第4話 遠い日の甘い痛み
新田奈津美は都内で一人暮らしをしている、29歳のごく普通の会社員だ。
短大を卒業してから3回も転職し、腰の落ち着かない生活ではあったが、特に金銭的に困っているわけでも、スリを常習しなければならない理由もない。
本人はその行為を癖のようなモノだと分類していた。
もともと手癖が悪く、人の物を自分のモノにすることに大きな罪悪感を抱かなかった奈津美が、ひょんな事からスリの技を習得してしまったのだ。
その技を試してみたくなるのは当然の流れだったかもしれない。
普段は財布をスるなどという行為はほとんどしない。
今日のように「どうぞ取ってください」的に目の前に差し出された獲物はありがたくいただいてしまうが、リスクを冒してまでそんな無粋な窃盗はしない。
けれどそれが美しいモノであれば別だ。
そう、美しいモノ。
心を魅了するものに焦がれ、手に入りにくいモノほど手に入れたくなる。懐に抱きたくなる。
自分の欲望には何よりも忠実だった。
9月中旬だというのにこの日も日差しが強く、街路樹の陰を縫うようにして奈津美は歩いた。
出掛けたついでに、この近くの百貨店で展示されている世界最大級のピンクダイヤをひと目見てから帰ろうと思ったのだ。
世界中の女性を虜にするという宝石が自分をも魅了するのかどうか、少しばかり興味があった。
そのうち歩道は煉瓦造りの落ち着いた雰囲気に代わり、ヨーロッパ調に統一された通りに入った。
楓の街路樹は濃く、涼しげな陰を作る。
見覚えのない通りだった。
ここはどこだろう、道を間違えたのだろうかと視線を泳がせた奈津美のすぐ横を、ふわりと鮮やかな朱色が泳いだ。
--- 金魚 ?
奈津美は目だけをちらりと動かす。
すれ違った痩せた女が首に緩く巻いているシフォンスカーフだ。
女が動くたびに揺れる鮮やかな色彩。
あやの……。
緩やかに遠い記憶の中に浮かぶ、美しく儚い少女の柔肌を思い出し、体の芯が疼いた。
赤い浴衣、ふわりと透ける子供用の朱色の帯。
あやのの差し入れた、細く白い指の間を愛撫して滑り抜ける、金と赤の鱗。
夏になると毎年よみがえる13歳の頃のクラスメートの思い出。
けれど削除してしまうべき記憶だった。
彼女はもういないのだ。いなくなってしまった。自分の手の中から。そしてたぶん、この世から。
唯一手に入れることの出来なかった美しい少女。
空しいだけ。敗北を感じるだけなのに、まだシミのように心に張り付いている。
もう愛情も興味も失せたはずなのに、心に張り付いたままなのは、やはり少女の残像の美しさのせいだろうか。などと自分の気持ちを探ってみる。
きっと今朝、アクアリウム展などに足を向けたからだ。
金魚はどうしてもあやのを連想させる。
ため息をつきながらテラコッタの歩道を南に下ろうとした、その時だ。
目の奥で、今度こそ金魚が翻った。すぐ横の画廊の中に、あやのが居たのだ。
額に納まったあやのが、あの赤い浴衣を着て、こちらを静かに見つめていた。
いったい何の冗談なのか。それとも起きたまま夢を見ているのか。
心臓をぎゅっと絞られた痛みを感じて思わずガラスに張り付き、絵を眺めた。
水中のような薄暗く揺らぐ空間にたたずむ少女。ひらひらとその頬をかすめるのは蝶ではなく、2匹の赤い金魚。
まるでそれらは宗教画のアトリビュートだ。この少女があやのであると呟いているようにさえ見える。
いったいなぜ16年前に行方不明になった自分の友人が、当時の姿そのままに、この目の前の絵の中に収まっているのか。
奈津美は目をこらして作者情報の書かれたプレートを見た。
題名は『緋色幻想』。
作者の名は、ミサキ・リク。
◇
リクはちらりと公園の時計を見た。
時刻は4時を回っていたが、日差しはまだ強く、アスファルトの照り返しはめまいを誘う。
それでもやっとたどり着いたギャラリー『無門館』は、ほどよい温度と照明でリクを優しく迎えてくれた。
絵に一番いい空調は人にも優しいのだと、ギャラリーのオーナー佐伯が言っていた言葉を思い出す。
リクはホッと息をついた。
『また個展をやりましょうよ、リクさん』
『いいワインが入ったんです、送りますよリクさん』
『たまには夕食でも一緒にどうです? リクさん』
リクが携帯を持つようになってから、佐伯からのメールが頻繁に来るようになった。
佐伯はリクの才能を誰よりも買い、この画廊から名を売ってくれた恩人だ。
『グリッド』の編集長だった頃の長谷川から、ことあるごとに「あのおっさんはリクに気があるから注意しなよ」とよく分からない忠告を受けていたが、品格があり物腰の柔らかい初老のこの男を、リクはとても信頼していた。
そしてもちろん、その長谷川のことも。
現代芸術家としてリクが多くの愛好家に認知されるようになったのも、長谷川が『グリッド』で取り上げてくれたお陰なのだ。
「違うね。グリッドがあんたの力を借りて業績を伸ばしたんだ」と長谷川はいつも言うのだが。
そういえば長谷川はシンガポールで元気にしているだろうか。ギャラリーへ続く自動ドアを抜けながらリクは、ふとそんなことを思った。
長谷川の事を思う度に、胸の奥に郷愁にもにた説明しがたい感覚が沸いてくるのだが、「またメールするから」と言いつつ、この1年まるでメールをくれていない。
グリッドの編集を降り、仕事の関わりの無くなった今、長谷川はきっともう自分のことなど忘れて、シンガポールで新たなプロジェクトに没頭しているのに違いない、と少しばかり空虚な気持ちでいた。
「リクさん、いいところに」
ドアを抜けるとすぐに、少しばかり声を潜めて佐伯が近づいてきた。
今日も宮廷の執事長のような柔らかな物腰だ。
「あなたの絵にご執心の方がいらっしゃいましてね。どうしても作者に会いたいとねばってらして。あの女の子の絵について聞きたいことがあるようで」
銀縁のめがねの奥で困ったようにリクを見、そしてフロア中央に目を移す。
探すまでも無く、客の姿は一人だけだった。
セミロングの中肉中背の女が一人、窓辺に掛けられたリクの絵の前で固まっている。
そう表現した方が適切なほど、女はぴくりとも動かない。
リクの絵はこの日、二日前に搬入したばかりのその12号の絵しか無かった。
それも、売るつもりの無かった絵だ。
『緋色幻想』と題したその絵は、2週間ほど前に森の廃村で出会った少女の霊体を、衝動的に描いたものだった。
売るつもりなど毛頭無かったのだが、リクの家に立ち寄った佐伯に、売約済みとしてでいいので、是非飾らせてほしい言われたため、断れなかったのだ。
モデルがモデルだけに気乗りはしなかったが、佐伯の頼みだけは、いつでも出来るだけ聞き入れたいと思っていた。
「売約済みの絵なんですと言ったんですが、あの方が、それなら作者に会うだけでいいですから、といって引かないもので。困ってたんです」
佐伯は、申し訳なさそうにリクを見る。
この画廊と契約するとき、極力自分のプライベートは人に話さないでほしいし、客と直で会うことも避けたいと伝えていたため、佐伯は誠実にそれを守っていてくれたのだ。
この2年の出来事で、頑なだったリクの心は少しだけ解放されたのだが、そうやって人見知りのリクを思いやってくれるこのオーナーの気遣いがリクには嬉しかった。
「ありがとうございます、佐伯さん。後は僕が」
もうこの世にいないはずのあの少女の絵を食い入るように見つめる女に、リクもまた少し興味を抱きながらゆっくりと歩み寄った。
その気配に気づいたのか、絵に張り付いていた女がリクの方を振り返った。
ピチャン。
リクの中で、何かが翻った。
一瞬感じた妙な目眩にリク自身が驚き、2、3度瞬きをしてやり過ごす。
「あなたが、ミサキ・リクさん?」
自分よりも年上。30歳前後だろうかと感じた。
眼差しのきつい、目鼻立ちの整った顔。
隙のない冷たさを感じさせる、どちらかというと、リクの苦手なタイプだ。
けれど何か今までに感じたことの無い感情がリクを内側から刺激していた。
知らない女のはず。それなのに、なぜ……。
◇
後ろから近づいてきたのがミサキ・リクだと思ったのは、奈津美の直感だった。
この少女の絵を描いたのはこの青年であってほしい、と心の中で願ったといった方が正しいかもしれない。
見た瞬間胸に電気が走る様な感覚を伴うほど神聖な美しさを持つその青年は、少しばかり驚いた目をして奈津美を見た。
男に対して「美しい」と思ったことは、奈津美にとって初めてのことで戸惑いはあったが、「YES」の代わりのその初々しい反応を、奈津美はとても気に入った。
“あやの”の絵を描いたのはやはりこの青年なのだ。
画廊に飛び込み、間近で眺め、改めて奈津美は背筋の凍る思いがした。
やはりあやのに違いない。自分が中1の時、ほんの数ヶ月だけクラスメイトであった転校生の少女、あやのなのだ。
人形のように清らかで美しいのに、人とコミュニケーションを取ることが苦手で、孤立していた病気がちの少女。(心臓に持病があったと記憶している)
中1のクラスの女子たちが男子の話で盛り上がっている頃奈津美は、体調のいいときだけひっそりと授業に参加するその少女を見つめていた。
男などガサツで不潔で野蛮な生き物。いったいどこがいいのかさっぱり理解不能だった。
そんな男子どもに夢中になる女子のことも、奈津美は軽蔑した。
馬鹿みたいに黄色い声でキャーキャー騒げばいい。
あんたたちもみんな低脳なメス豚だ。
同類同士、幼稚な恋愛ごっこをして汚らしい性交をして楽しんでいればいい。
いつしか奈津美自身も女子たちと孤立し、そしてますます消えそうに儚いあやのにばかり、目が行くようになっていった。
柔らかそうな白い肌。淡いさくら色をした唇。涼やかな目。
誰も居なくなった放課後の教室で、自宅からの迎えの車を待ってポツンと座っていたあやの。
燃えるような夕焼けに包まれて、色づいた果実のように甘い匂いを発していた、美しいあやの。
誰のモノでも無い、友人など一人も居ないあやのを、自分のモノにしたいと奈津美は思った。
誰にも触らせず小さなガラス瓶に閉じ込めて、毎日眺めていたいと思った。
「あやのちゃん」
誰もいない教室で声をかけ、大きな黒目がちな瞳が自分を見上げてきたときのキュンとした痛みが忘れられない。心臓……いや、子宮が震えるような感覚。
思わずその唇に口づけていた。
ぴくりと跳ねた細い肩に手を置き、右手でそっとその小ぶりな頭を抱え込んで、柔らかな唇をついばんだ。
「大丈夫、大丈夫」
赤ん坊に言うように囁いてから顔を離すと、瞬きもせず濡れた目で奈津美を見上げてきた。
「友達にならない? あやの。私の友達は、あなただけでいいの」
そう言った後、あやのの細い手首をそっと掴んだが、あやのは拒む事をしなかった。
ただじっと戸惑ったように、奈津美を見上げているだけだった。
この子は手に入れられる。小さな小瓶の中に、もう納めたつもりでいた。
きれいなきれいな、自分だけのあやの。
けれどもきっちりとふたをするのを忘れていたのだ。
「お前はいつも詰めが甘いんだよ」と、奈津美にスリのテクニックを教えてくれた女が言っていた。
確かに詰めが甘かった。
熟して熟して完成形間際になったところで、永遠に失ってしまった。
手に入れようとすると、すぐに死んでしまった、あやのの金魚たちのように。
「絵を気に入っていただけましたか」
回想を脇へどけ、ほんの少し鼻に掛かる甘みのある声で話しかけてきた青年を、奈津美は改めて直視した。
すらりとした均整のとれた体。端正な容姿。
これが、あやのの絵を描いた画家、ミサキ・リク。
男など不潔な存在だとしか思わなかった自分の心を、初対面で持って行ってしまった青年。
おもしろい。奈津美は心の中でにやりとした。
これから自分はこの青年と関わっていくのだ。この絵を軸として。
なぜ、16年前に失踪したあやのを、こんなに鮮明に描けるのか。
そしてなぜ、今、描くのか。
知人や親族ではあり得ない。
死んだかもしれない少女を、こんなふうに描ける訳が無い。
だとしたらあなたは何なのだ。
あやのの失踪に関わったのならば、見逃しはしない。
他人のそら似ではあり得ないのだ。この顔、浴衣の柄、金魚。すべてがあやのを示している。
この男を探ってみたい。
「この絵、売っていただけませんか? ミサキさん」
静かにこちらを見つめてきた色の薄い瞳に、奈津美はもう一度胸を捕まれた思いがした。
そして下腹がじんとする、懐かしい痛み。
あの夏の日。
あやのの白い体を抱きしめた時に感じた、甘く狂おしい痛みに似ていた。