第2話 本日の玉城
玉城は口を開けたまま四方を見渡した。
パープルとバイオレットのライティングの中、赤や黄の金魚たちがヒラヒラ飛び回っている。
囁くような音量で幻想的な曲が流され、多くの客がいるにもかかわらず、会場は計算されつくした静謐感で満たされていた。
さまざまな品種の金魚たちを使ったアート空間、ファンタジア・アクアリウム展は、なるほど噂に違わぬ美しいイベントだった。
大東和出版の月刊情報誌『TOPICa』のライターとして、カメラマンと一緒に取材に訪れた玉城は、暫しその空間を浮遊する貴婦人たちをうっとり眺めていた。
今日は朝から少し微熱もあり体調が心配だった玉城だが、まるで羊水に浮かんでいるような絶妙の湿度と空調に、体の方も癒やされていく気がした。
「ちょっとしばらく刺身が食えそうにないです、僕」
ひと通り写真を撮り終えたカメラマンの西川がそう言うと、「あ、おんなじこと思いましたよ。僕も」と、玉城は笑って返した。
確かに美しい。
動くオブジェと化した金魚たちが無垢な様子で、演出された空間を泳ぐ様に目を奪われる。
金魚すくいで掬ったちっぽけな和金をバケツで飼っていた子供のころの昂揚感は無かったが、たぶんここにあるのはそれとは別の「美」なのだろう。
愛でるために作られた生命体。観賞用の命。
美しく、更に美しくと品種改良された金魚たちを見ながら、そんなことは記事には絶対匂わせられないな、とも思った。コンセプトは『ファンタジー』なのだから。
ひと通り撮影を終えたあと、イベント記事の掲載を快諾してくれた主催者に挨拶するため、玉城と西川はスタッフルームに立ち寄った。
けれど何やら裏方は慌ただしい雰囲気で、狭い通路を行き交うスタッフ、そして警備員のすがたも見える。
渋り顔のプロデューサーを捕まえて事情を訊くと、驚いたことに金魚が盗難に遭ったという。
盗られたのは『緋柳』という、本邦初公開の貴重な金魚2匹だった。
『緋柳』は秋金の変種であり、10年かかってようやく作成された美金らしい。
展示中に元気がなくなり、裏の水槽で様子を見ていたところ、いつのまにか2匹とも消えていたという。
プロデューサーが見せてくれたリーフレットには、赤、金、白の鮮やかなグラデーションを持つ、妖精のような金魚が映っていた。
「金魚なんか盗む人がいるんですか?」
小学生の様な玉城の素朴な質問に、プロデューサーは「この業界では珍しくないですよ」と、さらに渋り顔を作った。
「緋柳って金魚はさすがにちょっときれいでしたね。安ければ飼ってみたいレベルで」
会場を出たあとカメラマンの西川は小声で言った。
「西川さん、アクアリウムの経験は?」
「子供のころ金魚すくいは得意でしたよ。でも翌日には全部死なせちゃったんで、経験値ゼロです」
「ボクも同じレベルです。なんか金魚って、死なせちゃっても『あ~あ』っていう感覚だったんですよね。今じゃ、すごく可愛そうな事したって思うんだけど。まあお互い、金魚だけは飼わないほうがいいですね」
けれども水の中でスイスイと泳ぐ鮮やかな赤い生き物は、手に入れて身近なグラスの中にでも泳がせてみたいという、ちょっとした欲望を抱かせる。
あれはなんだろうと、玉城は首を傾げた。
野の花を手折りたい衝動とも、似ているが少し違う。命ある、小さな美の化身。
掻き立てられるのは、所有欲というものなのだろうか。
今日の取材とはあまり関係ないそんなことで頭を満たしながら、玉城は会場を出た。
別の仕事に向かうカメラマンと別れ、自宅へ戻るべく駅に向かう。
玉城の自宅兼職場であるボロアパートで、このあとはひたすら原稿の執筆だ。
「あ」
玉城は地下鉄へ降りる階段を通り過ぎたあたりで立ち止まった。
そう言えばカメラマンから受け取った、最新『グリッド』と『TOPICa』のバックナンバー数冊を、地下鉄のコインロッカーに入れっぱなしだった。
最新の『グリッド』には、久々に取材を受けたリクの記事が掲載されているらしい。
取りに行こうかどうしようか迷いながらふと立ち止まった玉城だったが、その瞬間、「きゃっ」という甲高い声とともに、何かが背後から追突してきた。
ぶつかって来た「それ」は、がさがさと音を立てて玉城の前に転がり、そして明らかに怒りを含んだ形相で睨みつけてきた。
「急に止まんないでよ!」
玉城よりかなり年上だろうか。
目鼻立ちははっきりしていて美人の部類だとは思ったが、玉城には瞬間、牙をむいた蛇に見えた。
「すみません、大丈夫ですか!」
慌てて差し出した手をまるで汚い物のように一瞥し、女は立ち上がった。
自分が落としたショルダーバッグとショッピングバッグを拾い、最後にもう一度玉城を睨みつけた後、「ボーっとしてんじゃないよ、バーカ」と罵声を浴びせたあと、フンとばかりに踵を返し、目の前のビルに消えて行った。
何だか自分が汚く醜い毛虫にでもなったようなショックを抱きながら、しばらく女が消えたドアを眺めていた玉城だったが、ぶんと頭を振って、地面に落としてしまったバッグとコインロッカーのカギをゆっくりと拾う。
猛烈に腹が立ったし、いつもの玉城なら「ちょっとあんた!」くらいは言い返しただろうが、今朝方からの気だるさも手伝って、その元気はなかった。喉の奥が痛む。
こんな季節に風邪だろうか。
腹立たしさと傷ついた自尊心をぐっと胸にしまいながら、玉城はショルダーバッグの汚れを手で払った。ロッカーの荷物は今度通りかかった時に回収しようと決め、鍵を再びバッグにしまい込むと、中央線の駅方向に歩き出した。
まだ日差しは強く、セミの鳴き声もしぶとく玉城に降り注ぐ。
気だるさは歩くごとに増し、さっきぶつかりかけた女の耳障りな声が脳裏にイタズラに浮かんでくる。
「ああ、ムシャクシャする」
ひとりごちて街路樹の下を歩く。
こんな日は誰かに思いっきり愚痴を言うに限る。同僚がいないというのは、こういう時つらい。
仕事を少し片づけたら、今夜はリクを家に呼んで部屋飲みしよう。そうだ、そうしよう、と玉城はその名案に満足した。
『グリッド』の取材を受けたのを内緒にしていた事を責めてやろう。
そして、長谷川が抜けた後の『グリッド』の様子を、少しばかりリクの口から聞きたいと思った。
リクは本当の所、どう思っているのだろうか。
長谷川のいない『グリッド』を。長谷川がいないこの状況を。
そして長谷川は……。
玉城の脳裏にポンとあの大柄な凛々しい女性が浮かんできた。
リクへの恋心を母性本能だと未だに勘違いしているあの人は、自分のいない『グリッド』で取材を受けたリクの記事を見て、何を思うのだろうか。
何とはなしに玉城は携帯を取り出した。
長谷川のアドレスを開いて、手遊びに文字を入力する。
〈先月号のグリッド、読みました?〉
入力した後、改めて文面を見てなんだか笑ってしまった。
こんな質問されたって長谷川は困ってしまうだろう。
消そうとした。……のだが、手元が狂って送信してしまった。
「ああ……」
風邪のせいなどではなく、めまいがした。
そのほんの数分後、少し重い体を駅の改札に滑り込ませたとき、長谷川からの返信があった。
この早さは機嫌を損ねてしまったからに違いない、と思いながら恐る恐る開いたメールには、意外にもあっさりとした文章が並んでいた。
《見たよ。いい記事だった。玉城の記事じゃないのが残念だったけどね。それよりさ……》
あっさりし過ぎのところに少しばかり寂しさがうかがえる。
《日本もやっぱりまだ暑いね。ついさっきこっちに着いたんだけど》
日本に? 休みなのだろうか。
下がり切っていた玉城のテンションがぐっと上がる。
〈早く教えてくださいよ! 今夜飲みに行きませんか? リクも誘って〉
《せっかくだけどこれから人に会う約束があってね。その後でたぶん今日中に帰る》
〈リクに会わないんですか!〉
《今回はね》
今回もでしょう。あなたは2年前日本を発ってから本当の意味でリクには会っていない。思わず玉城は携帯につぶやいた。
〈仕事なら仕方ないですけど〉
《今回は見合いなんだ。さっさと片付けてシンガポールに帰る。あんたとも飲みたかったんだけどね》
……見合いってどんなディスカッションだっけ、と刹那思った後、単語を理解して玉城は携帯を落としそうになった。
慌てて電話に切り替える。
「なんで見合いなんかするんですか!」
『なんで玉城に怒られなきゃなんないんだよ!』
久しぶりの長谷川の低くドスの効いた声を聞きながら玉城は、そりゃそうなんだけど、あなたこそそれでいいんですか!? ……と心の中で叫ぶ。
結構本気で泣きそうな気分だった。