好する人間の目とは、どこか違って見えた。
行方不明になった少女に酷似した絵を、今更金を出してまで欲しいと思うものなのだろうか。
それとも、この絵を描いた自分が、少女の行方を知っている、あるいは関わっているとでも思っているのだろうか。
刹那、自分本位で威圧的なこの客に、様々な疑問がわき上がってきた。
今までならば迷わず佐伯に断ってもらっていたはずの、リクの苦手とするタイプの女との交渉だ。
気持ち的には、すでに逃げ腰だった。
けれど気づけばリクは、その女、新田奈津美の要求をすべて承諾していた。
連絡先を、奈津美が差し出したメモ帳に、走り書きする。
すぐ横で、佐伯が信じられないとでも言うように首を横に振った。
ああ、また何かに動かされている。今度は何だ。
自問するリクに何かを語るように、絵の中の華奢な少女が視線を投げてくる。
リクは心の中で少しばかりため息を吐いた。
《ねぇキミは あやのという 名前なの?》
リクが心でそう尋ねると、心臓あたりで熱を帯びた何かが再びグルンと翻った。